[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ホウヨウボーイは1975年4月、新冠の豊洋牧場にて生まれた。父ファーストファミリーは1962年米国産馬で現役時代は44戦7勝。レナード・リチャーズS、デード・メトロポリタンH、ガルフストリームパークHといったところが主な勝ち鞍となっている。1968年から73年までアメリカで種牡馬として供用されたのち、1974年より日本に輸入され1978年に死亡した。血統的にはアメリカ三冠馬・セクレタリアトの半兄に当たる。セレクトリアトは単なる三冠馬ではなく、その三冠レースで特筆するべき強さを示したことで名高く、「ビックレット」の異名を持つ。豊洋牧場がそんなすごい馬の半弟を購入できたのは、セクレタリアトが三冠達成する前であったからだ。代表産駒としては不良馬場のマイラーズカップで、当時マイルで無類の強さを誇った
ニホンピロウイナーに土をつけたローラーキングなどがいる。母ホウヨウクインは現役時7戦2勝。その父レアリーリーガルも豊洋牧場が米国から輸入した種牡馬である。近親に活躍馬はいないとはいえ、ホウヨウクインはその名の通り、豊洋牧場の女王ともいうべき良血馬であった。そのような配合の「ホウヨウクインの1975」は牧場関係者の期待も高く、1000万円で売却予定であった。しかし育成も終わり、間もなく入厩という段階で、購入予定の馬主が、「ファーストファミリーは未知の種牡馬」という理由で半値に値切ってきた。豊洋牧場の場長古川嘉平氏は納得できるはずもなく、売却は破談となり、豊洋牧場が自ら所有することになり、ホウヨウボーイと名づけられることになった。
三歳1977年12月に美浦・二本柳俊夫厩舎に入厩したホウヨウボーイは、12月中山の新馬戦に初出走した。鞍上には二本柳厩舎の主戦加藤和宏騎手が据えられた。1番人気に支持され2着馬に6馬身差をつけて圧勝した。しかしその後に全治6ヶ月の骨折が判明し、春のクラシックは諦めざるを得なかった。秋になってからの復帰を目指し、千葉の牧場で再起をはかっていたが、脚が治りかけた頃に今度は反対側の脚を骨折してしまった。競走馬としての再起はほとんど絶望的となった。そして入院していたオーナーの古川嘉平氏も亡くなってしまったのである。重度の故障をして長期休養を余儀なくされた馬は、馬房を占領するだけで賞金を稼がないので、厩舎の経営にとってお荷物となる。したがってそうした馬は登録抹消されてしまうのがほとんどである。古川嘉平氏の息子、古川博氏はホウヨウボーイの乗馬転向を考え始めた。しかしホウヨウボーイの高い能力を認めていた二本柳調教師は、亡き古川嘉平氏のためにもと必死に復帰を目指して調教を続けた。
そしてついに1年9ヶ月の空白を経て、ホウヨウボーイは五歳の8月函館で復帰した。最下級条件とはいえ相手は歴戦の馬。しかしホウヨウボーイはこれを一蹴して勝利。次走こそ2着だったものの、その後3連勝し、順調に条件戦を勝ちあがっていった。
六歳になり、2月の条件戦は2着だったものの、3月のオープン馬相手のブラッドストーンステークスを勝利。勢いに乗って中2週で重賞の日経賞に挑戦。2番人気を得てヨシノスキー以下に完勝した。その後二本柳師はホウヨウボーイに無理をさせず、春を休養にあて、天皇賞・秋を目指し、函館で調整することにした。大沼ステークスを勝ち、10月の東京でのオープン2着を叩いて、11月の天皇賞・秋に挑んだ。その天皇賞ではダービー馬
カツラノハイセイコに次ぐ2番人気に推された。しかし
カツラノハイセイコと互いに牽制し合っているうちに、人気薄の牝馬
プリテイキャストの逃げきりを許してしまい、7着とはじめて着外に落ちた。
第25回有馬記念は晴・良馬場の中山競馬場で開催された。ホウヨウボーイは前走の凡走が嫌われて、4番人気に支持された。
カツラノハイセイコも3番人気と低評価であった。1番人気と2番人気は天皇賞で彼らに先着したメジロファントムと
カネミノブだった。天皇賞で大逃走した
プリテイキャストはファン投票ではなく、推薦馬での出走で7番人気であった。その
プリテイキャストが逃げ、快速馬サクラシンゲキが続く形でレースを先導した。ホウヨウボーイの加藤和宏騎手と
