[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
イナリワンは1984年5月7日、門別・山本実儀氏の牧場にて生まれた。父ミルジョージは1975年米国産。名種牡馬ミルリーフの産駒で現役時4戦2勝。79年より日本で供用が開始された。このイナリワンの他、宝塚記念の
オサイチジョージ、オークス馬
エイシンサニー、エリザベス女王杯勝ち馬
リンデンリリーなど中央G1産駒がいるが、特筆するべきは、地方ダートで圧倒的に強いことで、ロッキータイガー、ロジータなど地方の名馬を数多く輩出した。母テイトヤシマは浦河の名門ヤシマ牧場産駒。1970年生まれで不出走。イナリワンの前に10頭の兄姉がいて、4頭が競走馬となったが、平凡な成績に終わっている。5代母種正は英国から輸入された繁殖牝馬で、当時の日本の代表的種牡馬であるダイオライト、次にセフト、そしてソロナウェーと交配されていった。しかし、セフトの仔でイナリワンの祖祖母ヤシマニシキが、その孫ヤシマライデンが京成杯を勝っているぐらいで、とても優秀な牝系とは言い難かった。母の父ラークスパーLarkspurにしても有馬記念を勝った
リードホーユーの母の父となったのが目立つ程度の実績であった。牧場としても、身体のバランスはいいとは思ったものの、それほどの期待を掛けているわけでなかった。
イナリワンは東京都太田区にある城南製作所社長である保手浜弘規氏の持ち馬として、公営大井の福永二三雄厩舎に入厩した。ちなみにイナリワンの「イナリ」は保手浜氏の住まいの近くにある穴守稲荷に由来していて、氏が大井など公営競馬に預託する馬につける冠号である。そして「ワン」とは、無論数字の1のことで、保手浜氏が「1番になってほしい」と願いを込めてつけた名前であった。また福永二三雄師は中央競馬で大きな足跡を残した天才、福永洋一騎手の兄である。
三歳の1986年12月9日、宮浦正行騎手を鞍上に新馬戦に初出走、1番人気に応えた。しかしその後厩舎内で頭骨を打撲し、長期休養することになった。
復帰は四歳の1987年5月20日となった。東京ダービーは2週間後にあったがこれは無視して、じっくり仕上げた。イナリワンはここから5連勝し、11月11日、中央の菊花賞に相当する東京王冠賞を快勝した。また年末船橋の東京湾カップに出走しこれに勝ち、デビュー以来9連勝を達成した。
1988年五歳となったイナリワンは3月3日の金盃から始動。デビュー以来1番人気を続けていたイナリワンはここでは2番人気であった。馬場が苦手と思われていた重馬場となったのが原因だった。その懸念は的中し3着に敗れる。ちなみにイナリワンはこのレース以降ずっと1番人気に支持されることがなかった。続く帝王賞、関東盃といった大レースも、苦手の重馬場での開催となりそれぞれ7着と5着に敗れた。11月の東京記念は良馬場だったものの雨に降られ3着に敗れた。しかし笠松で開催された全日本サラブレッドカップは良馬場となり、後に中央入りするフェートノーザンの2着に入った。そして当時ダート3000mで開催されていた、年末大井の東京大賞典を3番人気ながら圧勝。「地方にイナリワンあり」をアピールし、翌年中央競馬に移籍することになった。ちなみに馬主の保手浜氏の父正康氏は
カミノテシオで天皇賞を得ており、親子2代で盾獲りを目指すことになった。
年号が平成に変わった1989年。六歳となったイナリワンは、美浦・鈴木清厩舎に入厩し、天皇賞・春を目指した。2月京都のオープン特別すばるステークスに小島太騎手を鞍上に出走。9頭立ての4着という結果は中央緒戦、初めての芝、苦手の重馬場を考慮すれば仕方がないが、次走の阪神大賞典(G2)の5着という結果は、不利があったとはいえ、鳴り物入りで中央入りしたイナリワンの評価を一気に下げた。この時期のイナリワンは環境の変化に戸惑って、気性難となっていて折り合いを付けるのが難しくなっていた。
