[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ダイナガリバーは1983年千歳・社台ファームにて生まれた。父ノーザンテーストは1971年カナダ産馬。当時世界の馬産はノーザンダンサーの血を引く種牡馬が大成功を納めていた。しかし日本の生産界は全くの亜流といえるテスコボーイ産駒が幅を利かせ、世界の主流から外れた状態にあった。これを打破するべく社台ファームの総帥吉田善哉氏は「ノーザンダンサー産駒のいいのを買ってこい」と、息子の照哉氏をアメリカ・サラトガの競り市に派遣した。照哉氏が10万ドルで競り落とした馬は小振りな栗毛馬で顔面に左右不対称の大流星が走り見栄えも悪かった。ノーザンテーストと名付けられ、フランス及びイギリスで20戦5勝。勝ち鞍の中にはフランスの1400mG1であるラ・フォレ賞を含んでいる。引退後、日本に輸入され社台グループの種牡馬となった。Lady Angelaの4x3という強烈なインブリードを持っていて、体質の弱さを受け継がれなければ種牡馬として成功はある程度予想できたが、その成功は社台グループの過去の債務を返済して余りあるものであった。1981年有馬記念と83年天皇賞・春を制した
アンバーシャダイ、1983年オークス馬
ダイナカールなどG1級競走の勝ち馬を出すだけでなく、重賞競走勝ち馬を多数輩出、コンスタントに勝ち馬を送り出し、1982年か92年まで実に11年連続して日本リーディングサイヤーに君臨した。母ユアースポート は1972年千葉・社台ファームの生産馬で現役時2戦未勝利。ダイナガリバーの半兄に地方競馬出身ながら、マイラーズC、高松宮杯、函館記念などを勝ち、宝塚記念を2着するなど、短中距離路線で活躍したカズシゲがいる。また全妹としてエリザベス女王杯を4着したダイナシルエットがいる。ユアースポートの祖母レディスラーは5番仔ヌアージターフが
セントライト記念を勝っており、社台ファームにおいて重要な牝系として扱われていた。母の父バウンティアスは英国産馬で中山大障害5勝の名障害馬バローネターフを輩出している。吉田善哉氏は生まれた直後のダイナガリバーを見て「この馬はダービーを獲る馬だ」と直感したという。
と或る日、「サクラ」の冠号で知られる全演植氏と彼の主な預託先だった境勝太郎調教師が社台ファームにやってきた。吉田善哉氏はダイナガリバーを「ダービーを獲る馬だ。4000万円で持っていきなさい」と全氏にしきりに勧めた。全氏は購入する気持ちに傾きつつあったのだが、境調教師は「この馬はいらんです」と拒否した。その理由はダイナガリバーの馬相にあった。確かに血統も申し分ないし、鹿毛の雄大な馬格だが、父ノーザンテースト譲りの左右不対称の大流星が「これは名馬の相でない」と境師を嫌悪させたのであった。後に両氏はこの決断を後悔することになる。
結局、吉田善哉氏はダイナガリバーの売却を諦め、社台ファームが主宰する共有馬主クラブ社台ダイナースクラブの持ち馬として、美浦・松山吉太郎厩舎に入厩した。ちなみにダイナガリバーはダイナースクラブに所属する数多くの馬の中でも最高値に設定されて期待の大きさが伺えた。1985年三歳、8月の函館の新馬戦で吉永正人を鞍上に初出走。1番人気に支持されながら2着。しかし折り返しの新馬戦に勝って1番人気に応えた。その後ソエがでて間隔が開き、12月中山のひいらぎ賞に出走。久々で初の2000mということで3番人気であった。吉永正人騎手は松山厩舎の主戦であったが、翌年限りでの引退を決めていた。松山師はダイナガリバーの手綱をベテランの増沢末男騎手に委ねることにした。ダイナガリバーの脚質は増沢騎手好みであり、このひいらぎ賞も勝って3戦2勝と上々の三歳競馬となった。
