[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ハギノカムイオーは1979年4月1日荻伏牧場にて生まれた。父テスコボーイは英国産馬で現役時代は11戦5勝と胸を張れるものではなかったが、日本に種牡馬として導入されると優秀な産駒を送り出し、最終的にはダービー以外の全ての大レースに勝った。代表産駒は数多くいるが、G1級レースを2勝した馬としては、皐月賞・有馬記念・宝塚記念を勝ち種牡馬としても大成功した
トウショウボーイ、皐月賞と菊花賞に勝った
キタノカチドキ、桜花賞とオークスに勝った
テスコガビーがいる。母イットーはイギリスから輸入したキューピットの子孫で、現役時代はスワンSと高松宮杯に勝っている。当時は古馬牝馬限定のGIはおろか重賞すら少ない時代で、今ならG1を勝っていたであろう実力馬だった。イットーの母ミスマルミチの半姉
ヤマピットはオークスを勝っている。母の父ヴェンチアは今やほぼ絶滅してしまったマッチェム系の種牡馬で、代表産駒としてはダービー馬
クライムカイザー、母の父としては日本馬で初めてジャパンカップを制した
カツラギエースなどがいる。イットーの1番仔のハギノトップレディーは桜花賞とエリザベス女王杯を制するが、このイットーの3番仔である弟は生まれた時にはまだ姉がデビューしていなかったにもかかわらず、その血統背景ゆえ生誕直後から即金で購入を希望する者が現れるほど評判馬となった。しかし農協が所有するテスコボーイ産駒はセリ市の上場義務があったため、生後7ヶ月の身でせり市に上場された。そのころハギノトップレディーが函館の新馬戦で日本レコードを叩き出し、評判はさらに高まり、開始価格は過去最高を3000万円上回る8000万円とされた。静内青年部と
ハギノトップレディのオーナー日隈広吉氏が激しく競り合い、ハギノトップレディーの調教師で日隈氏の代理人だった伊藤修司調教師が1億8500万円で競り落とした。史上最高価格で競り落とされた
ハギノトップレディの弟は、競馬関連はもちろんのこと、一般のテレビ放送でも大きく報じられた。競り市のあと、途中までセリに参加していた中村和夫氏が、共同所有を提案し、購入価格の半額を負担することで合意した。このことは後にある疑惑を生じさせることになる。
ハギノトップレディの弟はハギノカムイオーと名付けられ、
ハギノトップレディと同じ栗東・伊藤修司厩舎に入厩した。ちなみにカムイとはアイヌ語で神格を有する霊的存在を意味し、実際に牧場での幼名はカムイオーだった。
1982年1月末、四歳となったハギノカムイオーは京都の新馬戦に伊藤清章騎乗で初出走した。当初はハギノトップレディーと同じ三歳函館での初出走を予定していたが、引き運動中に軽度の骨折が発症し、初出走が大幅に遅れてしまったのだ。高額馬とあって競馬ファンの注目が高く、パドックはまるでG1レースのような賑やかさで、当時としては珍しく関東の競馬場にもこの新馬戦が中継された。スタートすると他を圧倒するスピードで、馬なりのまま2着馬に7馬身差をつけて逃げ切った。続いて皐月賞を見据えて中山2000mの400万条件特別に出走した。普通、四歳の条件特別は昼下がりに組まれるものだが、注目度が高いために、競馬会はメインレースに変更する異例の対応を取った。ハギノカムイオーはここでも2着馬に3馬身差をつけて快勝した。単勝支持率は77.6%だったので払い戻しは元返しの100円だった。
次走は中1週で重賞のスプリングステークスに出走した。ここにはハギノカムイオーの共同所有者中村氏がオーナーで重賞2連勝中のサルノキングが出走していた。サルノキングはここ2戦を逃げ切りで勝利しており、ハギノカムイオーとどちらがハナを奪うかが注目された。ところがあろうことか、無難に先頭を奪い取ったハギノカムイオーに対し、サルノキングは20馬身もの最後方を進むという誰も予想しなかった展開となった。結局、ハギノカムイオーはワカテンザン、
アズマハンターの追撃を振り切っての逃げ切り勝ちで3連勝を達成した。サルノキングは追い込んで4着だったものの競走中の骨折が判明した。この異常すぎる展開はサルノキング騎乗の田原成貴騎手が持ち前の感性で手綱を抑えたためと説明されたが、ハギノカムイオーを勝たせるために、中村オーナーが指示したのではないかという八百長疑惑が語られることになった。中2週で挑んだ皐月賞は1番人気に支持された。しかし同じ逃げ馬のゲイルスポートに出鼻を挫かれ、ハイペースで競り合ってしまった。その結果、直線で一杯になってしまい、
アズマハンターの16着と惨敗してしまった。汚名挽回で挑んだNHK杯もゲイルスポートに逃げを殺され、12着に沈んだ。伊藤師はダービー出走を断念し、荻伏牧場で放牧し捲土重来を図った。
四歳秋は神戸新聞杯から始動した。3番人気に落ちていたハギノカムイオーはダービー馬
バンブーアトラスの追い込みを3着に抑えて逃げ切り勝ちした。続く京都新聞杯は2番人気まで回復した。菊花賞を見据えて2番手で控える競馬を試み、2着馬に半馬身差をつけて勝利した。菊花賞の前哨戦を連勝し、本番の菊花賞は1番人気で迎えられた。1000mを59秒5という超ハイペースで大逃げを打ったが、3コーナーの坂を登ったところで失速し、