第99回天皇賞・春は晴・良馬場の京都競馬場で行なわれた。年号が平成となって初めての天皇賞であった。この天皇賞の主役となるべきは前年の菊花賞馬
スーパークリークと有馬記念を勝った
オグリキャップであった。しかし両馬は脚部不安のため春季を棒に振っていた。その
スーパークリークの主戦騎手であった武豊騎手に騎乗馬がないことを知った鈴木師は彼にイワリワンへの騎乗を依頼した。武豊はすでに菊花賞を得て、天才と称せられていたとはいえ、まだデビュー3年目で、天皇賞は初騎乗であった。イナリワンは4番人気であった。1番人気はスルーオダイナ、2番人気はランニングフリー。これらは長距離戦で実績があり、イナリワンは前走の結果すれば妥当な人気であろう。イナリワンは1番枠からスタート後、武豊騎手は折り合いをつけることに専念した。前半は馬込みの中に入れて落ち着かせ、徐々に進出して、4コーナーでは5番手付近につけた。直線で抜け出すと、後続馬を引き離すばかり。武豊騎手は横目でターフビジョンを見て後続を確認する余裕まであった。2着ミスターシクレノンに5馬身差をつけ、3分18秒8のレコードタイムで圧勝した。しかし賞賛は若き天才武豊騎手に向けられ、イナリワンはどこか忘れられたような印象であった。
第30回宝塚記念は晴・良馬場の阪神競馬場で行なわれた。1番人気は前年の皐月賞馬で、菊花賞に惨敗したことから天皇賞・春を諦めて、宝塚記念一本に絞ってきた
ヤエノムテキであった。イナリワンは2番人気であった。とはいえ天皇賞の圧勝ぶりから考えると不当に低い評価といえた。しかしイナリワンの強さは本物だった。好位置から早めに抜け出すと、
フレッシュボイスの猛追撃をクビの差振りきって先頭でゴールに飛び込んだ。さすがにこの日のファンは武豊と同様に、「大井の最強馬」イナリワンを賞賛した。
1989年秋は東京の毎日王冠(G2)から始動した。ここには怪物が出走していた。
オグリキャップである。前年四歳にして有馬記念を制した
オグリキャップは、春シーズンを全休して、満を持して秋から始動、既にオールカマー(G2)を勝っていた。他にも三冠牝馬
メジロラモーヌの弟メジロアルダンや、大井競馬からやってきたウインドミルなど強豪が揃っていた。武豊騎手は復活した
スーパークリークに騎乗するため
、イナリワンには柴田政人騎手が騎乗することになった。1番人気は当然のように
オグリキャップであり、イナリワンはメジロアルダンに続く3番人気であった。レースは予想を越える凄まじいものとなった。先行するウインドミルにメジロアルダンが競りかけ、さらにイナリワンと
オグリキャップが外後方から並びかけ、4頭による競りあいとなった。しかしウインドミルとメジロアルダンが脱落し、内にイナリワン、外に
オグリキャップの叩き合いとなった。
オグリキャップがハナの差、イナリワンを降ろしていた。この1989年の毎日王冠は「伝説のG2」として、その後長く語り継がれることになる。
天皇賞・秋は意表を突く先行策をとった
スーパークリークと猛追する
オグリキャップの影も踏めず6着敗退。ジャパンカップは史上まれに見るハイペースに巻き込まれ、2分22秒2の世界レコードで制したホ-リックスの11着と惨敗した。天皇賞が11頭立ての4番人気、ジャパンカップが15頭立ての8番人気であったことを考えると、ファンの認識としては
オグリキャップや
スーパークリークといった一流馬のいない春のG1連勝はそれほど高いものではなかったのだろう。
