[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
クリフジは1940年千葉県下総御料牧場にて生まれた。父トウルヌソルは小岩井農場のシアンモアと並ぶ戦前における日本の代表的な種牡馬で、ダービー馬
ワカタカ、
クモハタをはじめ数多くの大レースの勝ち馬を出している。母賢藤は現役時5勝をあげた下総御料牧場の至宝ともいうべき繁殖牝馬で、天皇賞を制したハッピーマイトの妹である。オーナーとなる栗林友二氏が競り市でクリフジを見て、二万円から始まった競り値であったにも関わらず、いきなり「四万円」と叫び、この馬を手に入れたという逸話が残されている。
さて東京の尾形藤吉厩舎に入厩したクリフジであったが、当時の牡馬の平均よりも遙かに大型馬ゆえにデビューが遅れ、現在の桜花賞、皐月賞も終わった四歳の5月16日であった。東京のデビュー戦と中2週で挑んだ呼馬を連勝して、連闘でダービーに駒を進めた。現在では考えられないローテーションだが、当時は珍しくなく、現在は禁止されている2日連続で使う「連闘」もあった。1941年に開戦した太平洋戦争(大東亜戦争)は1943年になるこのころにはいよいよ旗色が悪くなりつつあった。それでもダービーには史上最多の25頭が出走した。クリフジは1番人気に支持された。スタートでクリフジは大きく出遅れた。しかし他馬とは断然違う脚色で加速すると、2着キングゼア以下に6馬身差をつけて優勝した。しかも前年の
ミナミホマレのレコードを1秒6も短縮した。
ヒサトモに続き2頭目の牝馬によるダービー制覇で、牝馬によるダービー制覇は64年後のウオッカまで待たねばならなかった。。このクリフジに全レース騎乗することになる前田長吉騎手は先頭に立ったあと、後ろを振り返ってばかりいた理由を聞かれ「後ろから何も聞こえないので心配になった」とレース後にもらした。前田氏は当時見習い騎手で、後に軍隊に召集され戦死してしまった。
四歳秋、ダービーを獲得したクリフジは残る菊花賞(当時京都農林省賞典四歳呼馬)とオークス(当時阪神優駿牝馬)を目指して西下した。当時のオークスは秋季の阪神で開催されていたのである。まず阪神で古馬相手に3馬身差で勝って、牝馬限定のオークスを
ミスセフト以下に10馬身差のレコード勝ち。そして舞台を京都に移し、またも古馬相手に63キロ、62.5キロを背負ってそれぞれ10馬身差で楽勝。中2週で挑んだ菊花賞も
ヒロサクラ以下に大差で楽勝した。
五歳となった1944年は戦局が悪化し、本土の爆撃が始まり、馬の輸送もままならない状態となった。競馬は馬券の発売はなく、能力検定競走として行われた。古馬の目標たる天皇賞(当時帝室御賞典)に出走することなく、3戦で競走生活を終えた。
年藤と名を変えて繁殖生活に入ったクリフジは1954年二冠牝馬
ヤマイチを出すなど優秀な成績をおさめた。1964年この世を去った。
牝馬でありながらのダービー、菊花賞に勝ち、牝馬限定のオークスを制したクリフジは史上唯一の「変形三冠馬」である。もしデビューが早ければ、その年の桜花賞と皐月賞は中山で行われていたので、5大クラシック全勝という「真正五冠馬」が誕生していたかもしれない。そんなクリフジがJRA顕彰馬に選ばれたのは当然といえよう。11戦11勝という完璧な競走成績は最多連勝記録としても最多全勝記録としても未だ破られぬ記録であり、また3つのレコード勝ち、9勝が5馬身差以上という圧倒的な内容も比類ないもので、そして全レースで1番人気に支持された数少ない馬であることから、史上最強の牝馬という称号は相応しいものであり、競走成績においてこの馬に並ぶ馬はあっても越える馬はいないといっても過言ではないだろう。
2001年10月6日筆