1986年4歳、ダイナガリバーは共同通信杯四歳ステークスから始動した。ダービーと同じ東京競馬場で開催される1800m戦である。9頭立ての1番人気に支持され、先行して抜け出す横綱競馬で、1分48秒7のレースレコードで快勝した。しかし次走に予定していたスプリングステークスが降雪のため、翌週に延期された。無理して使っても中1週で皐月賞に挑むことになるため、陣営はぶっつけで皐月賞に挑むことを決めた。皐月賞は底力を期待されて、無敗馬
ダイシンフブキに次ぐ2番人気に支持された。しかし調整に狂いが生じていたことから、ダイナガリバーの動きに鋭さがなく、中団から伸びず
ダイナコスモスの10着に大敗した。
第53回日本ダービーは23頭立て、晴れ、良馬場の絶好のコンディションで行われた。吉田善哉氏は「ダイナガリバーがダービーを獲る」と高らかに宣言し、ダイナガリバーを追いかけるNHKの特別番組まで撮らせている。しかし吉田氏の怪気炎にもかかわらずダイナガリバーは3番人気であった。皐月賞の惨敗がファンに悪印象を与えていたのだろう。1番人気は関西の秘密兵器と称せられNHK杯を快勝したラグビーボールで、2番人気は皐月賞馬の
ダイナコスモスであった。鞍上の増沢騎手はダイナガリバーと自分の競馬をすれば勝てると信じていた。吉田氏の自信ははったりではなく、松山師による馬の仕上がり状態は完璧に近かったからである。スタートすると増沢とダイナガリバーは先行し、1コーナーを4番手で回った。ラグビーボールは中団、
ダイナコスモスはやや後方に待機した。ペースは1000mを62秒5とスローで流れた。ダイナガリバーはラグビーボールと
ダイナコスモス、そしてもう一頭の有力馬アサヒエンペラーを牽制しつつ、先頭を伺いながら、内ラチ沿いを4コーナーを回った。増沢はあとは抜け出すだけと思われた。しかし忍者のようにポッカリ空いた内ラチいっぱいを走るグランパスドリームが粘り、なかなか先頭を奪えない。馬主席では吉田氏が必死の形相で声援を送る。彼が運営する社台ファームは日本最大の牧場であったが、ただの一頭もダービー馬を生産していなかったからであった。その声援が乗り移ったのか、ダイナガリバーが一歩一歩グランパスドリームとの差を詰める。そしてそのグランパスドリームを半馬身差退けたところがゴールであった。社台ファームはその前身である社台牧場がヨシキタという馬で第1回ダービーに参戦して以来、悲願を成就したわけである。
ウィナーズサークルではファンに祝福される吉田善哉氏の姿があった。また鞍上の増沢末夫は48歳7ヶ月と5日で史上最年長のダービージョッキーとなった。
1986年四歳秋は
セントライト記念から始動。1番人気に支持されたが4着に敗退。続く京都新聞杯も2番人気で4着。この成績を見る限り、「右回りは走らない」「ダイナガリバーはダービーでもう仕事を終えた」と思われても仕方がなかった。しかし5番人気に落ちた本番の菊花賞では地力を見せた。ゲート入りを嫌って心配させたが、持ち前の先行力を生かして粘り、勝った
メジロデュレンにクビの差交わされたものの2着となり評価を持ち直した。
第31回有馬記念の主役の1頭は
ミホシンザンであった。五冠馬
シンザンの仔にして、前年皐月賞と菊花賞の二冠を達成。さらに同年の有馬記念も
シンボリルドルフの2着であった。この年の秋は毎日王冠、天皇賞・秋、ジャパンカップと出走してすべて3着であった。勝ちきれない内容ながらもジャパンカップ3着が日本馬最先着であったことがファンに評価され、1番人気に支持された。もう1頭の主役はこの年史上初の牝馬三冠を達成した
メジロラモーヌであった。牝馬3冠だけでなくそのトライアルも全勝で6連続重賞勝ちという離れ業を演じた。
メジロラモーヌのオーナーはこの有馬記念での引退を表明していて、ファンは牝馬が一流牡馬相手に通用するのかという冷静な判断力を棚に上げて、「これで見納め」という感傷的な気持ちから2番人気とした。地力の
ミホシンザン、人気の
