[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ラッキールーラーは1974年2月22日、北海道伊達市の高橋農場にて生まれた。父ステューペンダスは1963年アメリカ産馬。名馬ボールドルーラーの仔で通算35戦11勝。米国三冠のひとつプリークネスステークスを2着している。種牡馬として1968年からイギリスで供用後、1973年より日本に導入された。ラッキールーラーはステューペンダスの初年度産駒であった。他に代表産駒としては地方出身ながら宝塚記念を勝った
カツアールがいる。母トーストは四歳は桜花賞2着が最高だったが、古馬になって本格化し、金杯、中山記念、AJC杯、毎日王冠に勝ち、天皇賞と有馬記念で2着の実績がある。牝馬限定路線が整備されている現在なら、おそらくG1競走を2勝以上していると思われる逸材であった。トーストの父
ハクリヨウは菊花賞を勝ってから本格化し、五歳で天皇賞を得て、この年初めて制定された年度代表馬に選ばれている。他の代表産駒としては皐月賞馬
ヤマノオー、桜花賞馬
シーエースがいる。早生まれで大きく育ったラッキールーラーは牧場でも評判が高く、早くから尾形藤吉調教師に目をつけられていた。
ラッキールーラーは東京製綱社長吉原貞敏氏が800万円で購入され、1975年11月、尾形藤吉厩舎に入厩した。560キロを越えるラッキールーラーはなかなか身体を絞れず、初出走が当初予定の6月札幌ではなくて、1976年8月15日函館の新馬戦となった。主戦伊藤正徳騎手を鞍上に3着だった。折り返しの新馬戦も2着で、10月中山の未勝利戦で初勝利を挙げた。11月東京の白菊賞はのちの有馬記念馬
カネミノブの2着、同月さざんか賞は勝ったものの、12月中山のひいらぎ賞はのちの菊花賞馬
プレストウコウの2着に敗れた。
四歳となった1977年、ラッキールーラーは休養を取ることなく、1月中山の京成杯に出走した。持込馬
マルゼンスキーと接戦を演じていたヒシスピードの2着に敗れ、2月東京の東京四歳ステークスも同馬の4着に敗れた。ここまで使い込まれているにも関わらず、馬体がなかなか減らず、巨体を持て余していた。しかしダービー7勝の名伯楽、大尾形師は飼い葉を減らさず、汗取りもせず、自然に成長するのを待った。3月2日の中山の弥生賞は尾形師の85歳の誕生日であった。540キロにまで絞り込まれた馬体は、出ムチくれて逃げ戦法に出て、初重賞勝ちをもたらした。三冠の第一関門皐月賞は4番人気で迎えられた。先行して抜け出しを図ったが、伊藤騎手の同期で天才と称された福永洋一騎乗の
ハードバージがインコースから忍者のように伸びてきてなすすべもなく2着に敗れた。続くNHK杯では1番人気で迎えられた。しかし直線での粘りに欠いて、
プレストウコウの2着に敗れた。
第45回日本ダービーは曇・良馬場の東京競馬場で行われた。このラッキールーラの世代の最強馬は
マルゼンスキーであることは誰もが認めるところであった。しかしクラシックの出走権がないために、それ以外の馬で争うこととなり、これがドングリの背比べといった感じで、戦国ダービーの形相を呈していた。皐月賞馬
ハードバージが1番人気に支持され、ボルテール、パワーシンボリが続いた。福永洋一騎手が
ハードバージから乗り替えたホリタエンジェルが4番人気だった。ラッキールーラは28頭立ての24番枠と、前走の凡走ぶりから9番人気と低評価だった。しかし大尾形師の名人芸により、調教の動きは抜群で好気配を示していた。ラッキールーラは外枠から好スタートで斜めに横切り、1コーナーを先頭で回った。しかし逃げる意図はなかったので、向正面でワールドサバンナにハナを譲った。
ハードバージは中団の外に待機し、ボルテール、パワーシンボリも同位置に控えた。
プレストウコウと
カネミノブは好位につけた。ホリタエンジェルは後方に位置した。直線ではまず
カネミノブが先頭に立った。すかさずラッキールーラと伊藤騎手は馬体を合わしてこれを交わした。ゴールを目指すラッキールーラに
