[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
カツラノハイセイコは1976年5月13日、北海道浦河の鮫川三千男牧場にて生まれた。父
ハイセイコーは地方競馬大井で6戦6勝の実績を引っさげて中央入りすると、皐月賞を含む10連勝でダービーに挑むも、
タケホープの3着に敗れた。その後大レースの勝ち鞍は宝塚記念を加えたのみながら、地方からのし上がり健気に走る姿は老若男女の心を打ちハイセイコーブームを巻き起こした。中央での成績は16戦7勝ながら、中央競馬への貢献を評価されて1984年に顕彰馬として殿堂入りしている。種牡馬としてもこのカツラノハイセイコの他、1989年エリザベス女王杯の
サンドピアリス、1990年皐月賞の
ハクタイセイを輩出、ライフタテヤマなどダートにも強く、地方競馬でもキングハイセイコなど大きな足跡を残した。母コウイチスタアは現役時12戦1勝。鮫川牧場の仔分けでその母系は小岩井農場がイギリスから輸入した名牝フロリースカップにさかのぼる。フロリースカップの娘スターリングモアは1929年鮫川三千男の祖父が当歳で買い取り、帝室御賞典を含む10勝を挙げた。このスターリングモアの子孫としては桜花賞と天皇賞に勝ったヤシマドータや天皇賞馬
リキエイカンなどがいる。コウイチスタアの父ジャブリンは1957年アイルランド産の名血で1965年より日本で供用された。コウイチスタアも当然繁殖馬として期待された。しかし4年間不受胎が続き、5年目の初産駒がカツラノハイセイコであった。祖先のスターリングモアは小柄な馬であったが、このカツラノハイセイコも大きく育たなかった。しかしこの黒鹿毛の
ハイセイコーの初年度産駒は、棹性が強く闘志は備わっている様子であった。
桂土地の持ち馬としてカツラノハイセイコは栗東の庄野厩舎に入厩した。カツラノは馬主の冠名で、その後ろは父馬の名前からとった。ちなみに
ハイセイコーではなくハイセイコなのは日本の馬名は9文字以内と決まっているためで、現役当時よくネタにされていた。カツラノハイセイコは1978年9月1日札幌の新馬戦で作田誠二騎手を鞍上に初出走。しかし4着に終わり、未勝利戦を5着、2着し、4戦目の未勝利戦を福永洋一騎手を鞍上に初勝利した。その後は特別を2着3着と惜敗し三歳を終えた。
四歳となった1979年、正月京都で再始動すると、カツラノハイセイコは特別戦を3連勝した。その間福永洋一騎手は先約があったので兄弟子である松本善登に乗り替わってた。3月美浦に移動し、スプリングSで初重賞に挑戦。ここでは重賞3連勝を達成したリキアイオーの逃げは捕らえられなかったものの、首差の2着は皐月賞への期待を膨らませた。しかし皐月賞直前に熱発してしまい、どうにか間に合って5番人気であった。道中は後方に置かれたが、持ち前の根性でよく追い上げて
ビンゴガルーの2着となった。その後東京コースに慣れさせるため、NHK杯に出走。2番人気に支持されるも、早仕掛けで末脚をなくし、
ロングエースの仔
テルテンリュウの3着に敗れた。
第46回日本ダービーは曇・良馬場の東京競馬場で開催された。カツラノハイセイコは
ビンゴガルー、
テルテンリュウを抑えて1番人気に支持された。実力が均衡する中で1番人気に支持されたのは、父
ハイセイコーが勝てなかったダービーに勝たせたいというファンの心理が働いたものと思われる。7番枠から1コーナー10番手以内というダービーポジションを確保したカツラノハイセイコは、緩みのないペースに身を置いて、直線手前ではライバルを尻目に3番手につけた。直線の内ラチ沿いを駆けるカツラノハイセイコ。残り300mで
テルテンリュウが内側に切れ込み馬体を合わせてきた。2頭に挟まれたリキアイオーは後退し、虎視眈々と狙っていた抽籤馬リンドプルバンはその煽りを食らった。440キロと小柄なカツラノハイセイコは500キロ近い
テルテンリュウにぶつけられても怯むことなく、闘志をむき出しにし、逆に
テルテンリュウを退け、ゴールを目指した。そこへ体勢を立て直したリンドプルバンが外から襲いかかった。鼻面を揃えたところがゴールだった。長い写真判定の結果、カツラノハイセイコに軍配が上がった。父
