[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
カツラギエースは1980年4月24日、三石・片山専太郎氏の牧場にて生まれた。父ボイズィボーイBoysie Boyは1965年英国産馬で現役時代は短中距離を中心に28戦9勝。71年から77年までオーストラリアで種牡馬として供用後、78年より日本に輸入された。血統的には輸入当時の日本を席巻していたテスコボーイと同じプリンスリーギフト系でそれなりに期待されていた。しかし80年に死亡したため日本では僅か2世代しか産駒を残すことはできなかった。カツラギエース以外にはクイーンカップ3着のアサヒエンジェル、アメリカJCC4着のコバシマカイジンなどがいる程度で大した産駒は残していない。したがってカツラギエースを産み出すために日本にやってきたといっても過言ではないだろう。母タニノベンチヤは現役時3戦1勝。その母は英国からの輸入馬アベイブリッジAbbey Bridgedeで、彼女の日本での初産駒はあの福永洋一騎手に初めての重賞をもたらしたタニノモスボロー(1970年京都四歳特別)である。その父ヴェンチアは日本輸入後、ダービー馬
クライムカイザー、桜花賞馬
タカエノカオリ、桜花賞馬
ハギノトップレディの母で自身も高松宮杯などを制しているイットー、天皇賞馬
タイテエムの母テーシルダなどを輩出して成功している。カツラギエースの妹に中山牝馬Sなど9勝したラビットボール、弟に結果未勝利ながらセリで高額取引され話題となったモガミショーウンがいる。
黒鹿毛のカツラギエースは血統も馬体も平凡で買い手がなかなかつかず、二歳8月の日高定期競り市で福島の馬商、佐藤伝二氏に710万円で漸く落札された。その後、大阪の野出一三氏が譲り受け、1982年6月に栗東・土門一美厩舎に入厩した。1982年9月阪神の三歳新馬戦に初出走。見栄えのしない馬体で調教の動きも注目を集めるほどではなく、ほとんど期待されていなかった。しかし14頭立ての7番人気ながら、厩舎の準主戦崎山博樹騎手を鞍上に圧勝。続く特別戦は2着、1着、3着とまずまずの成績で三歳戦を終えた。
四歳はクラシックを見据えた戦いを挑んだ。初戦の2月京都の四歳ステークスは13頭立ての殿負けを喫して、心配されたが、続く春蘭賞に勝ち皐月賞に駒を進めた。皐月賞は7番人気で果敢に先行したが不良馬場に脚をとられたか
ミスターシービーの11着に敗れた。東京の馬場に慣れる目的もあってNHK杯に出走。大外枠ながら強い勝ち方をして初重賞制覇。ダービーでは3番人気に推されたが、
ミスターシービーの6着に敗れた。休養前に中京四歳特別に出走、のちにマイル王となる
ニホンピロウイナーの2着に終わった。
四歳秋を迎え、神戸新聞杯2着のあと、厩舎の主戦西浦勝一騎手に乗り替わった京都新聞杯は2着
リードホーユーに6馬身差をつける圧勝。しかも
ミスターシービーを4着に沈めた。いよいよ本格化かと期待され菊花賞では2番人気に推された。しかし果敢に先行したものの直線で垂れて20着に惨敗敗した。ちなみにこのレースは
ミスターシービーが勝って
シンザン以来19年ぶりの三冠馬となっている。
1984年五歳となったカツラギエースは、菊花賞の結果から長距離は不適と判断した陣営により、春は宝塚記念、秋はこの年から2000mに短縮された天皇賞を目標に据えられた。鳴尾記念4着を叩いて2000m大阪杯を快勝、1番人気に応えた。3200mの天皇賞は見向きもせず、2000mハンデ戦の京阪杯に出走。58.5キロの斤量を背負いながらも1番人気に応えて重賞を連勝した。
第25回宝塚記念はこの年から重賞競走に対して施行されたグレード制で宝塚記念は天皇賞や有馬記念と同格のG1にランクされた。前年の三冠馬
ミスターシービーがこの年未だ休養中とあって確かな主役は不在だった。先立っての天皇賞を勝った
モンテファストや菊花賞馬
ホリスキーが出走していたものの、ファンの信頼は薄かった。1番人気はカツラギエースであった。早くから陣営がこの競走を目標にし、ここまで2000mの重賞を連勝していることをファンは高く評価していた。道中は2、3番手につけ、直線で抜け出すと
スズカコバン以下を寄せ付けずに完勝した。
しかし3週間後の高松宮杯は59キロの斤量と重馬場が堪えたか、キョウエイレアの5着に沈んだ。
