[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ヒシミラクルは1999年3月31日、三石・大塚牧場にて生まれた。大塚牧場は顕彰馬
メイヂヒカリ、菊花賞馬
アカネテンリュウ、宝塚記念を勝った
エイトクラウン、
ナオキ、
オサイチジョージなど名馬を生産したことで知られる。父
サッカーボーイは11戦6勝。阪神三歳ステークスを8馬身差で勝ち、四歳でマイルチャンピオンシップを制した。たびたび大敗もしたが、勝ったときの爆発力はファンを魅了した。四歳の有馬記念3着を最後に引退し、種牡馬となった。短中距離で活躍した自身と異なり、長距離馬を多く輩出し、ヒシミラクルの他には菊花賞馬
ナリタトップロード、エリザベス女王杯を勝った
ティコティコタックなどがいる。母シュンサクヨシコは現役時代3戦未勝利。その父シェイディハイツは英国チャンピオンステークスなどを勝って1988年のジャパンカップに出走。14着と大敗したが種牡馬となった。残念ながら産駒に重賞勝ち馬はいない。ヒシミラクルの五代血統表を見ると五代前の母系までカタカナの名が並ぶ典型的な内国産血統である。しかし牝系の父馬はシェイディハイツとヒンドスタンは別として、ラナーク、フィダルゴといったところは知名度に欠けている。ただ4代母のミチアサは
アカネテンリュウの母であり、曾孫に
オサイチジョージがいて母系はなかなか優秀といえる。しかし血統の地味さは隠しようもなく、母親と同じ芦毛で見栄えのしない馬格とあって、なかなか買い手がつかず、2001年5月のトレーニングセールで650万円で競り落とされた。
「ヒシ」の冠号で知られる阿部雅一郎氏の持ち馬として、栗東・佐山優厩舎に入厩したヒシミラクルは2歳2001年8月、小倉の新馬戦に初出走した。角田晃一騎手を按上に13頭立ての7着に敗れた。もっとも9番人気でしかなかった。折り返しの新馬戦はさらに11着と着順を下げた。9月阪神の未勝利戦も8着、9着と冴えなかった。ここまで1200m戦を使ってきた佐山師は、距離が短すぎるのではと考え、10月京都から中距離路線を使うことにした。2000mの未勝利戦を5着したあと、1800mで10番人気で2着と初めて連対を果たす。11月の京都でもう一度1800mを走り3着。未勝利ながらもそれなりの手応えをつかんで2歳競馬を終えた。
3歳となった2002年は少々間隔が開いて、皐月賞も既に終わっていた4月下旬の京都で始動。しかし4着6着と敗れ、中京の未勝利戦で漸く初勝利をつかんだ。その日は
タニノギムレットがダービーを制した日であった。10戦目にして初勝利。しかしヒシミラクルがこの年の菊花賞に勝つことになろうとは、ファンはもちろん関係者も誰も考えなかったであろう。これでツキ物が落ちたのか、その後の条件戦を中京から阪神、新潟、函館、また阪神と転戦し、2着、1着、3着、3着、1着と好成績を挙げた。気を好くした陣営は菊花賞を視野に入れ、初めての重賞となる神戸新聞杯(G2)に出走した。しかし菊花賞に出走しないのにここに出走していた
シンボリクリスエスの6着に敗れた。7番人気だったからそれなりの着順だが、菊花賞への出走権が得られる3着以内に入線できなかった。それでも陣営は菊花賞を諦めなかった。クラシック追加登録料200万円を支払い、8分の3という抽選をくぐり抜けて菊花賞出走馬に名を連ねることができた。
第63回菊花賞は晴良馬場の京都競馬場で開催された。主役と目された
タニノギムレットはダービー後に故障が発生して引退、もう一頭の有力馬
シンボリクリスエスも天皇賞・秋に出走した。押し出されるように1番人気に推されたのは皐月賞馬
ノーリーズンだった。人気薄だったとはいえ皐月賞をレコードで制し、前走の神戸新聞杯も2着、按上も武豊と他の出走馬と比べても実績が抜きんでていた。ヒシミラクルは10番人気と低人気であった。スタート直後、波乱が起きた。
