[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
メジロドーベルは北海道・伊達のメジロ牧場にて生まれた。父
メジロライアンは四歳クラシックこそ未勝利だったものの、その実力は同期の
メジロマックイーンと双璧と謳われた。GI級競走は宝塚記念を勝ったのみだが、それは好敵手
メジロマックイーンを下したもので高い評価が与えられよう。他に産駒としては天皇賞・春を勝った
メジロブライトなどがいる。母メジロビューティーは祖母に牝馬にして朝日杯三歳ステークスを制したメジロボサツを持つ期待馬であったが、現役時は2勝に終わった。ちなみに天皇賞・秋、安田記念の他海外GI2勝を含むGI4勝通算11勝を挙げた
モーリスや第1回中山グランドジャンプを勝ったメジロファラオはメジロボサツの子孫である。メジロドーベルは三歳から六歳まで長きに渡って活躍することになるが、出生時と育成時にその生命を奪われかねない危機を迎えている。メジロビューティーは特殊な血液型を持ち、日本の種牡馬の約22%しか適合していないことが判明した。血液型が適合していない場合、免疫力をつける前に母馬からの乳を飲むと貧血を起こし最悪死に至ることがあった。残念ながら
メジロライアンは血液型不適合の種牡馬であった。しかし馬は初乳を飲むことによって初めて免疫力をつけることができるので、メジロ牧場で同時期に出産を迎えていたメジロローラントから初乳をもらうことによってこの問題を回避した。試練はまだ続いた。翌二歳には放牧中に関節に骨片が浮くほどの重度の骨折してしまったのだ。これについては社台ファームの獣医スタッフによる最新技術の手術が施され全快した。現在は閉鎖してしまったメジロ牧場ではあるが、当時は日本を代表するオーナーブリーダーで、90年代初頭は
メジロマックイーン、
メジロライアン、
メジロパーマーがG1路線を席巻し、一時代を築いていた。しかしその後は活躍馬を出せず、緩やかな凋落傾向にあった。関係者は生産、育成段階から馬産を見直し、巻き返しを図った。その成果がこのメジロドーベルと
メジロブライトであった。
生産者であり馬主でもあるメジロ牧場で、三歳2月までみっちり鍛えられたメジロドーベルは美浦・大久保洋吉厩舎に入厩した。1996年8月新潟の新馬戦で吉田豊騎手を鞍上に初出走。4番人気と下馬評は低かったが好位から抜け出すと初勝利を挙げた。続いて思い切って新潟三歳ステークスに重賞挑戦したが、不利もあって5着に敗れた。しかしその後はサフラン賞、いちょうステークスと連勝して評価を高めた。
第48回阪神三歳牝馬ステークスは晴・良馬場の阪神競馬場で開催された。デイリー杯二歳ステークスで
メジロブライトに圧勝した外国産馬
シーキングザパールが圧倒的1番人気に支持された。差のある2番人気に支持されたメジロドーベルは
シーキングザパールを見るように好位を進み、伸びを欠いた
シーキングザパールを尻目に直線で抜け出し、2着シーズプリンセスに2馬身差をつけて優勝した。翌年。この勝利によりメジロドーベルは最優秀三歳牝馬に選出された。また父
メジロライアンはメジロドーベルと
メジロブライトの活躍により三歳新種牡馬ランキングで1位となった。内国産種牡馬が同ランキングで1位となるのは
トウショウボーイ以来であった。
1997年四歳となったメジロドーベルは桜花賞を目指すべく西下し、チューリップ賞から始動した。圧倒的1番人気に推されたものの、スローペースで折り合いを欠き、3着に敗れた。そして2番人気に評価を下げた本番の桜花賞では、不良馬場で迎えることになった。馬場を気にしてか行き足が悪く後方待機策を取ったメジロドーベルだが、先行策を取った1番人気
キョウエイマーチに4馬身及ばず2着に敗れた。関係者は血統的に向くオークスでの巻き返しを目指した。
第58回オークスは晴・重馬場の東京競馬場で開催された。人気は桜花賞1,2着の
キョウエイマーチとメジロドーベルに集中し、わずかの差で
キョウエイマーチが1番人気となった。2400mという距離について血統面で不安のなかったメジロドーベルではあったが、折り合いについては課題があった。陣営はスタート直前まで覆面を着用することで、馬を落ち着かせようと試みた。それが功を奏したのか、この日のメジロドーベルは落ち着いていた。先頭に押し出されてしまった
キョウエイマーチに対し、メジロドーベルはじっくり後方で待機した。直線で馬場の中央を割るように抜け出すと、吉田豊騎手は勝利を確信。2着ナナヨーウイングに2馬身半差をつけて優勝した。
キョウエイマーチは直線で失速し11着に敗れた。メジロドーベルの曾祖母メジロボサツは朝日杯三歳ステークスを勝ちその後も期待されたが、大レースを勝つことはできなかった。大久保洋吉師の父末吉はそのメジロボサツを管理していて、共に雪辱を果たしたということになった。
夏は休養にあて、三歳牝馬の最後の目標秋華賞に向けて調整した。ステップレースは常道の三歳牝馬限定重賞ローズステークスでなく、古馬牡馬相手となるオールカマーであった。52キロの軽ハンデと手薄な出走馬もあって、軽く逃げ切って1番人気に応えた。
第2回秋華賞は晴・良馬場の京都競馬場で開催された。1番人気が予想されたNHKマイルカップを勝った外国産馬
シーキングザパールが疾病のため出走を回避し、桜花賞・オークスと同じく
