[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
モンテプリンスは1977年浦河の杵臼斎藤牧場にて生まれた。父シーホークは1963年フランス産馬。アイルランドで種牡馬として成功後、1974年より日本導入。重賞勝ち馬を数多くだし、晩年になりダービー馬
アイネスフウジン、
ウィナーズサークルを輩出。1991に死亡した。母モンテオーカンは現役時代逃げ脚を武器に40戦9勝の実績馬。斉藤牧場の場長の息子が現役時代より惚れ込み、松山吉三郎調教師に頼み込んで預けてもらった経緯を持つ。モンテプリンスは3番仔でひとつ下には天皇賞馬
モンテファストがいる。母の父ヒンドスタンは
シンザンはじめ多くの名馬を輩出し、過去成功した輸入種牡馬の1頭に数えられる。
毛利喜八氏の持ち馬として美浦松山吉三郎厩舎に入厩したモンテプリンスは、函館の新馬でデビュー。早くからの評判馬で1番人気に支持されるも連続2着。東京に戻っての未勝利を吉永正人騎手を鞍上に勝ちあがった。続く府中三歳Sは不良馬場で4着も葉牡丹賞は良馬場で快勝した。この頃すでにモンテプリンスは重馬場が苦手であることが明白になった。
四歳は東京四歳Sから始動。良馬場だったが発熱明けで6着。弥生賞は重馬場で4着、スプリングSは不良馬場で3着。そして皐月賞もどろんこの不良馬場に泣き、
ハワイアンイメージの4着に敗れた。続くNHK杯は晴天良馬場に恵まれ、モンテプリンスが2着に7馬身差をつけて勝ち、ダービーは大本命で迎えられることになった。曇り空の良馬場を軽快に先行し、直線半ばで先頭に立った。しかし吉永騎手が勝利を確信したところへ、
オペックホースが襲いかかりクビの差退けられた。勝ちパターンに持ち込みながら、末脚をなくしたのは、連戦続きで疲労の極みだったのかもしれない。モンテプリンスは笹針を打って温泉療養した。
秋になり稍重の
セントライト記念を勝って西下、京都新聞杯は不良馬場となり5着。本番菊花賞は晴天良馬場に恵まれた。しかもこの年の京都競馬場は新装なって1年ぶりの開催とあって絶好の馬場状態であった。当然のように大本命で迎えられた。しかし先行して抜け出すモンテプリンスをゴール直前でクビの差かわしたのは、5番人気の小兵
ノースガストであった。モンテプリンスは結局クラシックを無冠で終えることになった。
期待された五歳は血行障害に悩まされ、4月にオープンを一度使っただけで、本格復帰は10月の毎日王冠からであった。良馬場にも関わらず10着に惨敗。天皇賞は5番人気まで落ちた。ところが低評価をあざ笑うかのように軽快に先行し、直線抜けだし、同じく評価を落としていた前年のグランプリ馬
ホウヨウボーイと長いたたき合いを演じた。2頭はほとんど同時にゴール板を通過した。写真判定の結果は
ホウヨウボーイがモンテプリンスをハナの差先着していた。大レース3度目の惜敗である。続いてこの年創設された国際招待競走ジャパンカップに出走。モンテプリンスは日本馬最高の2番人気に支持された。けれども当時の日本馬は世界水準にはほど遠かった。アメリカのG2牝馬
メアジードーツにレコード勝ちされ、モンテプリンスは7着に惨敗した。有馬記念は激走続きが堪えたのか、
アンバーシャダイ、
ホウヨウボーイの3着に敗れた。
迎えた六歳。東京新聞杯を勝って幸先のよいスタート。続く中山記念は稍重に滑ってハナの差2着に敗れたものの、天皇賞では1番人気で迎えられた。生涯最高の512キロの鹿毛の馬体は陣営の自信を証明していた。先行集団直後につけ、直線後続を突き放す横綱競馬で
アンバーシャダイ以下を一蹴するレコード勝ち。ついに無冠のプリンスに春が訪れた。返す刀で続く宝塚記念も
カツアール以下に完勝。六歳にしてサラブレッドとして完成したかに思われた。しかしその後靱帯炎を発症し、天皇賞・秋、ジャパンカップへの出走はかなわなかった。有馬記念はファン投票1位に選ばれ、陣営はその責任感から出走に踏み切った。しかし果敢に逃げたものの、完調にほど遠く、しかも雨、重馬場とあってヒカリデュールの11着に敗れた。この有馬記念の惨敗が心証を悪くして、天皇賞・春と宝塚記念を完勝しているにも関わらず、年度代表馬と最優秀古馬のタイトルを秋に中央入りして有馬記念に勝っただけの
ヒカリデユールに奪われた。モンテプリンスがありついたのはドリーム賞という名の特別賞であった。これについては良識ある競馬評論家が異論を唱えた。確かに当時は有馬記念を勝った馬が春の成績に関係なく「最強」と見なされるという雰囲気があった。まだまだ競馬マスコミの見識が未成熟だったのである。ただし競馬会が発表したフリーハンデはモンテプリンスが
ヒカリデユールを上回る評価であったことは名誉にために記しておくべきだろう。
翌年、中山にて僚馬シービークロスとともに引退式が行われ、日高農協静内種馬場にて種牡馬生活に入った。サークルショウワ(クイーンC)、グレートモンテ(札幌記念・愛知杯)といった重賞勝ち馬を出したものの、自身を越える産駒には輩出するには至らなかった。しかしステイヤー色の濃い内国産種牡馬であれば、これくらいの成績でも上等であろう。その後茨城の東京大学農学部付属牧場に移動し、研究用種牡馬とされたが、2002年8月に永眠した。
大レースで惨敗を重ねた馬は、精神的な後遺症が残るのか、その後も勝ちきれなかったり、致命的な故障を発症したりして、大成することは少ない。モンテプリンスは度重なる惜敗の中から、負けることへの悔しさを学び、いつか努力が報われることを信じ、漸く大輪を咲かせた名馬である。「無冠の帝王」と「太陽の帝王」のふたつの称号があったが、残ったのは「太陽の帝王」だけである。重馬場の苦手の名馬は以後も数多く出現しているが、この称号が許されるのは今後もモンテプリンスだけであろう。
2003年5月6日筆