[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
オルフェーヴルは2008年5月14日社台コーポレーション白老ファームで生まれた。父
ステイゴールドは50戦7勝。G1競走の着順掲示板の常連ながら、長く重賞勝ちがなく主な勝ち鞍が阿寒湖特別のみという状態が続いたが、7歳となった2001年に急に強くなり、結局国内G1は勝てなかったものの、3月のドバイシーマクラシック(G2)に勝ち、12月の香港ヴァーズ(G1)では信じられないような末脚を繰り出して優勝した。引退後はブリーダーズスタリオンステーションとビッグレッドファームを移動するシャトル種牡馬となった。社台グループに残れなかったくらいだから、それほど大きな期待を背負っていたわけではなかった。しかし次年度産駒から
ドリームジャーニーが朝日杯FS、宝塚記念、有馬記念を制する大活躍。他にも宝塚記念を制したあと凱旋門賞を僅差の2着となった
ナカヤマフェスタ、皐月賞、菊花賞と有馬記念と2回の宝塚記念を制した
ゴールドシップなど大物を輩出している。牝馬も
レッドリヴェールが阪神JFを制している。サンデーサイレンスの後継種牡馬しては、産駒の総取得賞金額こそ
ディープインパクトに水を開けられているものの、大物の輩出という点では劣るところはない。母オリエンタルアートは現役時23戦3勝。繁殖馬となっての一番仔が前述の
ドリームジャーニーである。産駒の勝ち上がり率も高く、2014年現在未勝利で引退したのは10頭中1頭だけである。オルフェーヴルはオリエンタルアートの5番仔である。母の父
メジロマックイーンは天皇賞・春2連覇、菊花賞、宝塚記念を制した日本競馬史上最強のステイヤーで殿堂入りしている芦毛の名優である。
小柄な栗毛で明るい茶髪のオルフェーヴルは社台ノーザングループの施設で鍛えられデビューを待った。ちなみにオルフェーヴルとはフランス語で金細工師を意味する。おそらく父のゴールドと母のオリエンタルアートから連想されてものなのだろう。サンデーサラブレッドクラブで一口馬主が募集され、すでに兄
ドリームジャーニーが活躍していたので、募集価格は総額6000万円に設定された。兄と同じく、栗東の池江泰寿厩舎に入厩した。2歳の2010年8月14日、新潟の新馬戦に初出走。強烈な末脚を繰り出して勝利するも、ゴール後鞍上の池添騎手を振り落とし放馬してしまった。この父
ステイゴールドを倍掛けしたような気性の悪さは、時に災いをもたらしたが、同時に多くの栄光をもたらすことになった。2戦目の芙蓉ステークスは後のG1馬ホエールキャプチャーを捕らえられず2着。3戦目の京王杯2歳Sは折り合いを欠いて10着に惨敗した。兄弟制覇がかかっていた朝日杯FSは諦めて、陣営は体勢を立て直すべく短期放牧に出した。
2011年、3歳となったオルフェーヴルは
シンザン記念から始動。豪脚で勝ち馬に迫ったが2着。つづくきさらぎ賞では
トーセンラーの3着に終わった。3月11日に起きた東日本大震災の影響で中山競馬が中止。同競馬場で行われる予定であったスプリングSが地元の阪神競馬場で施行された。スプリングSに出走したオルフェーヴルは後方に位置し、三分三厘からスパートすると
ベルシャザール以下を一気に差しきって重賞初制覇しクラシック出走権を獲得した。
第71回皐月賞は4月24日晴れ良馬場、震災の影響で、中山ではなく東京競馬場で1週遅れの開催となった。オルフェーヴルは2勝馬で東京開催の京王杯での惨敗が嫌われてか4番人気であった。低評価ではあったがオルフェーヴルは敗北の中で着実に経験値を上げていた。直線で先頭に立つと1番人気の
サダムパテックを3馬身突き放し、クラシック1冠目を獲得した。
第78回日本ダービーは5月29日東京競馬場で、台風2号の影響により不良馬場で開催された。1番人気に支持されたオルフェーヴルは中団に待機し、勝負どころから馬場のいい外に進出。池添騎手の好騎乗もあって2着ウインバリアシオンに1馬身4分3差をつけて優勝した。過去東京競馬場で開催された皐月賞の勝ち馬は
シンザン、
