[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
メイヂヒカリは1952年三石・大塚牧場にて生まれた。父
クモハタは戦後日本を支えた内国産種牡馬で顕彰馬に選定されている。母シラハタは現役時代30戦8勝。他の産駒としては鳴尾記念など10勝をあげたグレイトスタンがいる。このシラハタの5代母として下総御料牧場がイギリスから購入した名血ビューティフルドリーマーが名を連ねている。このビューティフルドリーマーの娘また孫娘にシアンモア、ダイオライト、プリメロと日本を代表する種牡馬を配合されたシラハタに、さらに
クモハタを配合されたメイヂヒカリは、当時の内国産馬馬としては申し分ない血統といえ、小柄ながらも気品ある馬体で当歳時から評判であった。
明治座社長新田新作氏の持ち馬として、東京藤本冨良厩舎に入厩したメイヂヒカリは三歳10月中山で蝦名武五郎騎手を鞍上にデビューして圧勝。その後連勝して挑んだ朝日杯三歳Sも
ケゴン以下に完勝。4戦全勝で三歳競馬を終えた。
四歳時、中山のオープンを連勝して、押しも押されぬ1番人気で挑んだスプリングステークスはブービーの5着に惨敗。皐月賞1週前の追い切りで飛節内腫を発症し、春のクラシックは棒に振ることになった。皐月賞を勝った
ケゴンにしろ、ダービーを圧勝した
オートキツにしろ、すでに勝負つけの終わっている相手だけに悔いの残る故障であった。
復帰初戦は9月東京のオープンで勝利。次の毎日王冠は2着に敗れたものの、オールカマーを手土産に西下。オープン1着を叩いて、万全で菊花賞に挑んだ。1番人気はダービーを8馬身差をつけて逃げきった
オートキツ。メイヂヒカリは僅差の2番人気であった。メイヂヒカリは春の鬱憤を晴らすかのように
オートキツを10馬身差をつけて圧勝。溜飲を下げた。続いて阪神のオープンは64キロを克服して勝ったが、中山特別では最下位の6着に敗れた。メイヂヒカリは勝つときにはものすごく強いが、何故か時々コロリと負けることがあった。主戦の蝦名武五郎氏は「武田文吾師は
コダマをカミソリ、
シンザンをナタと表現されていたが、そういう感じからいえばメイヂヒカリは日本刀、それも古刀の斬れ味を持っていたのではあるまいか。よく斬れる反面脆いところがあった」というようなことを語っている。
五歳は3月に西下しオープン1着を叩いて天皇賞に挑み、ウゲツ以下に完勝。当時天皇賞は優勝馬に再戦資格がなく、酷量に耐えて走るか引退するかしかなかった。しかし、この年末に中山でファン投票によって出走馬を決めるという画期的な「中山グランプリ」(現在の有馬記念)が開催されるというので、そこを目標に調整されることになった。特ハン、オープン、オールカマー、オープンを3着、1着、2着、1着でまとめ、中山グランプリに挑んだ。第1回中山グランプリは
キタノオー(菊花賞)、
ハクチカラ(ダービー)、
ヘキラク(皐月賞)、
ミツドフアーム(天皇賞)、ダイナナホウシュウ(皐月賞、菊花賞、天皇賞)らが出走し、その名にふさわしい豪華メンバーがそろった。その中でもメイヂヒカリは1番人気に推され、
キタノオー以下を直線だけで引き離して日本レコードで引退の花道を飾った。
翌年中山で史上初となる引退式を行い種牡馬生活に入った。
クモハタの後継種牡馬として大きな期待を集めたメイヂヒカリではあったが、産駒に恵まれず1976年に引退、1980年繋養先の藤吉牧場でこの世を去った。ただし母の父として牝馬ながら天皇賞と有馬記念を連覇した
トウメイを出してはいる。1990年、競馬評論家大川慶次郎氏の強力な推薦により、顕彰馬に選定されている。
このメイヂヒカリと同程度の競走実績と繁殖成績を持つ馬は、それほど珍しくない。それでも顕彰馬に選ばれたのは、記念すべき第1回中山グランプリに勝ったということと、内国産の結晶ともいうべき血統と、強さと気品を兼ね備えた希有なサラブレッドであることを裏付ける数々の記憶と記録が存在するからであろう。メイヂヒカリは生涯に5度負けているがそのうち3度が万馬券であることが、この馬の強さと人気の高さを物語っている。やはりメイヂヒカリは幻の三冠馬の中でも傑出した存在であるといえる。
2001年1月4日筆