[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
フサイチコンコルドは1993年2月11日、早来・社台ファームで生まれた。当時の社台ファームは千歳、早来、白老の3地区で生産を行っていて、創業者吉田善哉氏の死後、息子たちにそれぞれ相続され、早来は次男の晴哉氏が管理するところとなり、現在は「ノーザンファーム」を名乗っている。父カーリアンCaerleonは1980年アメリカ産。最後の英国三冠馬ニジンスキーの産駒で現役時代はフランスダービーを含む8戦4勝。引退後は主にアイルランドのクールモア・スタッドで供用され、1988年及び1991年に英国及びアイルランドでリーディングサイヤーを獲得している。1998年2月に心臓麻痺にて死亡した。主な産駒としては、英国及びアイルランドダービーとキングジョージを制したジェネラスなどがいる。日本に輸入されて活躍した産駒としてはマイルCSを勝った
シンコウラブリイ、朝日杯三歳Sを勝ったエルウェーウイン、阪神三歳牝馬Sを勝ったが
ビワハイジなどがいる。ちなみにカーリアンの母の父ラウンドテーブルは、あの
ハクチカラが勝ったワシントンバースデーハンデに出走経験がある。どちらかといえばカーリアン産駒は、休養明けには強いものの、好調が長く持続せず、一発屋の傾向が強い。
母バーレイクインBallet Queenはアイルランド産で現役不出走。カーリアンの種を宿して1993年日本に輸入された。つまりフサイチコンコルドはいわゆる「持込馬」である。バーレイクインの父サドラーズウェルは近年欧州でもっとも成功した種牡馬で、凱旋門賞で
エルコンドルパサーを競り落としたモンジューなど多くの名馬を輩出している。バーレイクインの母サンプリンセスは英国オークスとセントレジャーを連覇し凱旋門賞を2着した名牝である。ところでニジンスキーもサドラーズウェルもその父は同じノーザンダンサーである。サラブレッドの場合、こういった近親配合は珍しくないのだが、それにしても、曾祖父が共通する濃い近親配合は珍しい。しかも世界的名馬ノーザンダンサーである。近親配合は優れた能力を遺伝する反面、悪性遺伝子も同時に受け継がれ、虚弱体質となりやすい。そのため人間社会では忌避されている。フサイチコンコルドは典型的な虚弱体質であった。普通、哺乳動物は夜に体温が下がり、日中の活動時に上がるものだが、フサイチコンコルドはこの逆で、日中に体温が下がってしまう「逆体温」体質であった。なおかつ輸送するとたびたび発熱し、競走馬としてモノになるのかどうか心配された。そのかわり走りは間違いなく一級品であることは認められた。
メイテック社長の関口房郎氏の持ち馬として、栗東・小林稔厩舎に入厩したフサイチコンコルドは1996年1月5日、京都開催の新馬戦に初出走した。藤田伸二騎手を鞍上に1番人気に応えた。続いて3月9日阪神のすみれステークスに出走。ここも1番人気に応えた。わずか2勝とはいえこの時点の獲得賞金で皐月賞の出走は可能であった。しかし小林師は虚弱体質のフサイチコンコルドに無理は禁物と考え、目標をダービーに絞ったため、皐月賞を回避。ダービーへの出走を確実にするため、指定オープンのプリンスパルステークスを目指し東京に向かった。しかしレース直前に発熱し同レースを回避。勝ったのは同じく発熱して皐月賞を回避した
ダンスインザダークだった。
第63回日本ダービーは晴・良馬場で行われた。1番人気は武豊騎乗の
ダンスインザダーク。オークス馬
ダンスパートナーの全弟であり、皐月賞は発熱で回避したものの、弥生賞、プリンシパルSと連勝し、まずは不動の本命と思われた。2番人気は皐月賞2着でダービー馬ウィニングチケットの弟ロイヤルタッチ。3番人気が皐月賞馬
イシノサンデーであった。フサイチコンコルドは賞金面で出走できるかどうか微妙であったが、同一厩舎のフサイチシンイチとともに出走することができた。わずか2戦の実戦経験、それも発熱で順調さを欠いた臨戦過程とあって、7番人気と低評価だった。レースはサクラスピードオーが逃げ、
ダンスインザダークが3,4番手につけた。フサイチコンコルドと藤田伸二は7番手と
ダンスインザダークを見ながら競馬を進めた。直線を迎え
ダンスインザダークが抜けだしを計った。少し早いかと思われたが、
イシノサンデーもロイヤルタッチもまだ後方だ。大丈夫だ、と武豊騎手は自信満々だった。しかし、フサイチコンコルドが並びかけ、両馬の叩き合いになった。早めに抜け出した
ダンスインザダークには余力がなかった。フサイチコンコルドが
ダンスインザダークをクビ差退けて優勝。実況アナウンサーは「音速の末脚」「日本のラムタラ」と形容した。前者は超音速で飛行できる旅客機コンコルドから、後者は前年に僅か1戦のキャリアで英国ダービーをレコード勝ちしたラムタラを思い起こしてのことである。
夏をなんとか乗り切ったフサイチコンコルドだが、相変わらず体調は万全ではなく、予定していた京都新聞杯を使えず、古馬混合オープン戦のカシオペアステークスに出走した。1番人気に支持されるも勝ち馬の逃げを捕らえることができず、5馬身差の2着に敗れた。そして菊花賞を迎えた。最後の一冠を奪いたい
ダンスインザダークは京都新聞杯を勝って万全の状態で1番人気に迎えられた。皐月賞馬
イシノサンデーの姿はなく、二冠の可能性があるのはフサイチコンコルドのみ。ダービー馬の底力を信じて2番人気に支持された。無冠の血統馬ロイヤルタッチが3番人気であった。フサイチコンコルドはダービーを上回る3ハロン34.4秒の末脚を繰り出して、前をいく馬を交わしていく。しかし
ダンスインザダークは4コーナーで最後方に位置しながらも、フサイチコンコルドを上回る33.8秒の鬼脚を発揮し最後の一冠をもぎ取った。フサイチコンコルドはロイヤルタッチにも交わされ3着に終わった。
敗れたとはいえ力を出し切ったフサイチコンコルドであったが、その後は脚部不安に悩まされ、レースを使われることなく、1997年秋に引退。社台スタリオンにて種牡馬として供用された。その後ブリーダーズスタリオンステーションに移動した。早死にした父カーリアンの後継種牡馬として期待されていたし、近親配合の強い種牡馬は成功するというジンクス通りに、種牡馬としてもまずまずの成功を収めた。中央G1の勝ち馬こそいないものの、ブルーコンコルドがダート交流G1を4勝し、2006年度ダートグレード競走最優秀馬に選出されている。また毎日王冠など前哨戦G2に強かったバランスオブゲームやエリザベス女王杯2着のオースミハルカなど、堅実な馬を輩出した。母の父としては
ジョーカプチーノがNHKマイルカップを制した。2013年まで種牡馬として供用され、2014年9月8日余生を送っていた青森の太田ファームにて、放牧中に転倒し、この世を去った。
関口オーナーは凱旋門賞制覇を夢見ていた。馬名の「コンコルド」は、パリの凱旋門の南東にある「コンコルド広場」に由来している。しかし、ダービーの末脚はまさに音速の末脚で、馬名は超音速旅客機コンコルドから由来していると言っても誰も疑いを持たないのではないか。僅か2戦のキャリアでダービーを制することはタイ記録があっても更新することはないと思われる。フサイチコンコルドの名は最少キャリア制覇として永久に記録に残ることだろう。
2007年5月4日筆
2022年4月3日加筆