[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ダイタクヘリオスは1987年平取・清水牧場にて生まれた。父ビゼンニシキは1981年青森・明成牧場産で現役時は10戦6勝。派手な栗毛の馬体で1984年のクラシック戦線において、のちに三冠馬となる
シンボリルドルフの好敵手として活躍した。ダービーで大敗後、秋にマイル戦線に路線変更も、本番前のスワンステークスで故障発生してしまい引退を余儀なくされた。ダイタクヘリオスは供用2年目の産駒で、他には福島記念ならローカル重賞を3勝したハシノケンシロウや、京都大障害などを勝ったリターンエースなどがいる。ビゼンニシキの父ダンディルートは
シンボリルドルフの調教師であった野平祐二師の目利きで、トウショウ牧場のオーナーである藤田正明氏が購入したフランス産種牡馬で、現役時は12戦5勝。1976年より日本で供用を開始し、中距離を中心に活躍馬を出し、中山記念を連覇した牝馬エイティトウショウや目黒記念などを勝ったトウショウゴットなどを輩出した。5世代の産駒を残しただけで早世したが、現在もトウショウ牧場の繁殖牝馬の血に生き続けている。
母ネヴァーイチバンは1971年日本産馬で現役時は未出走。ネヴァーイチバンの母ミスナンバイチバンの初年度産駒はカブラヤであり、のちに二冠馬
カブラヤオーとエリザベス女王杯勝ちの
ミスカブラヤを輩出している。ネヴァーイチバンの娘スプリングネヴァは天皇賞・春で1番人気となったダイタクバートラムや2年連続でマイルチャンピオンシップにおいて1番人気に支持されたダイタクリーヴァを輩出している。ネヴァーイチバンの父ネヴァービートは1964年日本に導入されてから、皐月賞馬
マーチス、天皇賞・春を勝った
リキエイカン、オークス馬
ルピナス、桜花賞やエリザベス女王杯を勝った
インターグロリアなどを輩出。母の父としても優れており、天皇賞馬
サクラユタカオー、
キョウエイプロミス、宝塚記念の
スズカコバン、史上初の牝馬三冠馬
メジロラモーヌなどを送り出し、1984年、86年、88年においてリーディング・ブルードメア・サイヤーに輝いている。母ネヴァーイチバンの方が父ビゼンニシキより10歳年上だからということもないが、ダイタクヘリオスの毛色はネヴァーイチバンの黒鹿毛に出た。生まれたダイタクヘリオスは大人しくて手がかからず健康に育った。ただし見栄えはせず注目に値するような存在ではなかった。
ダイタクの冠号で知られ、大阪で病院やホテルなどを経営している中村雅一氏の持ち馬として、ダイタクヘリオスは栗東・梅田康雄厩舎に入厩した。ちなみにヘリオス(Helios)とはギリシャ神話における太陽神のことである。1989年10月の京都の新馬戦で岸滋彦騎手を鞍上に初出走したダイタクヘリオスは3着と敗れた。しかしここから中1週空いて連闘で新馬戦を使って、2着、そして1着で勝ち上がった。現在は新馬戦は初出走の馬しか出走できないが、当時は同一開催ならば4連闘まで可能であった。次にデイリー杯三歳ステークス(G2)に重賞挑戦。ここには評判の
ミスターシービー産駒ヤマニングローバルが出走していて、4着に敗れた。次に阪神の条件特別のさざんか賞は1番人気で勝ってオープン入り。ダイタクヘリオスは通算35戦10勝の好成績をあげるが、1番人気で勝ったのはこのレースに限られる。関西の三歳チャンピオンを決める阪神三歳ステークス(G1)は4番人気と評価が低かったが、テン乗りの武豊騎手が巧みに操って逃げ、
コガネタイフウのクビの差2着に粘った。
1990年四歳となったダイタクヘリオスは三歳時3ヶ月で6戦とかなり使ったにも関わらず、1月初旬京都の
