[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
グリーングラスは1973年青森県諏訪牧場にて生まれた。父インターメゾは英国産でセントレジャー勝ち馬で1971年より日本で供用された。他の代表産駒としては毎日王冠を勝って天皇賞を1番人気に支持されたタカラテンリュウなどがいる。母ダーリングヒメは現役時44戦7勝で福島大賞典、七夕賞の重賞勝ち鞍がある。母の父ニンバスは2000ギニーと英国ダービーを連覇した名馬。さほどの産駒を残したわけではないが高齢で日本に入ってきたのでやむ得ない。この血統から見当がつくように明らかなステイヤー血統で、実際グリーングラスは道中好位につけてスタミナ勝負に持ち込む典型的なステイヤーであった。
半沢吉四郎氏の持ち馬として、東京の中野隆良厩舎に入厩したグリーングラスのデビューは風邪をこじらせて遅れ、四歳1月末郷原洋行騎手を鞍上に東京の新馬戦となった。ここには後にライバルとなる
トウショウボーイが出走していた。結果は
トウショウボーイの4着。
トウショウボーイがその後無敗で皐月賞を得たのに対して、グリーングラスは次走の新馬戦にも敗れ、3戦目の未勝利戦でようやく勝ち上がった。しかし続いての条件戦は4着に敗れて、ダービー出走を賭けてNHK杯に出走するも12着に大敗。ダービー出走の夢は絶たれた。しかしまだ菊花賞への道は残されている。
あじさい賞、マーガレット賞、中距離ハンデを1着、2着、2着。そして10月末鹿島灘特別を勝ってようやく3勝目をあげた。しかし菊花賞への出走するには獲得賞金がギリギリであった。グリーングラスを上回る獲得賞金の馬が出走表明すれば、その時点で菊花賞への出走は絶たれるという微妙さであった。幸運にもグリーングラスは菊花賞に出走できた。この年の菊花賞は皐月賞馬でトライアルを連勝したのウショウボーイ、ダービーで
トウショウボーイを下した
クライムカイザー、関西の期待の星で秋に復活の気配の
テンポイントで3強を形成していて、グリーングラスは鞍上の安田富男騎手が京都で乗るのは初めてということもあって、21頭立ての12番人気と低評価であった。グリーングラスは内ラチを好位で追走し、早めに抜け出した
テンポイントを直線半ばで捕らえると、2馬身半差をつけて優勝した。観衆は黒鹿毛の大柄な馬体に名前と同じく緑色のメンコをつけたグリーングラスが勝つのを見て言葉を失った。そして「遅れてきた青年」と呼んだ。枠番連勝は8030円の大穴となった。有馬記念は予備登録すらしておらず、この菊花賞が四歳最後のレースとなった。
五歳はAJC杯から始動し余裕のレコード勝ち。目黒記念2着を叩いて、天皇賞に出走。2番人気に支持されたが歯替わりと虫歯で本調子にはなく
テンポイントの4着に敗れた。続く宝塚記念は
トウショウボーイ、
テンポイントに及ばず3着。五歳を迎え充実期を迎えつつあった両馬にはかなわなかった。7月嶋田功騎手に乗り替わった日本経済賞を完勝。しかしその後夏負けのため、ぶっつけで天皇賞に挑まねばならなかった。
トウショウボーイに続く2番人気に支持されたが、その
トウショウボーイと競り合う形で暴走して末脚をなくし、後方待機していた
ホクトボーイの5着に惨敗した。続く有馬記念は
テンポイントと
トウショウボーイの歴史的なマッチレースとなり、2頭の半馬身遅れる3着に入るのがやっとであった。
明けて六歳、ライバル2頭が引退しいよいよグリーングラスの天下かと思われたが、天皇賞の前哨戦として選んだAJC杯とオープンはそれぞれ2着3着。しかも右前脚の深管が痛み順調さを欠いた。しかし直前の調教で状態が一変し1番人気に支持された。最大のライバルと思われた前年の菊花賞馬
プレストウコウが鞍ずれで競走中止するハプニング。グリーングラスは岡部騎手を鞍上に内ラチピッタリを3、4番手の好位を進み、トウフクセダンを1馬身差をつけて完勝。続く宝塚記念も1番人気に支持されたが、
エリモジョージの逃げを捕らえることができず2着に敗れた。秋の目標であった有馬記念はインフルエンザや脚部不安が生じてぶっつけで挑まねばならなかった。レースはスローペースに翻弄されて
カネミノブの6着に敗れた。
七歳となったグリーングラスは天皇賞を得ているので春は宝塚記念、秋は有馬記念を目標にした。1月のAJC杯2着からぶっつけで宝塚記念に出走し
サクラショウリの3着。11月のオープン2着のあと有馬記念に挑んだ。大崎騎手と最初で最後のコンビ。いつものように好位につけ、いつもより早めにスパート。メジロファントムの猛追撃をハナの差堪えてグランプリ制覇。天皇賞も有馬記念も3度目の挑戦にして栄冠を得た。26戦8勝ながら着外は僅か2回だけ。生涯取得賞金は史上最高の3億2841万円となり引退した。
種牡馬となったグリーングラスだが、筋金入りのステイヤー血統のため
トウショウボーイのような成功を収めることはできなかった。それでも1985年エリザベス女王杯でリワードウィングが勝った他、AJC杯と金杯に勝ったトウショウファルコを出すなど中級馬を中心にそれなりの産駒を残した。種牡馬を引退したグリーングラスは佐賀の牧場に引き取られまったくの個人負担で余生を送ることになった。2000年6月、放牧中柵に激突した時の怪我が原因で永眠した。
比較的恵まれた余生を送ることができたのは、同世代である
トウショウボーイ、
テンポイントの顕彰馬となった2頭の名馬と常に凌ぎを削り、その後も大レースで勝負強さを発揮しつづけたことがファンの脳裏に焼きついていたからであろう。3頭の中で最も長い競走生活を送り、最も長い命脈を保ったグリーングラスは、その地味なキャラクターにふさわしい生涯であったといえる。
2002年2月11日筆