ノーリーズンがゲートを出た瞬間、落馬したのである。いきなり主役が欠けて場内が騒然とするなか、レースは粛々と進んだ。ヒシミラクルは波乱も関係なく、気楽な立場で後方を悠然と進んだ。3コーナー手前からヒシミラクルは動き出した。徐々に先頭集団に取り付いていった。直線を向いてヒシミラクルは先頭に立った。ここまで終始角田騎手の手は動きっぱなしで、とても余力があるように思えなかった。しかしヒシミラクルの脚は止まらなかった。後方から追い込んできた人気薄ファストタテヤマのもう追撃をハナの差凌ぎ、見事菊花賞を制した。大本命馬の落馬ということもあってこのレースの3連複は34万4630円と大波乱となった。
つづく有馬記念では5番人気と穴人気したが、
シンボリクリスエスの11着に敗退した。
4歳の2003年は3月の阪神大賞典から始動も5番人気で12着。続く大阪杯も8番人気で7着と期待を大きく裏切った。ファンに「やはりあの菊花賞はまぐれだったか」と思わせた。
第127回天皇賞・春は晴良馬場の京都競馬場で開催された。この天皇賞・春は有力馬が早い段階から回避し、「実質G2」と揶揄されるほど出走馬のレベルは低かった。1番人気はG1挑戦のダイタクバートラムであった。そんな中、ヒシミラクルは前年の菊花賞馬にも関わらず、18頭立ての7番人気と極めて低評価であった。しかしヒシミラクルのスタミナは出走馬の中では抜きんでていた。菊花賞と同じように3コーナーからのロングスパートが決まり、サンライズジャガー以下の追い込みを抑えて、天皇賞を制した。しかし「出走馬のレベルが低すぎた」「たまたまペースがこの馬に向いただけ」とファンの評価はここでも低かった。佐山師は馬の状態がよかったことから、安田記念から宝塚記念という異例のローテーションも考えたが、結局、宝塚記念1本に絞ることになった。
第44回宝塚記念は晴良馬場の阪神競馬場で開催された。前年の年度代表馬
シンボリクリスエスや、この年のダービー馬
ネオユニヴァース、GI競走6勝の
アグネスデジタル、この年にジャパンカップを勝つことになる
タップダンスシチーなどが出走し、同レース始まって以来の豪華な出走馬が揃った。実績では見劣りしないヒシミラクルであったがファンの評価は低く6番人気であった。スタート後ヒシミラクルは後方に位置した。しかし角田騎手はいつものように3コーナーで動かずに脚を溜めた。最後の直線は有馬記念以来となる
シンボリクリスエスが内で伸びず、
ネオユニヴァースも疲労からか伸びを欠いていた。そこに
タップダンスシチーが先頭に立った。しかし外からヒシミラクルが豪快に追い込んできた。そして
ツルマルボーイの追撃を首の差凌いで、見事にG1連覇を達成した。大方のファンが目を疑うような結果となり場内はざわめいたが、時間が経つにつれて、奇跡の馬「ヒシミラクル」を讃える雰囲気に変わっていた。
4歳秋、再び奇跡を起こすべく、まずは天皇賞・秋を目指し、京都大賞典に出走した。59キロの斤量を背負いながら、先行しながら粘り、
タップダンスシチーと差のない2着。十分今後に期待がもてる内容であったが、その後故障が発生し、1年以上の休養を余儀なくされた。
復帰したのは2004年5歳の天皇賞・秋だった。しかしブービーの16着に敗れ、続くジャパンカップは9着、有馬記念はこれまたブービーの14着。これらすべてのレースで勝利した
ゼンノロブロイの引き立て役にもならなかった。
2005年6歳となったヒシミラクルは京都記念から出直した。60キロを背負いながら3着に入線し、期待を持たせて3番人気で天皇賞・春に挑んだ。しかし
スズカマンボの16着に惨敗。その後、右前脚繋靱帯炎を再発し引退が決定した。北海道・静内町のレックススタッドで種牡馬となった。
種牡馬となったヒシミラクルではあったが、5年間で30頭の産駒を輩出したに過ぎず、現在は浦河の中村雅明牧場にて余生を過ごしている。
冴えない二流血統に見栄えのしない芦毛の小柄な馬ヒシミラクルは、社台グループのエリート馬やサンデーサイレンス産駒が跋扈していた当時の競馬界にあって特異な存在で、多くのファンは馬券を買うときには冷静にこの馬を外して買ったとしても、心の底では「奇跡の勝利」を期待していた。ヒシミラクルはファンに愛された馬だった。
2006年8月15日筆
2022年4月3日加筆