シンザン記念(G3)から始動した。ここは2着だったが、きさらぎ賞(G3)は6着、中山に東上してスプリングS(G2)は11着と大敗。この内容の悪化ぶりに梅田師はクラシック路線を諦め、短距離路線に転向する決断を下した。しかし当時は四歳限定のマイルG1は存在せず、ニュージーランドトロフィー(G2)が当面の目標となった。皐月賞の前日に行われた1200m重賞クリスタルカップ(G3)を勝ち、転向後幸先のよいスタート。続く京都の1400mオープン特別である葵ステークスは、大外枠で59キロという悪条件ながら快勝。しかし肝心のニュージーランドトロフィー(G2)は1番人気に推されながらも、ニジンスキー産駒の良血馬ミュージックタイムの2着に敗れた。
四歳秋は順調さを欠き、マイルチャンピオンシップ(G1)にぶっつけで挑むことになった。スタートで後手を踏み、ブービーの17着に惨敗した。中京のオープン特別シリウスステークス4着を叩いて、この年G1に昇格したスプリンターズステークス(G1)に出走。
バンブーメモリーの5着に敗れ、春の勢いは消え失せたかのように思われた。
五歳春1991年は2月京都の淀短距離ステークスから始動した。ここを4着にまとめると、続く中京のマイラーズカップ(G2)で武豊を鞍上に初重賞勝ちを収めた。これ以降、ダイタクヘリオスは短距離重賞の常連となる。しかしダービー卿CT(G3)は4着、京王杯SC(G2)は6着と人気を裏切る結果となり、安田記念(G1)は16頭中10番人気と評価を落とした。しかし人気が落ちると反発するのがこの馬の真骨頂であり、先行して粘り、
ダイイチルビーの2着に健闘した。CBC賞(G2)5着と凡走したあと、5番人気となった高松宮杯(G2)は加用正を鞍上に
ダイイチルビーの追い込みをハナの差凌ぎ、安田記念の借りを返した。
五歳秋は毎日王冠(G2)から始動した。鞍上には主戦の岸滋彦が復帰した。ここには天皇賞・秋を目指す強豪が出走していた。5番人気と評価が低かったが、後に降着繰り上がりで天皇賞馬となる
プレクラスニーの2着に健闘した。しかしスワンステークス(G2)は逃げて9着に惨敗。相変わらずの不安定ぶりのまま、目標のマイルチャンピオンシップを迎えることになった。
第8回マイルチャンピオンシップ(G1)は京都競馬場にて晴・良馬場で行われた。1番人気はこの年の安田記念を制していた
ダイイチルビー。父
トウショウボーイ、母
ハギノトップレディという絵に描いたような良血で、前走スワンステークスは2着に敗れていたとはいえ、この年は3着以下がないという安定感が買われていた。2番人気はスワンステークスで
ダイイチルビーを下したケイエスミラクル。レコード勝ちを連発していた新進気鋭の外国産馬で、スピード勝負になればこの馬に分があるとファンの支持を集めていた。ダイタクヘリオスは前走の惨敗で信用をなくし、4番人気であった。鞍上の岸騎手はとにかくうまくスタートを切って先行すること。あとは馬が走る気になってくれるかだ、と考えていた。道中、首尾よく3番手につけると、岸は馬の行く気に任せた。ダイタクヘリオスは口を割って行儀の悪いところを見せた。しかしこの馬の場合、これが調子の悪いことの指標とはならない。そして先頭で直線に向くと、
ダイイチルビー、ケイエスミラクルの追撃を抑え、先頭でゴール板を駆け抜けた。
ダイイチルビーには2馬身半差、ケイエスミラクルにはさらに半馬身差をつけた。良血馬の完勝劇、あるいは韋駄天馬の誕生といった多くのファンの思惑とは異なったものかもしれなかったが、とにかくも穴党を喜ばせていたダイタクヘリオスに初めての勲章がもたらされたのである。
その後ダイタクヘリオスは短距離馬の常道であるスプリングステークスには向かわず、有馬記念(G1)に出走し、
ダイユウサクの5着に敗れた。しかし9番人気であったことを考えれば、期待以上の好走といえる。
