[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ダイワスカーレットは2004年5月13日、千歳・社台ファームにて生まれた。父
アグネスタキオンは現役時4戦4勝。無敗で皐月賞を制してダービーを前にして屈腱炎で引退を余儀なくされた。その父は日本競馬界に大きな足跡を残した大種牡馬サンデーサイレンスで、母は桜花賞馬
アグネスフローラである。その母
アグネスレディーもオークス馬である。
アグネスタキオンの全兄
アグネスフライトはダービー。大きな可能性を感じさせる勝ちっぷりと、魅力十分な血統背景とあって、サンデーサイレンス亡きあとの後継種牡馬として大きな期待を集め、主な活躍馬としてはNHKマイルカップを勝った
ロジック、NHKマイルカップとダービーを連覇した
ディープスカイ、エリザベス女王杯を勝った
リトルアマポーラなどがいる。母スカーレットブーケは京都牝馬特別、中山牝馬Sの重賞勝ちを含む通算21戦6勝。
イソノルーブル、
シスタートウショウ、ノーザンドライバ、ミルフォードスルーなどが出走し、史上稀に見るハイレベルと評された1991年の桜花賞の出走馬で、スカーレットブーケも3番人気に支持され、4着であった。しかしスカーレットブーケは同期馬を遥かに凌駕する繁殖成績を残した。サンデーサイレンスを父とする3番仔
ダイワメジャーは皐月賞、天皇賞・秋、安田記念、マイルチャンピオンシップ2回とG1級競走を5勝する大成功を収めた。ダイワスカーレットは4番仔であった。母スカーレットブーケの父ノーザンテーストは社台ファームが輸入したノーザンダンサー直仔の種牡馬で、
アンバーシャダイ、
ギャロップダイナ、
シャダイアイバーなど、今日の社台ファーム隆盛のきっかけとなる大成功を収めた。
父親と同じ栗毛に出たダイワスカーレットは、大城敬三氏の持ち馬となり、栗東・松田国英厩舎に入厩した。ダイワは大城氏の冠名でスカーレットは母馬に由来する。スカーレットは花の名前であると同時に、マーガレット・ミッチェル作の小説「風とともに去りぬ」の男勝りの主人公スカーレット・オハラに由来すると思われる。初出走は、2006年11月16日京都競馬の新馬戦。鞍上の安藤勝己騎手のほぼ手を動かすことなく楽勝した。この日は兄
ダイワメジャーがマイルチャンピオンシップを優勝した日でもあった。続く中京2歳ステークスも快勝し、2戦2勝で2歳競馬を終えた。
2007年3歳となったダイワスカーレットは
シンザン記念から始動。1番人気に支持されたものの、中京2歳ステークスで負かしたアドマイヤオーラの2着に敗れた。続くチューリップ賞には前年阪神ジュビナイルフィリーズを制して2歳女王に輝いた
ウオッカが出走していた。ダイワスカーレットは2番人気であった。これまでのように先行策から抜け出してゴールを目指すも、
ウオッカの差し脚に首の差敗れた。
第67回桜花賞は2007年4月7日、晴・良馬場の阪神競馬場で開催された。阪神競馬場は昨年末より外回りコースを新設して、周回距離を400mを従来より延長し、直線も約100m伸びて450mとなっていた。この改修の主目的は桜花賞の施行される1600mコースがスタートから2コーナーの距離が短すぎて、乱ペースになりやすく、実力馬が本来の力を発揮できないとされていたからであった。今回の改修でスタートは向正面中間となり、緩いコーナーを回って、長い直線を迎えることになった。桜花賞の戦い方を一変させる新コースは、今回の桜花賞が初使用であった。1番人気は
ウオッカであった。昨年、桜花賞と同一コースで開催された阪神JFを快勝しており、しかもライバルと目されていたダイワスカーレットを、これまた桜花賞と同一コースのチューリップ賞で退けていた。ダイワスカーレットは評価を下げて3番人気であった。3歳になって未勝利、先行馬にとって不利な大外18番枠というのも嫌われた要因であったろう。ダイワスカーレットの鞍上の安藤勝己騎手は前走の結果から、瞬発力勝負では
