[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
カブトヤマは1930年岩手の小岩井農場にて生まれた。父シアンモアは1924年英国生まれ。現役時代は14戦3勝、英国ダービー3着などの実績がある。1927年に小岩井農場が12万円で購入、翌年より日本で供用された。下総御料牧場のトウルヌソルとともに昭和初期における二大種牡馬の双璧として君臨した。代表産駒としてはカブトヤマの他に
ガヴアナー、
フレーモアのダービー馬、オークス馬
アステリモア、桜花賞馬
ヤマイワイ、天皇賞馬ロツキーモア、
クリヒカリ、ゼネラル、
ミナミモアなどを輩出した。これら直仔の活躍だけでなく、小岩井農場の牝馬と配合されて多くの名馬の祖先となり、今日なお影響を与え続けている。母アストラルは下総御料牧場産の名牝で、東京の帝室御賞典などを含め16勝した女傑でカブトヤマは2番仔である。繁殖成績も素晴らしく、カブトヤマの後にも全弟としてダービー馬
ガヴアナー、天皇賞馬ロッキーモアなどを輩出し、さらにその牝系のから出たオークス馬
オーハヤブサの娘ワールドハヤブサは千代田牧場の重要な基礎牝馬となり、その子孫には
ビクトリアクラウン、
ニッポーテイオー、
タレンティドガールなど錚々たる名馬が出ている。アストラルの祖母ビューチフルドリーマーは1906年に小岩井農場が英国から基礎牝馬と輸入した20頭のうちの1頭で、その子孫に
シンザン、
メイヂヒカリの2頭の顕彰馬の他、数多くの大レース勝ち馬を送り出している。近年も桜花賞馬
テイエムオーシャンを出しているように勢いは衰えず、日本を代表する牝系を形成している。
カブトヤマは小岩井の一番馬として前評判も高く、のちにカブトヤマの調教師で全レースに騎乗することになる大久保房松氏と伊勢丹社長前川道平氏によって2万150円で落札された。 ちなみに当時のダービーの賞金が1万円であるから破格の高値である。1933年3月25日中山での新呼馬をクビの差で勝つと、優勝戦3着を叩いて、4月23日のダービーに挑んだ。現在では考えられないローテーションだが、当時は三歳競馬はなくダービー開催時期も早かったので、登録さえしてあれば出走可能であった。この日の目黒競馬場は前日の土砂降りの影響で馬場状態は稍不良、暗雲が空を覆い視界もきかなかった。この年のダービーは関西から来たアスリートの前評判が高く、カブトヤマは道悪不得手が懸念されて三番人気であった。騎乗した大久保房松騎手は減量に失敗し、当日39度の高熱に苦しんでいた。馬主の前川氏に代役を提案したが、前川氏は「あなたが好きな馬だというので買ったんだから、あなたが乗りなさい」と逆に奮起を促した。腹をくくった大久保騎手は道悪不得手のカブトヤマの能力を引き出すため、終始外コースの好位を進み、直線抜け出すと、牝馬メリーユートピアとの叩き合いの末、4馬身差をつけて第2代のダービー馬となった。大久保騎手はレースが終わると不思議なことに熱が下がっていたという。当時は宮内省直轄の下総御料牧場と三菱財閥系の小岩井農場が二大生産牧場であったが、小岩井農場は御料牧場産駒の
ワカタカが勝った第1回ダービーの雪辱を果たしたわけである。
五歳となり宿願の帝室御賞典を福島で獲得、目黒記念にも勝った。中山での五歳馬特別を最後に、通算29戦12勝で引退した。翌1935年3月より青森県東北牧場にて種牡馬となった。
1947年、大東亜戦争(太平洋戦争)による2年間の中断から再開されたダービーは大久保房松師が管理する牝馬
トキツカゼが有力視されていた。その
トキツカゼをアタマ差振り切ってゴールに飛び込んだのは、かつて自ら管理したカブトヤマ産駒の
マツミドリであった。大久保師は「カブトヤマの仔に負けたのなら本望だ」と悔しさをかみ殺した。
マツミドリの勝利は「ダービー馬はダービー馬から」という格言をはじめて実現した。関係者の喜びは大きいものであったらしく、早くも同年11月「カブトヤマ記念」競走が創設され、記念すべき第1回は
トキツカゼが勝った。ちなみにこのレースで8着した
ブラウニーは桜花賞と菊花賞に勝った強豪牝馬で母の父はカブトヤマである。
カブトヤマは
マツミドリ以外に大物を出せず、1951年8月13日老衰で永眠した。「カブトヤマ記念」は1973年までは四歳馬による別定戦で行われていたが、74年からは四歳以上ハンデキャップの父内国産馬限定重賞となった。開催地は中山、東京で行われていたが1980年より福島1800mで定着した。しかし2004年に父内国産馬限定競走が大幅に縮小され、「カブトヤマ記念」は古馬牝馬限定重賞に変更されることになり、カブトヤマは牡馬であることから「福島牝馬ステークス」とその名を改めることになった。これでカブトヤマ記念競走は事実上58年の歴史を閉じることになった。
過去の名馬の名を冠した重賞競走は「カブトヤマ記念」の他に「
セントライト記念」と「
シンザン記念」、それに「
トキノミノル記念」とサブタイトルが付く「共同通信杯」がある。しかしカブトヤマはこれらの馬と比べて知名度が低すぎた。実際馬の名前ではなく、どこかの山の名前と認識しているファンも多かったのではあるまいか。しかし競走馬生産のひとつの目標である「ダービー馬はダービー馬から」の格言をはじめて実現した歴史的な馬であり、そういう意味では「中日新聞杯」ではなくて、この「カブトヤマ記念」を父内国産限定重賞として残し、少しでも長くその名を後世に残すべきではなかっただろうか。
2004年1月11日筆