キョウエイマーチとメジロドーベルの2強対決となった。オークスとオールカマーの結果からメジロドーベルは1番人気に支持された。メジロドーベルは中団に構え、
キョウエイマーチが2番手追走といつもの展開となった。オークスでは失速した
キョウエイマーチもこの日は粘り強かった。直線で抜け出してゴールを目指す
キョウエイマーチを、メジロドーベルが残り100mで捉え、2馬身半差をつけてオークス、秋華賞の牝馬二冠を達成した。桜花賞がもし良馬場で焦れ込みがなかったら牝馬三冠馬になっていたかもしれなかった。続いて年末の有馬記念に出走した。ファン投票は
エアグルーヴ、
バブルガムフェローに次ぐ第3位、当日の単勝人気も3番人気であったが、さすがに牡馬一流馬の壁は厚く、直線で伸びを欠いて、
シルクジャスティスの8着に敗れた。しかし翌年、最優秀四歳牝馬と最優秀父内国産馬に表彰された。
1998年五歳となったメジロドーベルは大阪杯から始動した。前年牝馬にして天皇賞・秋を制した
エアグルーヴが1番人気に支持され、メジロドーベルは3番人気だった。レースは苦手のスローペースとなったが、勝った
エアグルーヴの3/4馬身差の2着に迫った。しかし続く目黒記念、宝塚記念は5着と期待を裏切った。その後夏場は函館競馬場で調整し、秋は府中牝馬ステークスから始動した。牝馬にしては酷量となる58キロを背負い、グレースアドマイヤにハナの差まで迫られたが、秋華賞以来の勝利を手にした。
第23回エリザベス女杯杯は晴良馬場の京都競馬場で開催された。ここには
エアグルーヴが出走を表明し1番人気に支持された。しかし
エアグルーヴ陣営は中1週でジャパンカップに出走することを表明していて、余裕のある仕上げとなっていた。メジロドーベルはやや離された2番人気で、古馬になってからの成績を比べて
エアグルーヴに分があると判断されていた。スタートが切られるとメジロドーベルはスローペースに折り合いを欠いてしまった。しかしここまで経験を積んでいた吉田騎手は何とか落ち着かせた。4コーナーで内ラチを突いて抜け出すと、ランフォザドリームに1馬身1/4差をつけて優勝した。
エアグルーヴは最後に伸びてきたが、やはり本気を欠いたのか3着どまりだった。これでメジロドーベルは牝馬として初めてGI4勝馬となった。
その後有馬記念に出走したが、牡馬相手では闘志を失うのか、見せ場のないまま9着に敗れた。翌年のJRA賞ではメジロドーベルは
エアグルーヴに勝ったエリザベス女王杯の勝利が評価されて最優秀五歳以上牝馬に選出された。
1999年六歳となったメジロドーベルは中山牝馬ステークスから始動した。牝馬限定戦だとやたらと走るメジロドーベルなら58.5キロの斤量も問題ないだろうと思われていたが、人気薄のナリタルナパークに足元をすくわれてしまった。
エアグルーヴ以外の牝馬に先着を許したのは桜花賞以来であった。その後外傷を負って休養を余儀なくされた。秋の毎日王冠で復帰したものの6着に敗れた。しかしこの一叩きでメジロドーベルは急速に復調していった。
第24回エリザベス女王杯は晴良馬場の京都競馬場で開催された。1番人気は前年の桜花賞と秋華賞を制した
ファレノプシス、メジロドーベルが2番人気。3番人気は前年のオークス馬
エリモエクセルで、この3頭で三強を形成していた。レースはスローペースで流れ、中団に構える三強が横一線で並んだ。得もすると牽制しあって共倒れの可能性もあったが、3コーナーで
ファレノプシスと
エリモエクセルは他馬と接触し後退した。ラチ沿いを走っていたメジロドーベルは影響を受けずに満を持して追い出すと、フサイチエアデールの追い込みを3/4馬身抑えて、女王杯連覇を果たした。これで4年連続5個目のGI勝利となり、牝馬限定ではあるものの個数で
ナリタブライアン、年数で
メジロマックイーンに並んだ。メジロドーベルはこのエリザベス女王杯で有終の美を飾り引退を表明した。11月21日東京競馬場で引退式が行われ、オークス優勝時のゼッケン「16」をつけてキャンターを披露した。当年のJRA賞で最優秀五歳以上牝馬として表彰された。4年連続で表彰を受けたのは史上初めてであった。
翌2000年からメジロ牧場にて繁殖生活に入ったメジロドーベルであったが、サンデーサイレンスをはじめ超一流の種牡馬と交配されたものの、目立った活躍馬を出せなかった。その後メジロ牧場は経営不振のため解散することになり、繁殖牝馬はそれぞれの別々の牧場に移っていった。メジロドーベルはメジロ牧場の専務だった人が新規に立ち上げたレイクヴィラファームに移動した。4番子メジロシャレードの子ショウナンラグーンが青葉賞を制した。2016年には繁殖牝馬を引退し、同牧場で当歳馬の教育係の勤めを果たしている。
G1競走を5勝したメジロドーベルは確かに名馬と呼ぶに値する。しかしながら5勝したG1は全て牝馬限定であり、のちに牡牝混合GIを5勝した
アーモンドアイや2勝した
ブエナビスタはもちろん、メジロドーベルと同時期に活躍した
エアグルーヴと比べても見劣り感は否めない。
エアグルーヴが天皇賞・秋だけでなく大阪杯、札幌記念の牡牝混合重賞を勝っているのに対して、メジロドーベルは軽ハンデを生かしたオールカマーを勝っただけだ。しかし4年の長きに渡り牝馬に用意された路線で安定した力量を見せた。結果的に牝馬三冠を阻まれた
キョウエイマーチに対しても、その後2戦では先着を許さなかった。メジロドーベルは殿堂入りするほどの眩しい輝きこそないものの、立派な「五つ星の女王」である。
2024年1月4日筆