[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
メジロマックイーンは1987年北海道伊達・吉田堅牧場にて生まれた。父
メジロティターンは天皇賞馬
メジロアサマの数少ない産駒で、1982年天皇賞・秋を制した。母メジロオーロラは24戦1勝。初年度産駒に1987年菊花賞と翌年の有馬記念を制した
メジロデュレンがいる。母の父リマンドは2400mに強く、ダービー馬
オペックホース、オークス馬
アグネスレディー、
テンモン、エリザベス女王杯を勝った
タレンティドガールなどを輩出している。小岩井農場が明治時代に輸入した基礎繁殖牝馬の1頭である第二アストニシメントにガロン、シアンモア、プリメロ、月友、
ボストニアン、ヒンドスタン、リマンドといった国内トップクラスの種牡馬が配合されたその血統は、メジロ牧場の集大成というよりも、日本の内国産馬の集大成といえる血統背景で、典型的なステイヤーであろうことは配合の時点で容易に想像できた。
メジロ商事の持ち馬として栗東・池江泰郎厩舎に入厩したメジロマックイーンはオーナー側の意向もあって、ダービーよりも天皇賞を目標に調整された。デビューは四歳2月の阪神新馬戦で村本善之を鞍上に勝ち上がった。その後条件戦を2着したあとソエがでて休養。5月京都のあやめ賞を3着のあと函館へ遠征。内田浩一騎手に手替わりし、条件特別を連闘を含む3戦して2着1着1着。しかし菊花賞への出走を確実にするには賞金が足りない。陣営は確勝を期して3000mの嵐山Sに出走させた。しかし鞍上の内田騎手が緊張していたのか2着に敗れ、賞金を加算することができなかった。それでも抽選で何とか菊花賞に出走できた。1番人気は重馬場の京都新聞杯をレコード勝ちした
メジロライアン。メジロマックイーンは4番人気であった。内田騎手は前回の失敗を教訓に、メジロマックイーンのステイヤー能力を十分発揮させるため積極的に前で競馬し、ホワイトストーン、
メジロライアンを下して、菊花賞兄弟制覇を成し遂げた。その後の目標を天皇賞としたので有馬記念の出走は見送ることになった。
1991年明けて五歳、天皇賞・春への前哨戦として陣営は阪神大賞典を選んだ。さらに鞍上に武豊を配し万全を期し、3000mをあっさりレコード勝ちした。この年は阪神競馬場改装のため中京の暫定コースで行われ、その後中京で3000mの競走が開催されていないことから、メジロマックイーンの名はほぼ永久に刻まれることになろう。本番の天皇賞・春は断然の1番人気で迎えられ、ミスターアダムス以下に盤石の強さを発揮し、メジロ牧場悲願の親仔三代天皇賞制覇を成し遂げた。続く宝塚記念はライバルに華を持たせたのか、
メジロライアンの2着に敗れた。
秋は京都大賞典から始動。これを楽勝して天皇賞は1番人気で迎えられた。不良馬場を快走し
プレクラスニーに6馬身差をつけて1位入線したが、スタート直後の2コーナーで斜行が判明し18着に降着してしまった。G1級の競走において初の出来事であった。これでメジロマックイーンのリズムが崩れたのか、続くジャパンカップは
ゴールデンフェザントら外国馬の斬れ脚に屈して4着。有馬記念では
ダイユウサクの一世一代の大駆けに半馬身及ばず2着に敗れた。
1992年六歳となったメジロマックイーンは阪神大賞典から始動しこれを5馬身差の楽勝。万全で天皇賞・春を迎えることになった。しかし1番人気は人気は無敗の魅力を買われた
トウカイテイオーに譲った。レースはメジロマックイーンのステイヤーとしての能力を十二分に発揮し、カミノクレッセ以下に楽勝した。
トウカイテイオーは5着に敗れた。今から考えると、平成1桁時代に活躍した顕彰馬同士の直接対決はこの一戦のみであった。その後メジロマックイーンは骨折が判明。年内は休養することになった。
1993年七歳春、11ヶ月ぶりの大阪杯で復活。14キロ増もナイスネイチャを5馬身ちぎってあっさりレコード勝ちした。断然の1番人気で迎えられた天皇賞・春であったが、ここには強敵がいた。前年菊花賞で
ミホノブルボンの三冠を阻止した
ライスシャワーである。何故かゲート入りを嫌うメジロマックイーンを見たファンの不安は的中し、
ライスシャワーの徹底マークにあって2着に敗れ、春の盾3連覇は阻止された。しかし宝塚記念はイクノディクタス以下に完勝。ステイヤーでありながら中距離でのスピード勝負でも一流であることを証明した。前年の天皇賞・秋での降着という汚名返上を期すべく、京都大賞典から始動。59キロを背負いながら2400mを2分22秒7という恐るべき時計でレコード勝ちした。勇躍東上したものの、天皇賞直前に骨折が判明。無念の引退となった。
引退後、社台スタリオンステーションにて種牡馬生活を送ることになった。メジロマックイーン自身には当時主流のノーザンダンサーの血が入っていないので、牝馬配合において選択肢が広いという特徴があった。初年度産駒からエイダイクインがクイーンカップを勝つなど、当初は順風万帆を思わせた。しかし同じ社台スタリオンステーションにいるサンデーサイレンスが驚異的な種牡馬成績を上げ、メジロマックイーンに優秀な繁殖牝馬を配合することは減少してしまった。しかし安価な種付け料を売り物に、零細牧場の繁殖牝馬を相手にしながらも、コンスタントに勝ち上がる馬は輩出し、種牡馬としてはそこそこ成功したといえる。メジロ牧場は親仔4代の天皇賞馬の出現を目指して有力繁殖牝馬を配合したのだが、成果が上がらなかった。晩年の産駒ホクトスルタンが2008年と2009年の天皇賞・春に出走したが、それぞれ4着、15着に敗れている。しかし娘の息子つまり孫の
ゴールドシップが2015年の天皇賞・春を制して、また新たな伝説の可能性がでてきた。母の父としては素晴らしい成績で、
ゴールドシップ以外にも
ステイゴールド産駒の
ドリームジャーニーが朝日杯FS、宝塚記念、有馬記念を勝っており、その全弟
オルフェーヴルがクラシック三冠の他、宝塚記念、有馬記念2回を制して凱旋門賞も2年連続2着している。2006年4月3日、繋養先の社台スタリオンステーション荻伏で、心不全のため逝去。この日はマックイーンの19回目の誕生日であった。
四歳から七歳まで長い間現役を続け、G1競走4勝という実績もさることながら、3000m以上のレースで7戦5勝2着2回という完璧に近いステイヤーでありながら、2000mと2400mでのレコード勝ちが示すようにスピードにも秀でていた。また道悪も苦にすることはなく、東京での天皇賞18着降着とジャパンカップ4着を除けば、すべて2着以内という安定感も有していた。さらに気を抜きがちな前哨戦で圧倒的に強く、鉄砲使いでも能力を発揮することができた。内国産馬でこれだけの馬を生産できたというのはある意味金字塔である。1994年、その功績をたたえられてJRA顕彰馬に選考された。
2001年9月10日筆
2006年5月20日加筆
2011年5月14日加筆
2015年10月3日加筆