[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ダイユウサクは1985年6月12日、門別・優駿牧場にて生まれた。この1985年生まれの同期生は
オグリキャップ、
スーパークリーク、
ヤエノムテキといった錚々たる面々である。父ノノアルコは1971年アメリカ産。大種牡馬ネアルコの孫で、英国2000ギニー、フランスのジャックルマロワ賞を含むマイルG1を4勝。1982年より日本で供用開始。代表産駒はAJC杯などを勝ったカシマウイング、東京新聞杯などを勝ったトウショウマリオなど重賞路線を長く活躍する中級馬を多く輩出した。母の父としてはエリザベス女王杯を勝ち有馬記念を2着した
ヒシアマゾンがいる。母クニノキヨコは現役時4戦1勝。その父
ダイコーターは菊花賞馬で主な産駒としては大阪杯などを勝ったニシノライデンなどがいる。祖母クニノハナはエリザベス女王杯の前身であるビクトリアカップや京都牝馬特別の重賞を含む6勝をあげている。零細牧場であった優駿牧場にとっては、このクニノキヨコは期待の繁殖牝馬であり、だからこそノノアルコという彼らにとってはかなり上等の種牡馬をつけたのである。ちなみに優駿牧場は現在経営者が代わり待兼牧場となっている。
ダイユウサクは橋本幸吉氏の持ち馬として栗東・内藤厩舎に入厩した。ダイユウサクという名は幸吉氏の孫の名に因んで「ダイコウサク」となるところを届け出ミスでこうなったということである。ダイユウサクは遅生まれのせいかなかなか仕上がらず、デビューは菊花賞も目前の10月末、中央開催の未勝利戦も終わった京都の条件戦であった。結果はブービー人気で最下位入線の惨敗。それも勝ち馬とは13秒も離されていた。続く福島の未勝利戦も勝ち馬から7.3秒遅れの大惨敗。1800mを2000mに近いタイムで走るていたらくであった。当時は福島で未勝利戦は終了し、ここで勝ち抜けなかった未勝利馬はすでに勝った馬を相手に戦わねばならず、必然的に勝率は低くなってしまう。
五歳は3月から始動。何とかローカル開催で1勝をあげないと競走生命を絶たれる。中京での条件戦を連闘使い後、出口隆義騎手に乗り替わった新潟で待望の初勝利をあげる。その後新潟で4着、京都に戻って内藤厩舎の主戦熊沢重文騎手に乗り替わり1着。さらに2着、2着、1着と好走したので、重賞の高松宮杯に挑戦するも14頭立ての7着に敗れた。その後甲東特別を勝ってオープン入り。その後は人気を背負い、勝ち鞍はなかったものの連対を果たした。この年は15戦5勝。あの散々なデビュー戦からは想像もできない、大方の関係者の予想を裏切る立派なオープン馬に成長した。もともと腰が甘いところのある馬だったが、その頃栗東トレーニングセンターに設置された調教用プールを有効活用して克服したのであった。
六歳はソエがでて6月から始動。久々ながら果敢に重賞路線に挑戦した。しかしCBC賞(G2)の4着が最高。G1挑戦となった天皇賞・秋は
ヤエノムテキの7着に終わった。もっとも14頭立ての11番人気であるからファンの評価よりは走ったといえる。重賞路線ではかなわなかったものの、一流馬のいないオープン特別は強かった。特に12月阪神の飛鳥ステークスはJRA最後の単枠に指定され見事に人気に応えた。7戦3勝、着外は天皇賞のみ。重賞制覇の夢は夢でなくなろうとしていた。
明けて七歳。関係者の夢はいきなり実現する。大本命で迎えられた年始めの重賞金杯(G3)を制したのである。自信満々で抜け出したダイユウサクと熊沢騎手だがゴール前内から伸びてくる馬がいるので肝を冷やした。しかしそれはカラ馬のメジロマーシャスだった。この珍事の副産物としてダイユウサクは注目されることになったのだが、年末により注目を集めることになろうとは誰も予測はできなかった。金杯は蹄の状態が悪いのにも関わらず、大本命であるために無理して走った。その反動がその後にきて、大阪杯(G2)2着、朝日CC(G3)7着、京都大賞典(G2)5着、スワンS(G2)4着、マイルCS(G1)5着と一息足りない成績が続いた。
