[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ダイイチルビーは1987年4月荻伏牧場にて生まれた。父
トウショウボーイは現役時15戦10勝。四歳時に皐月賞、有馬記念、五歳になって宝塚記念を制した。非業の死を遂げた
テンポイントのライバルとして余りにも有名である。種牡馬となってからも優れた能力を発揮し、三冠馬
ミスターシービーを筆頭に数々の重賞勝ち馬を輩出した。残念ながら活躍馬は牝馬に多く、後継種牡馬に恵まれなかった。母
ハギノトップレディは現役時11戦7勝。僅かキャリア3戦で桜花賞を逃げ切り、焦れ込んだオークスは大敗したものの、エリザベス女王杯は逃げ切った。母イットーと親子2代で高松宮杯を制した。また
ハギノトップレディの半弟、
ハギノカムイオーはセリで高額落札され宝塚記念を制している。イットーの曾祖母マイリーは英国からの輸入馬。マイリーの娘キューピットを祖とするこの牝系は俗に「華麗なる一族」と呼ばれている。母の父サンシーは1969年フランス産で現役時14戦6勝。G1未勝利ながら仏ダービーを2着している。ステイヤー血統でありながら、気性面からスピード馬を輩出している
ハギノトップレディの他にもNHK杯を勝ったトウショウサミット、日経賞を勝ったキリサンシーなどがいる。父
トウショウボーイ、母
ハギノトップレディはともに知名度の高い名馬であり、生まれる前から関係者の期待が高かった。何しろ生まれ落ちた黒鹿毛の仔馬の写真が、まだ買い手が決まっていないのに、中央競馬会発行の月刊誌「優駿」に掲載されたぐらいであった。しかしこの馬には生まれながらに蹄の形状に欠陥があり、買い手がつくのか心配された。実際、当時牝馬の育成に定評があった伊藤雄二調教師が立ち姿のこの馬を見た時、「これはモノにならんな」と思ったという。けれども動き出す馬を見ると「これはモノが違う」と素質を瞬時に見抜た。
和歌山でガソリンスタンドなどの事業を営む辻本春雄氏の持ち馬として、栗東・伊藤雄二調教師の厩舎に入厩したダイイチルビーは、蹄の欠陥などの理由で、無理をさせず、1990年2月25日の阪神1600mの新馬戦が初出走だった。武豊を鞍上に単勝1.2倍の圧倒的な1番人気で、2着馬に5馬身差をつけて逃げ切った。しかし母娘2代の制覇を目指す桜花賞まではあと1ヶ月足らずしかなかった。出走権を獲得するため、トライアルの報知杯四歳牝馬特別に出馬登録するも、抽選で除外。条件戦のアネモネ賞を勝ったが、桜花賞は獲得賞金が不足し、抽選で除外され出走は叶わなかった。やむを得ず、桜花賞当日のオープン特別の忘れな草賞に出走した。三度目の圧倒的1番人気に支持され、ダイイチルビーは単枠に指定された。初めての2000mで多頭数ということもあってか2着と初黒星を喫した。続いてオークスを目指して東京に遠征。トライアルのサンスポ杯四歳牝馬特別に出走した。関東でも「著名な両親」を持つ良血馬ということで1番人気に支持された。増沢末男騎手を鞍上に先行して抜け出しを計るも、後方から追い込んできた
キョウエイタップに差され2着に敗退。しかしオークスへの出走権を獲得した。オークスは桜花賞馬で無敗で牝馬二冠制覇に挑む
アグネスフローラが出走し1番人気に支持された。ダイイチルビーはそれに続く2番人気であった。武豊騎手は後方待機策を試みるも、
アグネスフローラと勝った
エイシンサニーとの競り合いに加わることなく、着順掲示板に載る5着に名を連ねるのが精一杯だった。
1990年四歳秋はエリザベス女王杯母娘制覇を目指し、ローズステークスに出走。ここでも1番人気に支持されたが、有利な流れにも関わらず5着に敗れた。伊藤師はこの馬の本格化はまだ先と見て、エリザベス女王杯は諦めて休養することにした。
1991年五歳となったダイイチルビーは1月京都の洛陽ステークスに出走。ここからは牝馬の騎乗に定評がある河内騎手に乗り替わった。ここは2着だったが、続く京都牝馬特別は快勝。初重賞勝ちを収めた。続いては関東に遠征して中山牝馬ステークスに出走。ローズS以来の1番人気に支持されたが、スタートで失敗し、さらに1800mという距離もあって3着に敗れた。しかし安田記念の前哨戦京王杯スプリングカップは
バンブーメモリーなど牡馬の一戦級が出走する中、これに快勝、手応えを感じながら安田記念に駒を進めた。
第41回安田記念は、東京競馬場で曇・良馬場で開催された。皐月賞馬
ハクタイセイは出走を取り消したものの、連覇を目指す