メジロラモーヌに隠れて、ダービー馬にして菊花賞2着のダイナガリバーの評価は高いものではなく、4番人気であった。ダイナガリバーはスタート後3,4番手につけ、後続の有力馬の動向を伺う。ペースは平均で流れ、この展開だとダイナガリバーは必ずいい勝負をすると増沢は確信した。4コーナーでも4,5番手をキープするダイナガリバーは、そのままの勢いでゴールを目指す。
ミホシンザンは当日嫌いな雨に降られたのが気になったのか伸びを欠き、
メジロラモーヌは直線半ばで大きな不利を受けていた。内ラチ沿いをしっかりと伸びたダイナガリバーは同じ馬主の
ギャロップダイナを2着に引き連れて優勝した。表彰式では吉田善哉氏がダイナガリバーと
ギャロップダイナの両馬の手綱を手に取り、「両手に華」となった。ダービーと有馬記念に勝ったダイナガリバーはこの年の年度代表馬に選出された。通常の年ならば文句のない実績だが、牝馬三冠を達成した
メジロラモーヌの偉業を評価すべきという意見もあって、この受賞に疑問視する声も少なくなかった。
1987年五歳となったダイナガリバーは天皇賞・春を目指して日経賞に出走した。天皇賞の先にはフランスの凱旋門賞に挑戦するプランが描かれていた。レースは
ミホシンザンが本来の実力を見せて勝ち、ダイナガリバーは先行して粘るパターンに持ち込みながらも3着であった。ダイナガリバーが彼なりの競馬を見せたのはこのレースが最後であった。その後骨折を発症し、秋の毎日王冠で復帰したものの12頭立ての最下位に敗れ、続く有馬記念も16頭立ての14着と惨敗した。この年の有馬記念は2番人気の
メリーナイスがスタート直後に落馬し、1番人気の
サクラスターオーが競走中止するという大波乱となり、その話題ばかりが注目されてしまい、前年覇者のダイナガリバーが大敗したことなど話題にも上らなかった。
1988年、ダイナガリバーは前年の有馬記念を最後に引退することを表明した。レッスクスタッドにて種牡馬生活を送り、1996年
ファイトガリバーが桜花賞を制した。また目黒記念と福島記念に勝ち、ドバイにも遠征し「ゴーイングスズカが強引に先頭を奪いました」という実況で一部のファンで有名なゴーイングスズカ、NHK杯を制したナリタタイセイ、日経賞を勝ったインターライナーなどを輩出した。父と同じく鋭い脚はないが、ジリジリ伸びる中長距離馬が多く、馬場も悪い方が得意な傾向にあった。卓越した成績はないが、細く長く活躍する馬を多く輩出した。G1勝ち馬のほとんどは種牡馬となるが、その仔がG1を勝てるというのはほんの一握りである。そういう意味からするとダイナガリバーは幸せな種牡馬だといえるだろう。そもそもノーザンテーストの産駒には数多くの種牡馬がいたが、その仔がG1を勝ったのは
アンバーシャダイとダイナガリバーだけである。2001年を最後に種牡馬生活から退いてからは去勢され、ノーザンホースパークで功労馬として余生を送った。2012年4月26日、疝痛で永眠した。
現役時にダービーと有馬記念を勝ち、産駒として桜花賞馬を送り出したダイナガリバーは名馬と語る資格のある馬であろう。しかしそれよりもダイナガリバーの功績は社台ファーム初のダービーとなったことであろう。このダイナガリバーが勝ったダービーの10年後より、社台ファームは天才種牡馬サンデーサイレンスを擁して、ダービーだけでなく、ほとんどのG1競走の勝ち馬にその名を連ねることとなる。このダイナガリバーによるダービー制覇によってその父ノーザンテーストの評価が高まり、牧場経営が安定化し、サンデーサイレンス購入への下地となった。また、牧場関係者が育成に関して得られた自信というのも少ないものではないであろう。また社台ファームの黄金時代を迎えたときには吉田善哉氏が他界していた。彼の存命中にダービー馬となったダイナガリバーは社台ファームの歴史を語る上で忘れることのできない馬であろう。
2006年9月10日筆
2022年4月2日加筆