[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
マーベラスサンデーは1992年に早田牧場新冠支場で生まれた。父サンデーサイレンスは我が国競馬史上最高の成績を収めた輸入種牡馬で、5頭のダービー馬をはじめ数多くのG1馬の父となった。母馬の遺伝的特質を引き出すのが抜群で、自ら持つ闘争心を産駒に伝えた。短距離から長距離まであらゆるタイプの産駒を輩出した。2001年8月に16歳で惜しまれながら死去した。ちなみにマーベラスサンデーはサンデーサイレンスの初年度産駒である。母モミジダンサーは現役時10戦2勝の成績。その母モミジIIは早田牧場の早田光一郎氏がカナダのトロントで競走馬生産の修行していた頃購入した馬。現役時代は44戦12勝でカナダ四歳牝馬及び古馬牝馬チャンピオンに輝いている 。1978年に基礎繁殖牝馬として日本輸入された。母の父ヴァイスリーガルは世界的名種牡馬ノーザンダンサー産駒。モミジダンサーはすでに6頭の仔をもうけていたがその成績は芳しいものではなかった。そこでシンジケートの要望もあって、当時社台ファームが鳴り物入りで導入したサンデーサイレンスを付けてみることになった。
身体がひ弱でなかなか買い手がつかなかったこのサンデーサイレンスとモミジダンサーの栃栗毛の仔は、栗東・大沢真師の目に止まり、マーベラスの冠号で知られる笹原貞生氏の持ち馬となった。三歳の1994年3月に入厩したマーベラスサンデーだが、デビュー前の攻め馬で右膝を剥離骨折。デビューは1995年2月京都のダート1800m戦となった。この馬に一貫して乗ることになる武豊騎手を鞍上に1番人気に応えた。3月のゆきやなぎ賞も快勝。ダービーにどうにか間に合うかと思われたところで再び骨折が判明。1年以上の休養に入った。ちなみにこの年の皐月賞、ダービー、オークスはサンデーサイレンス産駒が優勝し、初年度からサンデーサイレンス旋風が吹き荒れた。
五歳となった翌1996年4月、阪神の明石特別で復帰。ここは4着と敗れたものの、続く鴨川特別、桶狭間ステークスを連勝。そしてエプソムカップで初重賞勝ちを得た。札幌記念、朝日チャレンジカップも勝ってG3重賞を3連勝。さらにG2の京都大賞典も快勝して、一気に天皇賞・秋の有力馬に数えられることになった。その天皇賞・秋は上昇度を買われて
サクラローレルに次ぐ2番人気に推された。ちなみにマーベラスサンデーはデビュー以来9戦連続1番人気に推されていた。しかし歴戦の強者の壁は厚く、また連戦の疲労もあってか、四歳馬
バブルガムフェローの4着に敗れた。次走有馬記念はさらに人気を落として3番人気であった。レースは
サクラローレルに完璧に勝たれたが、そんな中で同期の菊花賞馬
マヤノトップガンに先着する2着に入線し力のあることを示した。
六歳となった1997年、厩舎内で冬を越したマーベラスサンデーは大阪杯から始動しこれに楽勝。天皇賞・春は
サクラローレル、
マヤノトップガンとともに三強の一角を形成。実績が見劣りするマーベラスサンデーは3番人気であった。直線満を持して先頭に躍り出たマーベラスサンデーだったが、
サクラローレルに差し返され、さらにその
サクラローレルも
マヤノトップガンの鬼脚に屈する結果となった。ここは3着でも満足するべきであった。
第38回宝塚記念は四歳馬の参戦を促すため開催日が7月6日という真夏ともいうべき暑い時期に繰り下げられた。しかし四歳馬どころか
サクラローレルも
マヤノトップガンも参戦せず、いささか役者不足の感は否めなかった。それでも四歳で天皇賞・秋を制した
バブルガムフェローが参戦し、中距離の王者を決めるレースとしては申し分なかった。マーベラスサンデーは1番人気に支持された。潜在的には長距離より中距離が適性と思われたし、これまでくぐり抜けてきた激戦が経験値を上昇させていると考えられたからである。鞍上の武豊騎手は斬れる脚がなく、先頭に立つと走る気をなくす、いわゆる「ソラ」を使う癖があったマーベラスサンデーを勝たせるには、いつものように先行するのでなく、直線で脚を貯めてギリギリのところで前の馬を交わすしかないと考えた。ところがマーベラスサンデーの調子はここにきて下降線で、関係者は一抹の不安がの中スタートが切られることになった。マーベラスサンデーは出遅れた。しかし武豊騎手はあわてることなく後方に位置すると、直線で先行集団に取り付き、先行する
バブルガムフェロー、オークス馬
ダンスパートナー、安田記念を勝った
タイキブリザードの有力馬をまとめて差しきった。マーベラスサンデーを知り尽くした鞍上武豊の会心の騎乗であった。
その後マーベラスサンデーは右前脚を骨折し、ぶっつけで有馬記念に挑まねばならなかった。主戦の武豊騎手は牝馬にして天皇賞・秋を制しジャパンカップも2着してここに挑んできた
エアグルーヴの主戦でもあった。しかし彼はマーベラスサンデーを選んだ。骨折明けにもかかわらず1番人気に支持されたのは、武豊騎手の選択も作用していたと思われる。勝ったのは休養明けのマーベスサンデーでもなく、激戦続きで消耗していた
エアグルーヴでもなく、早田牧場生まれの四歳馬
シルクジャスティスだった。しかしマーベラスサンデーは2着に入り底力を見せた。
七歳となった1998年、マーベララスサンデーは獲り損ねた天皇賞を目指して現役を続行した。しかし結局屈腱炎のため引退を余儀なくされた。
同年、CBスタッドで種牡馬入りしたマーベラスサンデーは、初年度に111頭に種付けした。その中の1頭が2004年日経新春杯、京都記念を連勝し宝塚記念を2着したシルクフェイマスである。平地のGI馬は輩出できなかったが中山大障害をキングジョイが2度、マーベラスカイザーが1度制している。2003年、早田牧場の倒産の影響でCBスタッドが閉鎖され、新冠の優駿スタリオンステーションに移動した。母の父としては
レッツゴードンキが桜花賞を制した。産駒はどちらかというと芝よりもダート馬が中心で地方での活躍馬が多く、派手さはないが堅実な成績を上げる種牡馬だった。2016年6月30日、功労馬として繋養していた北海道新ひだか町の織田米晴氏がマーベラスサンデーの訃報を公表した。死因は老衰だった。
GI勝ち鞍は宝塚記念だけだったが、度重なる骨折にもかかわらず、通算15戦10勝は素晴らしい。また4着に落ちたことは一度もなく、実に12回も1番人気に支持されたファンの信頼の厚い馬だった。
2004年8月17日筆
2022年4月4日加筆