第34回有馬記念は雨・良馬場の中山競馬場で行なわれた。1番人気は
オグリキャップであった。この秋だけで6戦目、しかもマイルチャンピオンシップとジャパンカップの連闘が含まれていた。そのジャパンカップで世界レコードの2着。当然その反動があってしかるべきと考えてしかるべきであったが、
オグリキャップの異能ぶりにしびれていたファンは彼を1番人気に祭り上げた。2番人気は武豊騎乗の
スーパークリーク。前走ジャパンカップは4着とはいえ、ローテーションに無理がなく、実質的な1番人気はこちらといえた。イナリワンは離れた4番人気であった。
オグリキャップ、
スーパークリークで「平成三強」と称せられていたが、すっかり評価落ちしていた。レースが始まるとイナリワンと柴田政人は後方につけた。
オグリキャップは早めの競馬をしたものの連戦の疲れからかいつもの身体のキレがなく、直線でもがいていた。そこに襲いかかったのが
スーパークリークで、内ラチ沿いを駆けてゴールを目指した。勝利を確信した
スーパークリークの外を襲う馬があった。鞍上の武豊騎手はそれは差し返しに出た
オグリキャップであろうと思った。しかしその馬はかつての戦友イナリワンであった。柴田政人騎手の鞭に応え猛然と追いこみ、
スーパークリークをハナ差交わした。勝ち時計は2分31秒7のレコード。雨で薄暗い中山競馬場で、イナリワンは輝きを取り戻した。この年イナリワンは年間を通じて走り、G1競走を3勝したことを評価されて、年度代表馬に選出された。
翌1990年七歳もイナリワンは現役を続行し、3月の阪神大賞典(G2)から始動した。久々と62キロの斤量で動けず6頭立ての5着に敗退。ちなみに62キロ以上の斤量を背負って国内のレースに出走したG1勝ち馬はイナリワンを最後に存在しない。連覇を狙った天皇賞・春は2番人気に支持されたが、
スーパークリークにクビの差及ばなかった。次も連覇を狙った宝塚記念も
オグリキャップに次ぐ2番人気に支持されたが、人気薄
オサイチジョージに離された4着に敗れた。陣営はこの春に好成績をあげれば、海外遠征を考えていたが、取りやめとなり、結局その後引退した。引退式は同年12月23日、
オグリキャップが奇跡的な復活を遂げたあの有馬記念の昼休みだった。
引退後、イナリワンは日高軽種馬農協・門別種牡馬場にて種牡馬となった。不幸なことにサンデーサイレンス、ブライアンズタイム、トニービンなど外国産種牡馬の攻勢の前に、配合馬に恵まれず、好成績をあげることができなかった。それでも日経賞2着など関東重賞の常連だったシグナスヒーロー、愛知杯2着のボストンエンペラー、東京王冠賞を親子制覇果たしたツキフクオー、大井記念・東京記念を制したイナリコンコルドなどを輩出した。2001年より父ミルジョージのいた三石町の中村畜産に移動し、2004年を限りに種牡馬から引退した。2007年8月28日、故郷の大井競馬場のイベント出演のため里帰りを果たした。功労馬としては繋養先を点々としたが、2014年12月より北海道占冠村のあるぷすペンションに落ち着き、2016年2月7日に老衰のため32歳で永眠した。
中央入り以来11戦しG1競走を3勝しながら、しかも負かした相手も強力だったにも関わらず、勝ったのはその3勝だけで、1番人気にも支持されたことのなかったイナリワンは平成三強の中では、正直3番目の印象であったろう。しかし繁殖成績は他の平成三強
オグリキャップ、
スーパークリークが種牡馬としては全くの失敗だったことを考えれば、小さな拍手を贈るべきだろう。どうしても華やかさは2頭に見劣りするものの、功名を捨てて実利を取ったイナリワンは、やはり平成三強の堂々たる一角であろう。
2008年10月14日筆
2022年4月3日加筆