ウオッカに太刀打ちできないと判断し、積極的に前に出て
ウオッカの追い込みを封じる策にでた。好スタートから先手を奪うと、2番手につけた。旧コースならこうは楽に先行できなかっただろうし、3・4コーナーが非常に緩いのも先行馬にとって有利だった。ただ直線が長いのが不安点であった。しかしダイワスカーレットは粘り腰を見せた。直線の坂で迫られながらも、猛然と追い込んだ
ウオッカを1馬身退けたのである。新コースの特性とダイワスカーレットの先行力を把握していた安藤騎手と陣営の勝利であった。また皐月賞を制していた兄
ダイワメジャーとともに兄妹クラシック制覇を達成した。
次に予定していたオークスは、
ウオッカがオークスを回避してダービー挑戦を表明していたため、俄然有力視されたが、感冒のため出走を取り消した。そのオークスを勝ったのは
ローブデコルテ。しかしオークス出走馬のその後の成績を考えると、もしダイワスカーレットが出走していれば、勲章が一つ増えていた確率がごく高かったであろう。ダイワスカーレットは山元トレーニングセンターへ放牧に出されて秋に備えた。
3歳秋はローズステークスから始動。オークス2着のベッラレイアがライバル視されたが、あっさり退けた。
第12回秋華賞は晴良馬場の京都競馬場で行われた。今回も
ウオッカがライバルとして立ちはだかった。
ウオッカは
クリフジ以来64年ぶりに牝馬によるダービー制覇を達成し、余勢を駆って出走した宝塚記念は9着だったものの、3歳牝馬限定で後れをとるはずがないとファンは考え、1番人気に支持した。ダイワスカーレットは桜花賞で
ウオッカに完勝していることは評価されず、新馬戦以来の2000mとあって2番人気であった。しかしダイワスカーレットは強かった。いつものように先行して抜け出す横綱競馬でレインダンス以下に1馬身差で快勝した。
ウオッカは京都の直線が短すぎたのか4着に追い込むのがやっとだった。
第32回エリザベス女王杯は晴良馬場の京都競馬場で行われた。ダイワスカーレットは当初マイルチャンピオンシップで兄
ダイワメジャーとの対決も匂わせていたが、手堅く牝馬限定のここに狙いを定めた。当初このレースには
ウオッカが出馬登録していて、前売りで断然の1番人気に支持されていた。しかし
ウオッカがレース当日に出走を取り消し。押し出されるようにダイワスカーレットは1番人気に支持された。
ウオッカがいないとはいえ、前年の覇者
フサイチパンドラや前々年の覇者スピープトウショウなど、実力のある古馬牝馬が出走していて、簡単に勝てる相手ではないのは明白であった。ダイワスカーレットはこれらの歴戦の牝馬を問題にしなかった。いつも通りに先行して抜け出すと、
フサイチパンドラを2着、
スイープトウショウを3着に沈め、現役最強牝馬の1頭と認識されるようになった。ただ同世代の
ウオッカとどちらが強いかは、直接対決の結果だけでは推し量れないものがあった。
ウオッカとの決着をつけるべく出走した有馬記念には兄の
ダイワメジャーも出走していて、兄妹対決として話題となった。ファン投票では兄が3位で妹が4位。しかし兄の6番人気に対し5番人気であった。これは両馬で主戦を務めていた安藤勝巳騎手がダイワスカーレットを選んだことも影響していた。しかし2000mまでの実績しかない兄に対して、天皇賞春秋連覇を達成した
メイショウサムソンをはじめ一流牡馬と初対決とはいえ、妹のほうが勝算が高いと考えられた。ただ長い有馬記念の歴史で3歳牝馬で制したのは
スターロツチのみ。さすがに勝利は難しいと思われていたのも事実であろう。ダイワスカーレットは果敢に逃げたが、内からノーマークだった