バンブーメモリーや、安定感に欠けるものの短距離路線で実力を発揮しつつあった
ダイタクヘリオスが出走し、好調ダイイチルビーといえども楽な相手ではなかった。実際、古馬における牡牝馬混合G1では牝馬はどうしても分が悪かった。それでも
バンブーメモリーに続く2番人気だったのは、華麗なる一族へのファンの期待感の現れであろう。ダイイチルビーはスタートで出遅れ、後方に位置せざるを得なかった。しかし逃げたシンボリガルーダの逃げは1000mで57.6秒とハイペースであり、河内騎手は道中じっくり末脚を貯めることができた。直線を迎え、シンボリガルーダは垂れて、
ダイタクヘリオスが先頭に立った。
バンブーメモリーがこれを捉えようとするが
ダイタクヘリオスの脚がなかなか鈍らない。この2頭で決まるかと思われたところへ、外から急襲したのがダイイチルビーであった。牝馬特有の一瞬の斬れ味を生かした河内洋騎手会心の騎乗であった。G1に格上げされてから安田記念を牝馬が制したのは初めてであった。
母娘3代、さらに父との親仔2代の制覇を目指して中京の高松宮杯に出走。守備範囲を超える2000mの距離といった悪条件もあって、
ダイタクヘリオスのハナの差2着に敗れた。
1991年五歳秋は10月京都のスワンステークスから始動した。1番人気に支持されたが、レコード勝ちを連発していた韋駄天外国産馬ケイエスミラクルの2着に敗れた。しかしマイルチャンピオンシップはケイエスミラクル、
ダイタクヘリオスら有力馬を抑えて1番人気に支持された。ダイイチルビーはスタートで出遅れ、ケイエスミラクルの追い込みは封じたものの、果敢に先行した
ダイタクヘリオスを捉えることができず2馬身半差の2着に敗れた。
第25回スプリンターズステークスは中山競馬場で曇・良馬場で開催された。
ダイタクヘリオスは有馬記念に出走したため、同レースは回避。ライバルはケイエスミラクルに絞られた。ケイエスミラクルは前々走1400mのスワンSでダイイチルビーをレコードで下してた。スプリンターズSはより絶対的なスピードが要求される1200m戦であり、そしてダイイチルビーに出遅れ癖のあるから、ケイエスミラクルが1番人気に支持された。超ハイペースで逃げるトモエリージェントを見ながら好位で競馬を進めたケイエスミラクルに対して、ダイイチルビーは後方3,4番手に位置した。直線半ばを迎え、ケイエスミラクルがラストスパートで、岡部騎手が鞭を入れようとした、その時、左後脚を骨折し万事休す。ダイイチルビーはこのケイエスミラクルの直後につけていて、当然その影響を受けた。しかし河内騎手の咄嗟の判断で外へ進路を取り事なきを得た。ほとんどの馬がケイエスミラクルをマークしていたので、抜け出したダイイチルビーを捕らえる馬はいなかった。ナルシスノアールに4馬身差をつけ、1分7秒6の好時計で優勝した。ケイエスミラクルは粉砕骨折という重傷で安楽死の処置がとられた。
安田記念とスプリンターズSの牡牝混合G1競走を2勝し、全て3着以内という安定感を評価されて最優秀古馬牝馬と最優秀スプリンターとして表彰された。ちなみに年度代表馬は皐月賞とダービーを制した
トウカイテイオーだった。ダイイチルビーは
トウショウボーイ、
トウカイテイオーは
シンボリルドルフ、
ダイタクヘリオスはビゼンニシキの仔で、この年は特に内国産種牡馬の活躍が顕著であった。
1993年六歳も活躍を期待された。しかしマイラーズC、京王杯SC、安田記念をそれぞれ6着5着15着と人気を裏切った。G1馬の宿命といえる重い斤量もあるが、ダイイチルビーはもはや「女の身体」になっていて、闘争本能は失われていたようであった。同年、引退が発表された。
ダイイチルビーは「華麗なる一族」であり、当然ながら繁殖馬として期待された。生まれ故郷の荻伏牧場ではなく、辻本オーナーがダイイチルビーのために購入したダイイチ牧場に繋養された。初年度産駒からダイイチシガーがオークス3着となり、翌年以降の産駒に期待された。その後社台グループのノーザンファームに移動し、サンデーサイレンス、ブライアンズタイム、
エルコンドルパサーなどが付けられたが、重賞勝ち馬は輩出しなかった。2007年4月26日、ダイイチ牧場にて蹄葉炎のため20歳で永眠。残した7頭の産駒のうち、ダイイチシガー、ダイイチビビット、アイアンビューティの3頭が牝馬。この子孫から「華麗なる一族」に相応しい産駒が生まれることを期待したい。
2006年11月26日筆
2022年4月2日加筆