[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
アグネスフライトは1997年3月2日、北海道千歳の社台ファームにて生まれた。父サンデーサイレンスは1986年米国産馬。ケンタッキーダービーを含む14戦9勝の申し分ない実績で、引退後すぐ社台ファームによって日本に輸入された。我が国競馬史上最高の成績を収めた輸入種牡馬で、日本競馬史上最強馬に数えられる
ディープインパクトをはじめ、数多くのG1馬の父となった。母馬の遺伝的特質を引き出すのが抜群で、自ら持つ闘争心を産駒に伝えた。母
アグネスフローラは無敗の5連勝で桜花賞を制した馬でその母
アグネスレディーとの親子二代制覇を狙ったオークスは惜しくも2着。競走中の骨折が原因でそのまま引退した。
アグネスフローラは生まれた折手牧場に戻らず、社台ファームで繁殖生活を送ることになった。これは社台ファームの総帥、吉田照哉氏の熱心な売却要請に応えたからだ。アグネスフライトは4番仔でその1年下の全弟が無敗の皐月賞馬
アグネスタキオンである。母の父ロイヤルスキーは1974年アメリカ産馬でローレルフューチュリティというGI勝ちを含む14戦8勝。アメリカで種牡馬として供用されのち1979年に日本に輸出された。日本では
アグネスフローラ以外に
テンポイントの近親オキワカと配合されたワカオライデンが朝日チャレンジカップを制している。ワカオライデンは桜花賞1番人気となったライデンリーダーを輩出するなど地方競馬の種牡馬として成功した。
明るい栗毛のアグネスフライトは母、祖母と同じく渡辺孝夫氏の所有馬として、栗東・長浜厩舎に入厩した。ちなみに長浜師は
アグネスフローラも管理しており。担当厩務員は祖母
アグネスレディー、母
アグネスフローラと同一人物があてがわれた。馬名の「アグネス」は渡辺氏の冠名であり、「フライト」は渡辺氏の経営する会社の社内報「飛翔」に由来している。
四歳となった2000年2月6日、京都の新馬戦に初出走したアグネスフライトはこれまた
アグネスレディー、
アグネスフローラともに乗った河内洋騎手を鞍上に2番人気に支持され後方追走から直線で2着馬を4馬身突き放し初勝利した。しかし皐月賞トライアルの若葉ステークスは後方から伸び脚を欠き12着に敗れ、皐月賞を断念した。続いて皐月賞前日の若草ステークスに出走。ここでは末脚が斬れてスターリングローズ以下に半馬身差をつけて2勝目を上げた。しかしこれでもダービー出走するには獲得賞金が不足していた。そこで長浜師はダービー最終便といえる京都新聞杯(G3)に出走することにした。ここを2着以内に入ればダービー出走は確実になる。アグネスフライトは2番人気だった。この日のアグネスフライトは末脚が冴えた。最後方追走から向こう正面から先頭を伺い、直線で他馬を一気に差し切り、2着に3馬身差をつけて完勝した。この勝利でアグネスフライトはダービー出走を確実にした。
20世紀最後となる第67回日本ダービーは晴・良馬場の東京競馬場で開催された。1番人気は皐月賞馬の
エアシャカール、2番人気は皐月賞2着のダイタクリーヴァであった。アグネスフライトは3番人気に支持された。ところでダービーに出走する馬には「関西の秘密兵器」と称せられることがあった。これはダービーの直前に開催された関西の重賞で強い勝ち方をした馬のことで、関東の競馬ファンには目にすることがなかったから「秘密兵器」とされていたのだ。実際、何度かダービーでは人気になるのだが、有力馬が東上した中で行われた関西で勝っても、いわば出がらしの茶のようなものでダービーでは返り討ちに遭うのが常であった。京都新聞杯を勝ったアグネスフライトはまさに関西の秘密兵器だったわけだが、アグネスフライトには過去の秘密兵器にはない絶対的な強みがあった。それは血統と鞍上にあった。まず血統は祖母
アグネスレディーは同じコースのオークスを勝っているし、母
アグネスフローラもオークス2着。東京2400mに適性があるのは疑いの余地がなかった。それに鞍上の河内騎手はアグネスフライトの祖母、母に乗っていたので習性を把握しているのも大きかった。ただ、河内騎手は牝馬のG1級レースには何度も勝っているし、牡馬でも
カツラノハイセイコで天皇賞・春、
ヒカリデユールで有馬記念、
ハシハーミットで菊花賞、