ハイセイコーが3着に敗れたダービーに勝った。ファンはドラマに酔いしれた。この年45歳の松本善登騎手は初のクラシック勝ちとなった。勝ち時計2分27秒3はダービーレコードで、父内国産馬の勝利は
コマツヒカリ以来実に20年ぶりであった。
四歳秋のカツラノハイセイコは肺炎を患ったり、鼻骨を折ったりして順調さを欠き、京都新聞杯に出走したものの10着に敗れ、1年近くの休養に入った。
五歳秋、復帰したカツラノハイセイコは1980年9月阪神のオープン特別サファイアSに、河内洋騎手を鞍上に迎えて2着、続く京都大賞典と目黒記念を1番人気に支持され3着、1着にまとめた。馬体はダービーの頃より20キロ増え、充実の秋を迎えたとファンに見なされ、11月の天皇賞・秋では1番人気に支持された。しかし牝馬
プリテイキャストの大逃げに幻惑され、有力視された
ホウヨウボーイとともに6着に沈んだ。続く有馬記念はファン投票では1位だったものの、天皇賞の後遺症から3番人気に落ちた。直線早めに先頭に立つも、肝心のところで外によれてしまい、
ホウヨウボーイにハナの差敗れた。
六歳となったカツラノハイセイコは1981年3月の阪神マイラーズカップから始動。得意とは思えない1600mで、最後方からウエスタンジョージ以下をごぼう抜きにした。続く大阪杯は59キロの斤量と不良馬場で動きが悪く6着に敗れた。
第83回天皇賞・春は小雨・稍重の京都競馬場で開催された。カツラノハイセイコは直前にカイバ量が落ちて完調とまではいかなかった。しかし
モンテプリンス、
ホウヨウボーイなど有力な関東馬が西下しなかったため、リンドプルバンに次ぐ2番人気に支持された。ダービー以来の440キロ台に落ちたカツラノハイセイコは道中を中団につけ、直線で真ん中を割って抜け出した。地方からやってきた484キロの大柄な
カツアールと長いたたき合いを演じた。
カツアールに何度もぶつけられながらも、持ち前の根性で、クビの差振り切って優勝した。父
ハイセイコーが6着と敗れた天皇賞に勝ち、孝行息子ぶりを発揮した。また父内国産馬としての勝利は
アサホコ以来16年ぶりであり、ダービー馬による天皇賞制覇は
タケホープ以来8年ぶり5頭目であった。
その後宝塚記念は
カツアールに雪辱された2着に敗れた。秋は第1回ジャパンカップを目指したが、深管骨瘤が悪化して引退。そのジャパンカップが開催された1981年11月22日、京都競馬場で引退式が行われた。その1か月後の12月14日、かつての相棒松本善登がガン性腹膜炎で46歳の若さで亡くなった。
カツラノハイセイコは中央競馬会に種牡馬として1億2000万円で買い取られ、青森の七戸種馬場にて、種牡馬生活に入った。しかし青森は繁殖牝馬の質が低く、順風満帆とはいかなかった。公営では関東オークスのハルナオーギ、東京記念のテツノセンゴクオーなど活躍馬がいるのだが、中央ではユウミロクが
メジロラモーヌの勝った1986年のオークスを2着し、翌年の
カブトヤマ記念を勝ったのが目立つ程度だ。しかしこのユウミロクがダイヤモンドSと目黒記念を勝ったユウセンショウ、中山グランドジャンプを含む障害重賞を3勝したゴーカイ、中山大障害を勝ったユウフヨウホウの母となっている。種牡馬引退後は栃木県の日本軽種馬協会那須種馬場で余生を過ごしていたが、2009年10月8日に老衰のため永眠した。
中央競馬のイメージアップに大きく貢献した稀代のアイドルホース、
ハイセイコー。その
ハイセイコーが勝てなかったダービーと天皇賞に勝ったカツラノハイセイコは父の名を高めたという点で孝行息子といえる。実際問題、親仔2代のダービー馬または天皇賞馬というのは並大抵では達成されないが、父が勝てなかった2つの大レースを仔が勝つというのはそれ以上に至難の業である。何故ならダービーと天皇賞に共に敗れた馬は種牡馬になることが難しく、例えなったとしても繁殖馬に恵まれないのが普通だからだ。また名馬は数多くいるものの、全てのホースマンの目標であるダービーと、古馬の大目標である天皇賞の両方を勝った馬は2011年現在10頭を数えるのみである。優秀な競走成績を収め、娘が重賞を勝ち、2頭の孫が中山グランドジャンプと中山大障害を勝った。カツラノハイセイコは名馬と呼ぶに十分だろう。
2012年3月31日筆