トウショウボーイなど名馬ぞろいだが、このダービーの勝利により、その不思議な巡り合わせも守られることになった。
クラシック三冠馬の期待がかかることになったオルフェーヴルは、帰厩時の気温差を考え、涼しい北海道ではなく、栗東近郊の牧場に放牧された。
秋初戦は神戸新聞杯。ダービーより16キロ増の460キロで出走。大幅に増えた馬体重が気になったが、先行集団につけ、超スローペースから、池添騎手がやや気合いを入れるだけで、上がり3F32秒8という強烈な末脚を繰り出して勝った。
第72回菊花賞は10月23日曇良馬場の京都競馬場で開催された。前走の勝ち方があまりに強烈だったので、単勝オッズ1.4倍の圧倒的一番人気に支持された。菊花賞では鬼門の外枠から発走したオルフェーヴルは、若干行きたがる素振りを見せたが、鞍上の池添騎手は馬群に入れて落ち着かせた。そして早めに先頭に立つと、末脚に賭けたウインバリアシオンを2馬身半差をつけて優勝。
ディープインパクト以来6年ぶり7頭目の牡馬クラシック3冠を達成した。ちなみに父、母、母の父が内国産の三冠馬は史上初であった。また
ディープインパクトは池江泰寿師の父泰郎師が管理しており、初の親子での三冠調教師となった。気性面で成長ぶりを見せたオルフェーヴルだが、ウイニングランで池江騎手を振り落としてしまう珍事もあった。オルフェーヴルはジャパンカップには出走せず、短期放牧を経て有馬記念に向かうことになった。
第56回有馬記念は曇良馬場の中山競馬場で行われた。ファン投票1位は、牝馬ながらジャパンカップを勝って、ここを引退レースと表明していた
ブエナビスタに譲ったものの、単勝支持率36%の1番人気に支持された。その年のドバイワールドカップを制した
ヴィクトワールピサを含めGI馬9頭、のべG1勝ち鞍19という豪華な出走陣。しかしオルフェーヴルは気後れすることはなかった。前半1000mを63秒8という超スローペースで最後方に位置する厳しい流れながら、向正面から大外を捲って直線ではすでに先行馬を射程圏に捕らえた。ここまで来たら瞬発力勝負ならお手のものとばかりに直線を鮮やかに抜け出すと、前年のダービー馬
エイシンフラッシュの追撃を3/4馬身抑えた。表彰式では突然のように雪が舞い、厳かな雰囲気の中で新たなヒーローの誕生を祝った。オルフェーヴルは当然のように年度代表馬に選出された。
翌2012年、4歳となったオルフェーヴルは春国内で3戦後、フランス凱旋門賞に挑戦することが表明された。その初戦は3月の阪神大賞典が選ばれた。出走メンバーからして四冠馬が負ける要素はないと圧倒的1番人気に支持された。鞍上の池添は凱旋門賞を見据えて、好位から差す競馬を覚えさせようとした。しかし休養明けのオルフェーヴルはイレ込んでいて、鞍上の制止も効かず、向正面では先頭に立ってしまった。すると、オルフェーヴルは3コーナー手前で外ラチに向かって逸走しはじめ、一気に後方3番手まで下がってしまった。「故障発生か」と場内が騒然とする中、オルフェーヴルは今度は急に加速を始め、4コーナーでは馬群に取り付き、大外から捲りにでた。しかし結局内ラチを楽に走ってきたギュスターヴクライを半馬身捕らえることができず2着に敗れた。この阪神大賞典はオルフェーヴルの破天荒な気性を語る上で欠くことのできない伝説となっている。この逸走により平地調教再審査の制裁が下された。
続く天皇賞・春は前走の雪辱を期待され1番人気に支持された。阪神大賞典は敗れたとはいえ、あの猛追撃を見れば、底力があるのは明白だった。ただ掛かりやすい大外枠だったことが一抹の不安要素であった。鞍上の池添は前走の反省から、とにかく馬との折り合いをつけようと前に壁を作るように後方に位置した。スローペースになっても有馬記念のような競馬ができれば勝てるはずと考えた。しかしこの日のオルフェーヴルは、どうも走る気がなかったのか、終始後方のまま11着に敗れた。勝ったのは大本命が後方に位置することで、マークから免れ逃げ粘った
ビートブラックであった。陣営はあまりの惨敗ぶりに次走宝塚記念の成績次第では凱旋門賞挑戦は白紙にすると表明した。陣営は体勢を立て直したが、オルフェーヴルの調子がなかなか上向かず、最終追い切りでようやく出走を表明する有様だった。