カツラノハイセイコの河内洋騎手は同じ失敗は繰り返さないとばかりに、ペースを測りながら好位から抜け出すタイミングを待った。先に抜け出したホウヨウボーイは外から迫る
カツラノハイセイコの追い込みをハナの交わして優勝。この勝利が評価されて1980年度の年度代表馬に選出された。
七歳となった翌1981年は天皇賞・春を目指し、1月中山のAJC杯から始動。有馬記念と同じ2500mを1番人気で軽く逃げて勝利。中山記念2着の後、骨瑠が現れて、春シーズンを棒に振ることになった。ホウヨウボーイは結果的に関西へ遠征することなく生涯を終えた。秋はオールカマーから始動し5着と不本意な着順だった。
第84回天皇賞・秋はその年から創設された国際招待競走「ジャパンカップ」のため約1ヶ月繰り上がり、10月末に移行した。舞台は同じ東京競馬場3200m、まだ芝に若干の青さが残る晴れ・良馬場で開催された。ホウヨウボーイはオールカマーの結果から2番人気と評価を下げていた。無冠の帝王といわれた実力馬
モンテプリンスは5番人気であった。1番人気はその年の宝塚記念を勝っていた
カツアールだった。
モンテプリンスが23番手、ホウヨウボーイが
モンテプリンスを見るように後方からレースを進めた。直線はこの2頭が抜け出し
モンテプリンスの吉永正人、ホウヨウボーイの加藤和宏の馬体を合わせての叩き合いが続いた。そして2頭の鼻づらを合わしたところがゴールだった。どっちともいえない体勢だったが、写真判定の結果はホウヨウボーイが先着していた。加藤和宏騎手は天皇賞を前に逝去した担当厩務員が最後のひと押しを助けてくれたと述懐した。
日本で初めて開催された国際招待競走ジャパンカップには、ホウヨウボーイはもちろん
モンテプリンスなど日本最強布陣で迎撃した。しかし結果はアメリカの弱冠18歳のキャッシュ・アスムッセン騎手が操る四歳牝馬
メアジードーツが優勝。日本馬はゴールドスペンサーの5着が最高で、ホウヨウボーイは6着に沈んだ。ゲート内で前歯を折るアクシデントがあったとはいえ、ほぼ同力量の
モンテプリンスが8着という結果からすると、まだこの時期の日本の馬は世界レベルから程遠かったといえよう。ホウヨウボーイは次の有馬記念で引退することが発表された。世界レベルには届かなかったとはいえ、日本最強馬であることは疑いようのなかったホウヨウボーイは1番人気に支持された。しかし同じ二本柳厩舎の五歳馬
アンバーシャダイに1馬身半届かずの2着に敗れた。しかし天皇賞・秋の優勝が評価されて、2年連続の年度代表馬に選ばれた。
翌1982年1月10日、中山競馬場で引退式が執り行われてホウヨウボーイは種牡馬生活に入った。ところでホウヨウボーイは同じレースに牝馬が出走しているとパドックから「馬っけ」を出し、極度の興奮に達してしまう悪癖があった。当然レースに集中できず、実際ホウヨウボーイは引退まで8敗のうち、6戦は牝馬に先着を許していた。若いときはパドックで水を浴びせて興奮を冷ます、あるいは主催者側も配慮してパドックの周回や本馬場入場時に牝馬を目の前にしないようにするといった光景も見られていた。そんなホウヨウボーイだから種牡馬としてもかなりの期待をされ、初年度から60頭もの繁殖牝馬に恵まれ、48頭の産駒を得た。ところがダービー当日の5月30日、ストレス性の胃破裂で急死してしまった。わずか1世代の数少ない産駒の中から、公営の道営記念を勝ったベストボーイ、ゴールドジュニアや東海ダービー3着などのドントップ、中央で3勝をあげたヘイアンユウボーイらを輩出した。高い繁殖能力の片鱗を見せていただけにその死は惜しまれた。
2年連続で年度代表馬に選ばれた馬は2009年現在、
シンザン、ホウヨウボーイ、
シンボリルドルフ、
シンボリクリスエス、
ディープインパクトと5頭いるが、おそらくもっとも知名度が低いのはホウヨウボーイであろう。これはホウヨウボーイが活躍した1980年から1982年は競馬人気が低迷していた頃であること、有馬記念、天皇賞ともやや人気の落としたところでハナの差の辛勝であったこと、僅か1世代しか産駒を残せなかったことが、理由としてあげられよう。しかし新馬勝ちから1年半ものブランクを経て、G1級競走を勝つような馬は簡単には出てこないはずだ。ホウヨウボーイは絶対に諦めない不屈の精神と、情熱の尊さを教えてくれるサラブレッドである。
2009年3月1日筆