ホリスキーの15着と大惨敗した。優勝時計の3分5秒4は当時の芝3000mの世界レコードであった。このレコードはハギノカムイオーの無謀なペースの逃げが貢献したことに間違いない。
1983年五歳となったハギノカムイオーは福島県いわき市の競走馬総合研究所での温泉療養を経て、5月のスワンステークスに姿を現した。得意のマイル戦とあって単枠指定の1番人気に支持され、スタートから逃げ切るらしさ満点の競馬で人気に応えた。このスワンステークスは母イットーも勝っており、親子制覇となった。
第24回宝塚記念は晴良馬場の阪神競馬場で開催された。天皇賞・春で火花を散らした
アンバーシャダイと
ホリスキーは出走を回避し、GI級競走の勝ち馬としては
カツアール、
オペックホース、
ハワイアンイメージという全盛期がとっくに過ぎた馬たちであり、ハギノカムイオーは1番人気に支持された。2番人気に支持されたのはカズシゲで地方出身馬でありながら、すでに重賞を3勝し、ジャパンカップでも6着に逃げ粘った戦績が評価された。カズシゲも逃げ馬であり、かつてのゲイルスポートのように絡まれるとやっかいだと懸念されたが、古馬となったハギノカムイオーは成長していた。好スタートで先頭を奪うと、カズシゲを寄せ付けない単騎逃げに持ち込んだ。この2頭が離れた1,2番手を形成し、一度引きつけておいて直線で突き放す芸当を見せ、まさに行った行ったで決着がついた。勝ち時計の2分12秒1は芝2200mの日本レコード。ハギノカムイオーとカズシゲとは5馬身、カズシゲと3着のホースメンワイルドとは実に7馬身差がつく圧倒的な勝利だった。ハギノカムオーの生涯最高のレースであり、この宝塚記念優勝により獲得賞金が購買価格の1億8500万円を上回った。
続く高松宮杯はカズシゲが出走していたもののハギノカムイオーの58キロを1キロ上回る59キロを背負っていた上、他の出走馬は宝塚記念より弱体化していたため、あっさりと逃げ切り勝ちを収めた。母イットーとの親子制覇に加え、姉ハギノトップレディーとの姉弟制覇も達成した。
秋は東京のオープンを叩いて、ジャパンカップと有馬記念に挑むことになった。しかしオープンは得意な1800mだったにも関わらず、8頭立ての7着に敗れた。この結果で闘志をなくしたのか、ジャパンカップをアイルランドの牝馬
スタネーラの16頭立ての最下位、有馬記念も小島太騎手に手替わりしたものの、
リードホーユーの16頭立ての最下位に惨敗した。無茶なハイペースで逃げて直線手前で垂れるという、パドックにあった「特攻指令ハギノカムイオー」の横断幕そのままの「玉砕」という結果となった。ハギノカムイオーとしては宝塚記念でもう自分の仕事は終えた気でいたのであろう。伊藤師は「これ以上ファンの夢を壊したくない」とし、この有馬記念で現役を引退することとなった。
1984年1月8日、京都競馬場での引退式を終えたハギノカムイオーは、北海道にて種牡馬生活に入った。繋養先はハギノカムイオーの権利を半分持っている中村氏の経営するスタリオン中村畜産であった。種付け料は200万円とすでに内国産種牡馬として成功を収めていたアローエクスプレスと同額と強気だった。ところが期待に反して、ハギノカムイオーの産駒成績は振るわなかった。
アイネスフウジンの勝ったダービーで7着に粘ったカムイフジ、ダービーこそ23着だったが、それまではいわゆる関西の秘密兵器扱いされたタマモベイジュが記憶に残る程度だった。レコードタイムで駆ける産駒も現れたが、格下のローカル開催であり、全体としてはハギノカムイオーのスピードはうまく伝えられなかった。なお母の父としてはテイエムオオアラシ、シンカイウンの2頭の重賞勝ち馬を送り出している。
2000年に種牡馬生活を引退したハギノカムイオーは、新ひだか町の本桐牧場で功労馬として余生を送った。ハギノカムイオーは長寿を保ち、34歳の誕生日を迎えた2013年4月10日、老衰にて永眠した。
祖母キューピットから続く華麗なる一族の出身で、当時最高額のセリ値だったことから「黄金の馬」とも称せられた。四歳クラシックこそ無冠だったが、初出走からの3連勝、神戸新聞杯・京都新聞杯の連勝、スワンS・宝塚記念・高松宮杯の3連勝はハギノカムイオーの生まれ持ったスピードが遺憾なく発揮されたといえる。それに現在もそうだが、セリ市の最高価格取引馬は期待したような成績を上げられないことが多い。しかしハギノカムオーは馬代金を上回る賞金を獲得した。もちろんその他の経費もあるので、馬主としては赤字だろうが、宝塚記念という大レースを勝ったのだから、十分義理を果たしたといえる。種牡馬としては残念な成績ではあるが、GI級勝ち馬で種牡馬となった馬で、これ以下の繁殖成績の馬は枚挙にいとまがない。それにセリ最高価格をつけたことで、競馬ファン以外の一般人の耳目を集めた功績も見逃せない。当時中央競馬会は馬券の売上げが伸び悩んでいたが、ハギノカムオーがデビューした翌年に
ミスターシービー、翌々年に
シンボリルドルフという三冠馬が出現したことにより、一気に競馬の関心が高まった。三冠馬の看板があれば、ハギノカムイオーの話題など取るに足りないと思われるかもしれないが、ハギノカムイオーはデビュー以来スポーツ誌「ナンバー」に格調高く扱われており、よりスムースに三冠馬並立時代に橋渡しができた。そういう意味ではハギノカムイオーは競馬の営業面での功績がより高く評価すべきといえるだろう。
2022年8月11日筆