第53回宝塚記念は曇り良馬場の阪神競馬場で開催された。オルフェーヴルはファン投票1位、2走続けての敗戦にも関わらず1番人気に支持された。しかし単勝オッズは3.2倍と前年実績からすると不本意な評価であった。陣営と鞍上の池添騎手はとにかく勝つことを優先させた。それは好位差しの安定した競馬ではなく、後方に位置して、大外を捲る競馬であった。問題はオルフェーヴル自身がそれを思い出してくれるかであった。オルフェーヴルは激しく動く池添騎手の手綱に反応した。4コーナーで一気に進出すると、ルーラーシップを2馬身差をつけて優勝した。表彰式では「俺が一番強いというのがわかっただろう」と観衆にアピールしているような感じだった。そこには2戦続けて謎の敗北を喫した姿はなかった。
同年8月25日、オルフェーヴルは凱旋門賞を目指し予定通りフランスに遠征した。鞍上はここまで手綱を取ってきた池添ではなく、凱旋門賞の優勝経験があるクリストフ・スミヨンに委ねられた。前哨戦としてフォワ賞に出走した。5頭立てと小頭数ながら、内埒を突いて、余力を残して勝利。凱旋門賞と同じコース、同じ距離を勝ったことでオルフェーヴルの人気は高まった。しかも凱旋門賞直前でデインドリーム、
スノーフェアリー、ナサニエルといった出走予定の有力馬が回避を表明し、ますます期待が高まった。迎えた凱旋門賞は大外枠からの出走。好スタートを切ったオルフェーヴルは後方から2番手につけた。十分に脚を貯めたスミヨン騎手は、最後の直線で大外から追い出すと、残り300mで先頭に躍り出た。この時点でも余力十分であり、いよいよ日本馬による凱旋門賞制覇が近づいたと思われた。ところがオルフェーヴルは内埒に向かって急激に斜行して失速。必死に体勢を立て直したものの、追い上げてきたソレミアにゴール直前で差されてしまい2着に終わった。最後の最後でソラを使ってしまい、陣営とファンを落胆させてしまった。凱旋門賞後は間をおかず日本への帰国の途についた。
帰国後の初戦はジャパンカップが選ばれた。鞍上は池添に戻った。ここには当年に牝馬三冠を達成した
ジェンティルドンナが出走していた。牡馬と牝馬の三冠馬が対決するのは史上初めてであった。また凱旋門賞に優勝したソレミアや、天皇賞・春で逃げきりを許した
ビートブラックも出走し、オルフェーヴルにとっては願ってもない雪辱の機会が与えられた。ただ凱旋門賞の疲労が完全に抜けていないところに輸送の疲れが加わり、状態としては今一歩であった。それでもファンは1番人気に支持した。レースはいつものように後方5番手に位置し、直線手前では3番手に迫っていた。ここから抜け出してゴールを目指すオルフェーヴルに、進路をこじ開けようとした
ジェンティルドンナが激突し、バランスを崩して失速した。内ラチ沿いを持ち前の根性で
ジェンティルドンナを捕らんとしたが、ハナの差及ばなかった。審議は20分に及んだが結局着順通りに確定した。陣営は不満を表明したが、オルフェーヴルと
ジェンティルドンナの馬主は同じサンデーレーシングということもあり、納得せざるを得なかった。ジャパンカップでのダメージは大きく有馬記念の出走は見送った。この年のオルフェーヴルはG1は宝塚記念の1勝のみであったが、凱旋門賞とジャパンカップの2着が評価されて最優秀4歳牡馬に選出された。
2013年5歳となったオルフェーヴルは、春はドバイへの遠征が検討されたものの、国内に専念、初戦は2000mの大阪杯が選ばれた。斜行癖をなくす調教を施されたオルフェーヴルは、中団から抜け出し、余裕で単勝1.2倍の期待に応えた。その後、天皇賞・春は回避し、宝塚記念を目指したが、運動誘発性肺出血を発症して、これも回避した。幸い症状は軽症で、前年と同じくフランス遠征を敢行することになった。主戦の池添は凱旋門賞の騎乗に備えて、自らフランス遠征して経験を積んだが、池江師とオーナーは前年と同じくスミヨン騎手に騎乗させることを選んだ。