マイルCSのあとは当然スプリンターズS(G1)に向かうものと思われた。この馬の適正はマイルから中距離であり、1200mは短いにしても2500mの有馬記念に比べて、はるかに勝算は高いといえた。しかし内藤師はスプリンターズSの1週前の阪神新装記念1600mオープンに出走させた。ここを勝てば年末の有馬記念に推薦させる可能性があったからである。実際ダイユウサクは59キロの斤量を背負いながらも勝って、有馬記念に推薦された。その後ダイユウサクは状態が一変。あまりの調子の良さに内藤師は強気になり、実現はしなかったが有馬記念ではベテラン岡部騎手に依頼する程であった。競馬評論家の間でもダイユウサクの好調ぶりは注目を集めていた。しかしこの年の有馬記念には不動の本命馬がいた。前年の菊花賞とその年の天皇賞・春を勝った
メジロマックイーンである。ただし天皇賞・秋は1位入線後14着に降着、ジャパンカップは日本馬最先着とはいえ4着に敗れていた。しかも騎乗する武豊騎手は降着後62連敗という騎手生活始まって以来のスランプに陥っていた。それでも
メジロマックイーンの2着探しというのがファンの見方でその2着争いは混戦を極めていた。ダイユウサクは15頭中14番人気、単勝支持率は
メジロマックイーンが47.5%に対して0.6%でしかなかった。2400m以上の実績がなく、前走勝っているとはいってもマイル戦、しかも中1週とあっては仕方のないところであった。ゲートが開くとダイユウサクと熊沢騎手は後方から無理なく進んだ。
メジロマックイーンはいつものように好位につけた。ほぼ全馬にマークされる
メジロマックイーンに対してダイユウサクをマークする馬は一頭もいない。全くの無欲のダイユウサクは内ラチ沿いを静かに進む。やがてレースは中山の直線を迎えた。満を持して抜け出す
メジロマックイーン。しかしダイユウサクがインコースを一気に突き抜け、
メジロマックイーンを1馬身半差をつけて1着でゴールイン。その光景を見た観衆、関係者ともども唖然とした有馬記念だった。有馬記念史上最高の単勝1万3790円。しかもタイムは2分30秒6という日本レコードで、このタイムは2003年に
シンボリクリスエスによって更新されるまで保持し続けた。熊沢騎手は1988年
コスモドリームのオークス以来のG1勝利となった。
八歳になってもダイユウサクは走り続けた。しかしあの有馬記念が一世一代の大駆けだったのを証明するように、着順掲示板に載ることなく、スワンSを最後に現役引退した。結局重賞勝ちは七歳における年初の金杯と年末の有馬記念のみであった。
現役を引退したダイユウサクはグランプリ馬であったから、新冠の八木牧場で当然のように種牡馬となることができた。しかし地味な血統背景と、有馬記念があまりにも強烈でまぐれ勝ちの印象が強すぎてか、期待通りの繁殖牝馬が集まらなかった。その数は初年度13頭、次年以降2頭1頭そして0頭。ところでJRAには八大競走及びジャパンカップの優勝馬は一般に観覧できる設備に繋養されることを条件に、飼い葉代などを助成する功労馬制度がある。ダイユウサクは種牡馬を引退、うらかわ優駿ビレッジAERUに移りここで功労馬として過ごした。そして2013年12月8日に老衰で永眠した。
競馬は良血馬が活躍する確率が高いし、最近はそれが顕著になる傾向にある。しかし良血馬が当たり前のように勝つ現在の状況が、最近のファンの競馬離れを増長しているような気がしてならない。良血馬でもない安馬がG1を勝つというのは難しいが今後とも皆無とはならないだろう。しかしあのタイムオーバーのデビュー戦から有馬記念を勝つまでになったダイユウサクのような大逆転劇を演じられる馬はそうそう多くはでないだろう。これだから競馬は面白いし存在意義があるのであろう。
2003年3月16日筆