五歳秋は毎日王冠から始動。
ミスターシービーも菊花賞以来久々に姿を見せた。レースはカツラギエースが勝ったのだが、2着に鬼脚で追い込んだ
ミスターシービーの方が目立ち、天皇賞の主役の座は
ミスターシービーに奪われてしまった。その天皇賞でカツラギエースは2番人気に支持された。ファンは中距離実績よりも三冠馬の底力を評価したのである。結果は底力が勝った。いつものように最後方から直線で豪脚を繰り出した
ミスターシービーに凱歌が上がった。カツラギエースは5着だった。敗因として折り合いを欠いたことが挙げられた。大一番前の前哨戦には強いが本番で結果を残せない精神面の弱さも指摘された。
第4回ジャパンカップは過去3回外国馬の後塵を拝し続けていた歴史に終止符を打ち日本馬のが初優勝が期待されていた。前年の三冠馬
ミスターシービーとこの年の三冠馬
シンボリルドルフが出走していたからである。カツラギエースもG1馬ではあってもこの2頭の前では、影が薄く9番人気でしかなかった。このような低評価になってしまったのは、両三冠馬の存在と、天皇賞で露呈した気性の悪さ、長すぎる距離、それと外国馬を過大評価していたからであろう。手綱を任された西浦騎手は折り合いを欠いて失敗した反省からいくつか対応策を考えた。ひとつはカツラギエースに耳袋のついた覆面を被せ、周囲の雑音を聞こえにくくし、馬を落ち着かせること。ふたつめは長手綱にして馬の気持に任せて、これまでこだわっていなかった逃げ戦法をとることだった。しかし西浦騎手は三冠馬のどちらかを負かしてやろうとは思っていたものの、勝てるとは考えていなかった。彼にしてもカツラギエースにとって2400mは長いと考えていたからである。ゲートが開くとカツラギエースは自然と逃げる展開となった。向正面では2番手以下を10馬身以上引き離した。ここまでは西浦騎手の作戦通りであった。
シンボリルドルフは中団につけ、
ミスターシービーは離れた最後方に位置していた。前半の1000m61.6秒とスローペース。後続の騎手がそれに気付きながらも動けなかったのは、本命の
ミスターシービーが最後方に構えていたこともさることながら、ストロベリーロードに騎乗していた英国の至宝レスター・ピゴットが動かず、彼の判断に引きずられたからだと言われている。この状況をカツラギエースは最大限に利用した。脚を貯めて、最後の直線でも英国のベットタイム、
シンボリルドルフ、米国のマジェスティーズプリンスらの追撃を抑えて逃げ切ってしまった。初めて日本馬がジャパンカップを制した。しかしファンの思惑とは違った結果にスタンドは静まりかえった。大方のファンは2頭の三冠馬いずれかが外国馬を打ち負かすことを期待していたからである。
カツラギエースは有馬記念を最後に引退することが発表された。日本馬で初めてジャパンカップを制したこの時点で引退するのが、種牡馬としての価値を高めるというのがオーナーの判断であった。
シンボリルドルフ、
ミスターシービーも出走し、史上初となる3頭が単枠指定された。カツラギエースは2番人気に支持されジャパンカップと同様に果敢に逃げた。しかし1番人気
シンボリルドルフの徹底マークにあって2着に敗れた。けれども
ミスターシービーには先着し、ジャパンカップの勝利がまぐれではないことを証明した。
翌1985年最優秀古馬に選ばれたカツラギエースは1月京都で引退式が行われ、北海道新冠町の泉牧場にて種牡馬生活に入った。3億3000万円のシンジケートが組まれ、期待は大きかった。しかしクラシックを狙えるような大物を輩出できず、その後静内町のレックスタッドを経て、同じ町の冬沢牧場に移った。そして2000年7月3日、病気療養先の三石町・中橋牧場で心臓発作のため永眠した。産駒は主に地方競馬で活躍し、中央での重賞勝ち馬としては1991年のオークストライアルを勝ったヤマニンマリーンに限られる。
今やジャパンカップで地の利のある日本馬が勝つことは当然視され、海外遠征においても勝つことは珍しいことではなくなっている。しかし1984年当時においては外国馬の壁はとてつもなく分厚いものと認識されていた。カツラギエースはその壁を打ち破るための先鋒的な存在となった。人間はとかく先人の苦労を忘れがちだが、たとえ「無欲の勝利」であっても、カツラギエースの果たした功績は忘れてはならないものだろう。
2006年2月6日筆