マツリダゴッホの抜け出しを許し2着に敗れた。兄
ダイワメジャーは3着で、兄妹で馬券に絡んだ。
マツリダゴッホがいなかったら、G1史上初の兄妹ワンツーが実現していたかもしれない。翌年のJRA表彰では、ダービーを制していた
ウオッカを差し置いて、最優秀3歳牝馬と最優秀父内国産馬として表彰された。
4歳となったダイワスカーレットはドバイ遠征が計画されていた。しかし調教中に木片が右目に入り、創傷性角膜炎と診断された。遠征は白紙にされ、2008年4月大阪杯から始動した。ここには天皇賞・春を目指す牡馬が出走していたが、同年の宝塚記念を制することになるエイシンデュピティ以下に完勝した。その後、ヴィクトリアマイルを目標に調整されたが、右前脚管骨骨瘤を発症したため、春シーズンは全休することになった。
ダイワスカーレットの4歳秋は天皇賞・秋から始動した。半年ぶりの実戦、初めての東京競馬場と不利な条件があったが、大阪杯での完勝ぶりと
ウオッカと互角以上の戦いぶりを評価されて、
ウオッカに次ぐ2番人気に支持された。この年の天皇賞・秋は全出走馬が重賞勝ち馬という有馬記念でも滅多にない豪華版だった。ダイワスカーレットは好スタートから先頭を奪ったが、トーセンキャプテンに後ろから競りかけられる苦しい展開となった。並の馬なら沈んでしまう展開だが、ダイワスカーレットの粘り腰はここからだった。ゴール前100mでも先頭を譲らず、勝利は目の前にあったが、外から猛追した
ウオッカと横並びでゴールした。肉眼では全く優劣がわからず、15分間に及ぶ写真判定の末、僅か2センチの差でダイワスカーレットは敗れた。しかし久々で素晴らしい粘りを見せたダイワスカーレットに惜しみない賞賛が贈られた。
第53回有馬記念は2008年12月28日中山競馬場で開催された。激走した天皇賞・秋の反動を恐れてジャパンカップを回避して有馬記念に直行したダイワスカーレットは1番人気に推された。
ウオッカこそいなかったが、
メイショウサムソンなど実績馬が居並ぶ中、軽く先頭を奪うと、淀みないペースで逃げ、アドマイヤモナーク以下に快勝。牝馬が有馬記念に勝ったのは1971年の
トウメイ以来史上4頭目。ただし1番人気で優勝したのはダイワスカーレットが初めてであった。このような快挙を成し遂げたにも関わらず、翌年のJRA表彰では
ウオッカに最優秀古馬牝馬を奪われ、最優秀父内国産馬のタイトルもなくなり、特別賞にもその対象とならなかった。
翌2009年、フェブラリーSを叩いてドバイ遠征が陣営から発表された。しかしフェブラリーS直前の調教で浅屈腱炎を発症し、引退が発表された。初めてのダートとはいえ、「海外で3勝を目標とする」という強気な目標も、この馬なら期待できただけに、その引退は惜しまれた。
引退後は生まれ故郷の社台ファームに戻り、繁殖牝馬として供用された。初年度の相手は社台ファームがサンデー牝馬の種付け用として購入したフランス産馬チチカステナンゴだった。その後
キングカメハメハ、ノヴェリスト、
ロードカナロアなどが種付けされ11頭の産駒を得たが、いまだ重賞勝ち馬は輩出していない。
12戦して8勝し、2着は4回。つまり連対率は100%である。薄いビロードのような鹿毛の皮膚ははち切れんばかりで、競走中は青い覆面に隠されていたが、白い鼻筋の通った可憐な顔立ちであった。女性騎手と鳴らした細江純子氏は「女優に例えれば宮沢りえ」という秀逸なコメントを残している。牡馬混合G15勝を含むG1級7勝というとてつもない実績を残した同世代の
ウオッカに比べると実績には劣るが、直接対決5回のうち3回先着していて、実力的には互角であったことは誰もが認めるところであろう。直仔の競走成績は今ひとつだが、その子孫に期待した。
2010年7月25日筆
2022年4月3日加筆