同年8月24日、オルフェーヴルはフランスに旅立った。現地での調教中に帯同馬に蹴られて、外傷性鼻出血を発症するアクシデントがあったものの、概ね順調に調教が積まれた。まずオルフェーヴルは前年と同じくフォア賞に出走した。内枠の2、3番手から直線で一気に先頭に立ち、後続を3馬身突き放す圧勝であった。
この年の凱旋門賞には当年のダービー馬
キズナが出走していた。日本の新旧のダービー馬が外国で対決するのは初めてであった。その
キズナは前哨戦のニエル賞を勝っていた。初めての遠征でフォア賞よりも強力出走馬だったニエル賞で結果を出し、斤量面で有利な3歳馬の
キズナは、オルフェーヴルよりも潜在力では上の評価をされた。そのため日本の期待は前年よりも高いものとなり、ロンシャン競馬場には5000人を越える日本人が訪れた。
両馬は日本の期待を背負ってスタートを切った。オルフェーヴルは後方外目、
キズナはさらに後方に位置した。それぞれ瞬発力に賭ける作戦だった。そしてその目論見通りになったものの、
キズナは外から脚を伸ばすものの前との差が詰まらない。オルフェーヴルは内を突き、進路の確保に手間取ったものの、差が詰まらない。ここまで無敗の3歳牝馬トレブが、両馬を後目に差を広げていったからである。結局、オルフェーヴルは5馬身差の2着に終わった。なお
キズナは5着であった。前年は勝てた競馬を斜行で落とした感じであったが、当年は力は出し切ったが相手が悪かったという感じだった。ここまでオルフェーヴルは8敗しているが、いずれも気性難や本調子を欠いたとか不利あったなど理由が存在した。はっきりした実力で完敗したのはこの凱旋門賞が初めてであった。オルフェーヴルは疲労回復後、帰国の途につき、引退レースの有馬記念に向けて調整された。
第58回有馬記念は晴良馬場の中山競馬場で開催された。16頭のフルゲートの出走を得たものの、ジャパンカップ連覇を果たした
ジェンティルドンナや
キズナを筆頭とする3歳クラシックの勝ち馬は出走しておらず全体としては小粒なメンバー構成であった。それでも前年の皐月賞、菊花賞、有馬記念、そして宝塚記念を勝った
ゴールドシップが挑戦状を叩きつけてきた。オルフェーヴルは1位にして約51%の単勝支持率で1番人気、
ゴールドシップがそれに続き、2強対決となった。ちなみにオルフェーヴルと
ゴールドシップはともに父
ステイゴールド、母の父が
メジロマックイーンである。レースはオルフェーヴルが
ゴールドシップを見る形で後方を進み、3コーナーから外を回って進出。4コーナーで先頭に立ったオルフェーヴルと池添騎手は、後続を突き放す一方的な競馬で、2着ウインバリアシオンに8馬身差をつけて、引退レースを勝利で飾った。オルフェーヴルは最終競走終了後に開催された引退セレモニーに臨み、多くのファンに見送られながらターフを去った。G1勝利はこの有馬記念のみであったが、前年に続き最優秀4歳以上牡馬に選ばれた。
2014年、引退したオルフェーヴルは社台スタリオンステーションで種牡馬として供用された。初年度産駒から阪神ジュベナイルフィリーズ、エリザベス女王杯2回、大阪杯を勝った
ラッキーライラック、皐月賞を勝った
エポカドーロを輩出した。次年度産駒からはマルシュロレーヌがアメリカのブリーダーズカップ・ディスタフに優勝する偉業を成し遂げている。どうやら稀に非常に高い能力を持つ馬を出すタイプかもしれない。
2015年、競走成績を評価されて顕彰馬に選定された。
通算成績21戦12勝、2着6回、3着1回、着外は2回と過去の三冠馬と比べても全く見劣りしないしない成績である。特に2回挑戦してともに2着の凱旋門賞は、日本のサラブレッドの質的向上を世界に知らしめる結果となった。ただ激しい気性が災いし、取りこぼしが多かった。また抜群の瞬発力はあるものの、重馬場で戦うことが多かったとはいえ、レコード勝ちが生涯ゼロであることが示すように、速い時計がない点が種牡馬しては評価が分かれるところだ。オルフェーヴルが三冠を達成した2011年は東日本大震災が発生し各地で甚大な被害がもたらされた。もしかするとどん底の被災者の気持ちを慰めるために現れた救世主がオルフェーヴルかもしれない。
2014/09/06筆
2015/10/03加筆
2022/04/05加筆