1992年六歳となったダイタクヘリオスは3月阪神のマイラーズカップ(G2)から始動した。60キロの酷量を背負いながらも快勝。次走京王杯SC(G2)は59キロで4着に敗れたが想定内であった。57キロで出走できる安田記念(G1)は裸同然だろうと1番人気に支持された。しかし
ヤマニンゼファーの6着に敗れ、ファンに失望を与えた。続く宝塚記念でも2番人気に支持されたが、
メジロパーマーの5着に敗れ、ファンを絶望に追い込み、「ダイタクヘリオスはもう終わった」と思わせるに十分な惨敗ぶりだった。
ところが秋になり毎日王冠で復帰すると、59キロを背負い相当な焦れ込みを見せながらも日本レコード勝ちを収めてしまう。そのため続く天皇賞・秋(G1)では3番人気に支持された。1番人気は
トウカイテイオーで、その父は
シンボリルドルフ。ダイタクヘリオスの父はビゼンニシキで、親仔代理戦争となった。ところがこの2頭は共倒れとなり、
トウカイテイオーは7着、ダイタクヘリオスは8着に敗れてしまう。ダイタクヘリオスは逃げた
メジロパーマーと競り合って暴走し、ハイペースを演出。自らは馬群に沈み、後方に控えていた
レッツゴーターキンが漁夫の利を得る格好となった。
第9回マイルチャンピオンシップは京都競馬場で晴・良馬場で開催された。ダイタクヘリオスは
シンコウラブリイに1番人気を譲り、2番人気であった。
シンコウラブリイはアイルランド生まれの四歳牝馬で、短中距離を中心に使われ、G3重賞3連勝を含む4連勝中。前走の富士ステークス勝ちから連闘で挑んでいた。「こんな小娘に負けられるか」とダイタクヘリオスが燃えたのかどうかわからないが、昨年の再現フィルムを見るような力強いレースぶりで、
シンコウラブリイに1馬身半をつける快勝、
ニホンピロウイナー以来2頭目のマイルチャンピオンシップ連覇を果たした。しかも時計は1分33秒3のレコードであった。
続くスプリンターズステークス(G1)は安田記念以来の1番人気に支持された。しかし1番人気になって負けるのはダイタクヘリオスにとって簡単なことであり、「四歳の小娘」である
ニシノフラワーの4着に敗れてしまう。連闘で出走した有馬記念は、天皇賞・秋と同様逃げた
メジロパーマーと暴走気味で競り合った。
メジロパーマーはこの展開を残って1着となったが、ダイタクヘリオスは4コーナーで手応えがなくなり12着に惨敗した。
4年の長きに渡って活躍し、2つのG1を含む7つの重賞を制し、稼いだ賞金は6億8995万2400円に達したダイタクヘリオスは有馬記念を最後に引退した。総額2億4000万円のシンジケートが組まれ、日高軽種馬農協門別種馬場において種牡馬となった。しかし世はトニービン、ブライアンズタイム、サンデーサイレンスといった外国産種牡馬全盛期にあり、産駒成績は苦戦を強いられた。しかし産駒の
ダイタクヤマトが2000年のスプリンターズステークスを16頭中16番人気で制し、父と同様の穴馬ぶりを発揮し、ファンを喜ばせた。2003年からは青森の山内牧場に移動。2008年に種牡馬を引退。同牧場で功労馬とすることが決まった直後の12月12日、馬房で倒れているダイタクヘリオスが発見された。享年21歳。
常に期待通りの走りを見せるわけではなく、安定感には欠けるものの、勝ったレースは文句なしに強かったダイタクヘリオスは、1960年代の
カブトシロー、70年代の
エリモジョージに互するクセ馬といえる。怪しく黒光りする馬体、首を高くして走る独特のフォーム、レース中気の悪さを示すように口を割る行儀の悪さ、普段でも落ち着きのない仕草、青に白縁のやや不細工なメンコと格好も悪かった。けれども穴党を中心に根強いファンが存在した。種牡馬として産駒成績は大したものではないが、産駒
ダイタクヤマトが種牡馬となっており、ダンディルートの貴重な血統が継承される可能性があるのは大きい。その産駒が穴党を喜ばせるようなことになれば最高である。
2006年12月31日筆
2022年4月2日日加筆