ハードバージが迫った。一完歩ごとにラッキールーラを追い詰め馬体が合った。しかしゴール寸前で
ハードバージは最後の伸びを欠いた。というよりもラッキールーラが最後の粘りを発揮し、
ハードバージを競り落とした。ラッキールーラーは頭の差先着していた。「欅の向こうを越えたら馬任せ。直線で抜き返すつもりでいけ」と尾形師の指示を伊藤騎手は忠実に守り、それが最後の逆転に繋がったのだ。尾形師にとっては
メイズイ以来14年ぶり8回目のダービー制覇となった。尾形師にとって過去7回の制覇は馬房制限がなく、素質馬を独占できた頃の記録で、それ以降は尾形師といえども、ダービー制覇は至難の業であった。表彰式で尾形師は感涙していたが、おそらく自身最後のダービー制覇であろうことはわかっていたのだろう。その美酒に酔った夜、尾形師の自宅が火事で全焼してしまうとは本人もこの時点で予想だにしなかったに違いない。また伊藤正徳騎手の父正四郎氏は第3回ダービーを
トクマサで勝っていて史上2組目の親子制覇となった。また長い歴史にあってアメリカ産の種牡馬がダービーを制するのは初めてであった。また534キロの巨漢は2012年現在でも最重量ダービー馬であった。ただし勝ち時計2分28秒7は前週のオークスを勝った
リニアクインに0.6秒劣るもので、出走馬のレベルの低さを伺わせた。
ラッキールーラは夏を府中で越した。10月8日中山のオープンに出走し、これを逃げ切ると、3日後に西下し、京都新聞杯に出走した。ここは
プレストウコウの2着に敗れたが、前哨戦ということもあり問題視されなかった。7月26日に父ステューペンダスが死亡していた。亡くなった種牡馬の仔は走る。こんなジンクスのある競馬界だが、ラッキールーラーは直前の調教の動きも抜群で菊花賞で1番人気に推された。九州産馬オサイチセイダイのハイペースの大逃げに対して2番手につけたラッキールーラーはスタミナを消耗してしまい、直線で急激に手応えを失い、15着に惨敗した。
その後ラッキールーラーは深管骨瘤で2年余りの長期休養に入り、復活したのは六歳となった1979年12月9日中山のオープンであった。7頭立ての殿負けだった。
七歳となった1980年、1月東京のオープン、2月中山のオープンをそれぞれ2着、7着。4月重賞の京王SHを7着、5月オープン特別のニュージーランドTを11着ともうひとつな成績が続いた。こういう場合そのまま上がり目なく落ちていくのが普通である。しかし6月の札幌日経賞で
プリテイキャスト以下に逃げ切り勝ち。大型馬のラッキールーラーにはダートが合っていたのかもしれない。尾形師は天皇賞から有馬記念を目指すと宣言した。けれどもラッキールーラーもここまであった。続く札幌記念は14頭立ての9着。8月函館の巴賞、函館記念はそれぞれ殿負けを喫した。尾形師はダービー馬の名誉を守るため引退を決意した。引退式は1980年11月30日中山競馬場で行われた。
中央競馬会はラッキールーラを4500万円で買い上げ、日本軽種馬協会へ寄贈した。1981年から北海道胆振種馬場で種牡馬として供用された。馬体重が700kgを越え、性器も大きかったため、小柄の牝馬では相手が務まらなかった。1986年には種付け5頭という寂しさだったが、1988年にトチノルーラーがきさらぎ賞を勝ち、種付け頭数も39頭に戻り、種付け料も15万円から20万円に上がった。種牡馬としては成功とは言い難く、1990年に韓国に輸出され、1991年5月12日、彼の地で没した。
ラッキールーラーは「幸運な支配者」を意味する。ダービーは運がいい馬が勝つという格言があるが、もとより実力がないと勝てないのがダービーだ。そのダービーで全能力を出し切り、大型馬にありがちな脚部不安に悩まされものの、もやは落ちるしかないと思われた状態で、札幌日経賞で挙げた1勝は名伯楽尾形藤吉調教師が手がけた最後の大物に相応しい勝負根性を見せたといえるだろう。
2012年5月20日筆