[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ミホノブルボンは1989年に門別・原口圭二氏の牧場で生まれた。父マグニチュードは未勝利馬ながら父ミルリーフ母は英国オークス馬Altesse Royaleという良血を買われて種牡馬になった。日本導入後は短距離馬の活躍馬が多く1985年の桜花賞馬
エルプスを出している。母カツミエコーの3代母はコロナでオークスと有馬記念を勝った名牝
スターロツチを生んでいる。この
スターロツチの子孫にはダービー馬ウィニングチケット、天皇賞馬サクラユタカー、皐月賞馬
ハードバージ、皐月賞及び菊花賞に勝った
サクラスターオーなどがおり、日本の在来血統の中でも成功している牝系のひとつである。しかし一般に日本人は舶来品を有り難がる傾向にあり、生産界においても、在来牝系では現代競馬のスピードについていけない、やはり輸入牝馬でなければという固定観念に支配され、これほどの実績を残している牝系でもつい軽視してしまうことが多い。さらに長距離では見るべき実績のない父とあって、関係者の評価は低く、わずか700万円という安値で名古屋で建設業を営む秋田金秋氏が代表とする(有)ミホノインターナショナルの持ち馬となった。その秋田氏にしても大して期待していたわけでなかった。
栗東の戸山厩舎に入厩。戸山師はこのおとなしい栗毛馬に秘められた素晴らしいスピードを見抜き、プールで心肺機能を鍛え、坂路でトモを鍛えるという戸山流のハードトレーニングを課すことになった。三歳9月の中京でデビュー。1番人気に支持され、出遅れと道中不利がありながらレコード勝ち。ソエが出て休養後、東京での条件戦も6馬身差をつける圧勝。圧倒的1番人気で臨んだ朝日杯三歳ステークスもヤマニンミラクルにハナ差まで詰められながらも逃げきった。
四歳はスプリングステークスから始動。重馬場と前走の辛勝による血統的な距離不安から生涯唯一の2番人気となった。しかし何なく7馬身差で逃げきった。これなら大丈夫と1番人気に支持された皐月賞はナリタタイセイ以下に完勝した。2400mとなるダービーではまたも距離不安がささやかれたが、圧倒的なスピードで2着争いを後目に
ライスシャワー以下を4馬身差の逃げきり勝ち。小島貞博騎手は内気な性格が災いして他厩舎からの依頼の少ない騎手だったが、戸山師はそんな彼を主戦騎手として彼を使いつづけ、ついにダービージョッキーに仲間入りさせた。
夏場を休養にあて、秋初戦の京都新聞杯をレコードで逃げきるといよいよ三冠馬への期待が高まった。菊花賞の3000mという距離は、本来短距離馬であるミホノブルボンにとって明らかに長すぎた。しかしそれよりも懸念されたのは同形の逃げ馬キョウエイボーガンが逃げ宣言をしたことである。前に馬がいると追いかける癖のあるブルボンは果たして折り合いがつくのだろうか。菊花賞パドックのミホノブルボンはたくましく発達したトモを誇示し栗毛の馬体は輝いていた。期待をこめてファンは1番人気に支持した。レースは懸念されたとおりキョウエイボーガンを前に置く展開となり、競り合いで前半ハイペースとなった。直線手前で先頭に立ったものの、ダービーで2着に下した2番人気
ライスシャワーの末脚に屈した。ミホノブルボンはスタミナ切れでもうバタバタだったが、マチカネタンホンザの追撃を交わし2着を確保した。
その後脚部不安が発生。疲労性骨折と診断されたが、はっきりしなかった。回復しないまま戸山師が翌93年5月に逝去。ブルボンの面倒を見ていた安永司調教助手により、松本茂樹厩舎に転厩後も復帰への努力が続けられた。しかしついに94年1月に登録を抹消。結局菊花賞が最後のレースとなった。2月東京競馬場での引退式のあと、日高軽種馬協会において種牡馬となった。
種牡馬としてのミホノブルボンは当初種付け数こそそこそこ多いもののスピードを受け継ぐ産駒に恵まれなかった。僅かにミヤシロブルボンが岩手競馬の南部駒賞という重賞を勝ったに過ぎなかった。2012年に種牡馬を引退。2017年2月21日に繋養先のスマイルファームで老衰で永眠した。ミホノブルボンは馳せた栗毛の逃げ馬としての勇名も、のちの
サイレンススズカに奪われた感があり、人々の記憶から消え去ろうとしている。しかし
サイレンススズカが天才型とすればミホノブルボンは努力型で同じ栗毛馬でもタイプはまるで違う。たとえ安馬であっても鍛練で強い馬を作れることもあるという、競馬の醍醐味を教えてくれた忘れられない馬である。
2002年10月14日筆
2022年4月3日加筆