[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ミスターシービーは1980年、浦河・千明牧場にて生まれた。父
トウショウボーイは皐月賞、有馬記念、宝塚記念に勝った史上に残る名馬で、類い希なるスピードはしばしば他馬を圧倒した。母シービークインはオークストライアルと古馬になってから毎日王冠を勝った名牝。その父トピオは凱旋門賞の勝ち馬で他にエリザベス女王杯を制した
ディアマンテがいる。
トウショウボーイとシービークインは偶然にも同じ新馬戦に出走している。シービークインの生産者兼馬主である千明氏はこの
トウショウボーイのスピードに惚れ込み、シービークインに
トウショウボーイを付けようとした。しかし千明牧場は群馬にあって、
トウショウボーイの所有する日高農協に所属していないので種付けすることはできない。だからこの種付けは農協の幹部には秘密で行われた。ミスターシービーが生まれたのは浦河にあるシービークインを預かっていた牧場で、浦河には千明牧場は存在しない。ミスターシービーはいわば掟破りで生まれた馬である。ちなみにシービークインはその後不受胎が続き、ミスターシービーが彼女の唯一の産駒である。
美浦の松山康久調教師に預けられたミスターシービーは三歳新馬戦を圧勝。期待通りのスピードを見せつけた。しかし次走黒松賞に勝ったものの、その次のひいらぎ賞は2着に敗れた。ミスターシービーの鞍上を全レースで任せられることになる吉永正人騎手はこの敗北から、シービーの激しい闘志を直線で生かすために、追い込み脚質に転換することを決意した。結局3戦2勝で三歳戦を終える。
四歳は共同通信杯から始動。これを鮮やかに追い込んで快勝すると、続く弥生賞でも完勝。クラシックの主役というだけでなく、当時低迷していた競馬人気を盛り上げるヒーローの出現を期待させた。皐月賞はあいにくの不良馬場であったが、シービーは泥んこになりながら力強く馬群を抜け出しメジロモンスニー以下に完勝。皐月賞親子二代制覇を成し遂げた。この勝ちっぷりから続くダービーも断然の1番人気に支持された。このダービーでのレース振りは破天荒なものであった。追い込み脚質とはいえ1コーナーを最後尾で回り、3分3厘で徐々に進出、4コーナーで横の馬を弾き飛ばしながら、直線で豪脚炸裂。メジロモンスニーの追撃を振り切り、記念すべき50代目のダービー馬に君臨した。また2着に敗れた
トウショウボーイの雪辱も果たしたのだった。
三冠達成への期待が高まったものの、調教中に釘を踏む事故があり、美浦トレセンで夏を過ごすことになった。シービーは猛暑で夏風邪をこじらせようやく京都新聞杯に間に合った。ここでは
カツラギエースの4着に敗れたが、菊花賞では圧倒的な1番人気に支持された。前半はいつものように最後方。3コーナーの坂下から一気にまくって4コーナーでは先頭に立った。これまでにないレース運びにファンが驚く中、ビンゴカンタ以下に3馬身差をつけて圧勝。ついに
シンザン以来19年ぶり史上3頭めの三冠馬が誕生した。有馬記念はオーナーの方針により自重した。
明けて五歳となり、天皇賞・春を目指して、アメリカJCCから始動するも、降雪によるダート変更により同レースを自重。その後蹄を悪くしたために休養に入り、五歳初戦は秋の毎日王冠となった。11ヶ月ぶりとあってサンオーイに1番人気を譲ったが、直線猛然と追い込んで
カツラギエースにクビ差まで迫る2着。三冠馬の健在ぶりを知らしめた。続く天皇賞・秋では単枠指定、断然の1番人気に支持された。ここまで天皇賞・秋の1番人気馬は18連敗中であった。しかしこの年からこれまでの3200mから2000mに距離が短縮されていた。しかも父が当時2000m日本レコードホルダーであり、母も同じコースをレコードで駆けた、この三冠馬なら連敗記録を止めるのではないかとファンは期待した。例によってスタートは最後方であったが、3コーナーで外に持ち出して徐々に進出。直線でまたも末脚を爆発させて、チュデナムキング、
ロンググレイスの追撃を振り切って優勝した。この時がミスターシービーが人気実力ともに頂点であった。
続くジャパンカップは日本のエースとして1番人気に支持された。同年三冠を達成した
シンボリルドルフとともに、外国からやってきた強豪を打ち負かすシーンを期待したが、
カツラギエースの大逃げに幻惑されて、いいところなく10着に敗れた。有馬記念はファン投票1位で選ばれたが2番人気。直線よく追い込んだが、後輩三冠馬
シンボリルドルフの3着と敗れた。
明けて六歳緒戦の大阪杯はステートジャガーをハナの差捕らえ切れず2着。そして天皇賞・春で
シンボリルドルフと3度目の三冠馬同士の対決を迎えた。単枠指定された両馬は人気こそ拮抗していたが、もはや実力差は決定的ですらあった。シービーは菊花賞と同様、3コーナー手前坂下からロングスパートを仕掛けたが、ルドルフに直線手前であっさりかわされ、ズルズルと後退して5着に沈んだ。同年10月東京競馬場にて引退式が行われ、多くのファンが別れを惜しんだ。
引退したミスターシービーは社台ファームにて種牡馬生活に入った。初年度産駒からいきなりデイリー杯三歳ステークス勝ちのヤマニングローバルを輩出し期待させた。しかしこれがクラシックを棒に振ると、そのあとは自身に迫るような産駒に恵まれず、1994年社台を追われレックスファームに移動した。しかしここでも状況は好転せず、1999年種牡馬を引退、母シービークインのいる千葉・千明牧場で余生を送ることになった。そして2000年12月その生涯を閉じた。後継種牡馬は前述のヤマニングローバルのみ。種牡馬としては失格といわれても仕方のないミスターシービーであるが、母の父としては2000年のダートG1を連覇した
ウイングアローを出している。
ミスターシービーにとって不幸なのは、1年後に同じ三冠馬
シンボリルドルフが現れ、その直接対決にことごとく敗れたために、過去の三冠馬の中でも評価が低いことである。けれどもエリート然としたルドルフに比べて、ドン尻急襲という近代競馬とかけ離れたレースぶりもあいまって人気は常に上回っていた。低迷していた競馬界に久々に現れたアイドルホースとしての功績、内国産馬同士の配合による三冠馬という実績が評価されてJRA顕彰馬に選ばれた。
2001年2月25日筆
2003年3月22日加筆