レガシーワールドでジャパンカップなどを勝っていたが、全ての騎手の目標であるダービーには勝っていなかった。すでに45歳で引退を意識していた河内騎手はこのアグネスフライトがダービー制覇の最後の機会と見て、担げる縁起は全て担ぎ、何かをして結果がよかったことは全て実行したという。それでも硬さのとれない河内騎手に対し、長浜師は「今日は河内のダービーにしてこい」と声をかけ、それでようやく緊張がほぐれたという。4番枠からスタートを切ったアグネスフライトは最初の1コーナーを最後方18番手で回った。
エアシャカールは14番手に位置していた。展開は追い込み馬に有利なハイペースで流れた。武豊騎乗の
エアシャカールが動き出した第3コーナーで、アグネスフライトも追撃を開始した。4コーナーを回ると先行馬は一気に脚をなくし、
エアシャカールが抜け出した。アグネスフライトはもたつきながらも追い上げた。
エアシャカールは独走態勢に入ったところで、ソラを使ってしまい脚が鈍った。その隙にアグネスフライトは馬体を並びかけた。あとゴールまで50mもない。ここで
エアシャカールは外によれてアグネスフライトの進路を妨害した。これは審議の結果不問とされたが、アグネスフライトは大きな不利を被った。しかしアグネスフライトは鞍上河内のムチに応え、最後の末脚を発揮した。ゴール線上には2頭並んだ。河内騎手は勝利を確信していたが、あまりにきわどい勝負だったことから、ウイニングランのガッツポーズも中途半端なものになった。写真判定の結果、ハナの差でアグネスフライトの優勝が決まった。その差はわずか7cm。結果として
エアシャカールはこのわずかの差で三冠馬の称号を逃すことになった。河内騎手の師匠は武豊騎手の父武邦彦であり、武豊にとって河内は兄弟子ともいえるよいお手本だった。武騎手は悔しさを噛みしめながらも、河内騎手を祝福した。アグネスフライトは史上初めて親仔三代クラシック制覇を果たすことになった。
ダービー後のアグネスフライトはもう自分の仕事を終えたと思っていたようであった。四歳秋は神戸新聞杯を2着、菊花賞は1番人気に支持されたものの、
エアシャカールの5着。ジャパンカップでは古馬の壁を崩せず13着に惨敗した。
2001年4歳となったアグネスフライトは京都記念から始動し2着とまずまずだったが、大阪杯では10着といいところがなかった。それでも天皇賞・春を目指したが、屈腱炎を発症して戦線離脱した。弟の
アグネスタキオンが無敗で皐月賞を制したものの引退して種牡馬となっていたことから、アグネスフライトは現役続行することになった。
アグネスフライトが復帰したのは1年7ヶ月後の2002年10月の天皇賞・秋だった。勝浦正樹騎手が鞍上に据えられたが、15着に惨敗。ジャパンカップは後藤浩輝騎手で挑んで16着の最下位だった。
2003年6歳となったアグネスフライトは2月の京都記念に出走。鞍上には河内騎手が戻ってきた。翌日に引退式を控えていた河内騎手にとっては最後の重賞騎乗馬となった。アグネスフライトはそういう事情を察してか、力を振り絞って6着と掲示板まであと一歩まで頑張った。しかしこれでアグネスフライトの闘志は消え失せた。3月の阪神大賞典は松永幹夫騎手を背に13着となり、陣営は引退を決意した。5月10日、京都競馬場で引退式が行われた。ダービーを勝ったゼッケン4番を着用、すでに調教師となっていた河内師を背に直線を軽く流した。
浦河の日高スタリオンセンターで種牡馬となったアグネスフライトではあったが、先に種牡馬となった
アグネスタキオンがダービー馬
ディープスカイ、桜花賞馬
ダイワスカーレットを輩出するなど大成功したのに対して、初年度からヘルニアを患うなどして交配が伸びず、3年目には92頭の産駒を得て、最終的には166頭がのべ369勝上げたものの、中央での重賞勝ち馬は皆無だった。2011年種牡馬を引退し、生まれ故郷の社台ファームで新人教育用の乗馬として供用された。2015年には乗馬も引退し、社台グループで功労馬として余生を送った。そして2023年1月11日26歳で永眠した。
アグネスフライトは河内洋にダービーを獲らせるためにこの世に舞い降りたといっていいだろう。その目的を果たしてからのアグネスフライトはもはや役目を終えたかのように、その後の競走成績や繁殖成績は冴えないものになってしまった。しかしひとりの男の夢を実現させるという大仕事をやってのけたアグネスフライト。河内洋騎手は無論、親仔制覇を果たした長浜師、渡辺オーナーももちろん、たったひとつの夢を実現するために努力するための人々にとっては大きな希望となった馬であった。
2023年8月10日記