[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ライスシャワーは1989年3月5日、登別のユートピア牧場にて生まれた。父リアルシャダイは1979年アメリカ産馬。社台ファームの総帥吉田善哉氏が、ノーザンテーストの後継種牡馬として導入すべく、アメリカのせりで購入。フランスで走らせて8戦2勝。ドーヴィル大賞典G2に勝ち、フランスダービー2着などの実績をあげた。代表産駒としてはライスシャワーの他に1989年桜花賞馬
シャダイカグラ、1990年阪神三歳Sを勝った
イブキマイカグラなどがいる。産駒はどちらかというとジリ脚の馬が多かった。2000年受胎率低下で種牡馬を引退した。母ライラックポイントは現役時39戦4勝。その血統はユートピア牧場伝統の牝系が受け継がれている。4代母オホヒカリは1952年皐月賞とダービーの二冠を制した
クリノハナを出している。優秀な牝系であるが、現在にそぐわないステイヤー血統の上に、仔出しも悪かった。それでもユートビア牧場は優秀な種牡馬をつけて開花を待った。母の父
マルゼンスキーは最後の英国三冠馬ニジンスキー産駒の持込馬で現役時代は朝日杯三歳Sを含む8戦8勝、2着との着差合計が61馬身にもなった名馬である。種牡馬としても大成功し、ダービー馬
サクラチヨノオー、菊花賞馬
レオダーバン、
ホリスキーなどを出している。
小柄な黒鹿毛に出たライスシャワーは、ユートピア牧場のオーナー栗林英雄氏の持ち馬として、美浦の飯塚好次厩舎に入厩した。デビューは1991年8月新潟での三歳新馬戦で勝利を収める幸先のいいスタートを切った。しかし早々と重賞挑戦した新潟三歳Sは11着に大敗した。9月中山に戻り芙蓉Sを勝ち、賞金を積み上げてオープン入りを果たしたものの、その後骨折を発症して三歳競馬は3戦2勝で終える。
四歳はスプリングSから始動。しかし
ミホノブルボンの逃げ足に敵わず4着に敗れた。その後主戦騎手となる的場均が騎乗した皐月賞も、
ミホノブルボンの軍門に下る8着に終わった。もっとも11番人気とファンも大して期待していたわけでなかった。東京は未経験なのでNHK杯を叩いてダービーに挑んだ。しかしここも8着に敗れ、デビュー以来最低の430キロまで落ち込んだ馬体と相まって、18頭立ての16番人気まで暴落した。しかし初めて走る2400mという距離はライスシャワーのステイヤーの血を呼び起こし、
ミホノブルボンの2着に入線し万馬券を演出した。
秋は
セントライト記念を逃げる
レガシーワールドのアタマ差2着で始動。この
レガシーワールドはせん馬で菊花賞への出走権はない。実は三冠を目指す
ミホノブルボンの戸山厩舎がライスシャワーの実力を推し量るために所属馬の
レガシーワールドを出走させたのである。次走京都新聞杯では
ミホノブルボンが出走。2200mではブルボンの逃げ足に叶わず2着に終わった。しかしダービーでの着差4馬身は1馬身半まで縮まっていた。
第53回菊花賞は晴れ良馬場。二冠馬
ミホノブルボンが出走し、三冠への期待で異様な雰囲気に包まれていた。ライスシャワーは近走の実績とステイヤー特性を買われて2番人気に推された。
ミホノブルボンは1番人気に支持されていたが、短距離血統の
ミホノブルボンには菊花賞の3000mは長すぎるのではないかと疑問視する声も少なくなかった。ライスシャワーは単騎逃げに持ち込めなかった
ミホノブルボンを徹底的にマークし、直線であえぎながら逃げ込みを計るブルボンを捕らえると、1馬身半差をつけて3分5秒0の菊花賞レコードで優勝した。場内観衆は三冠馬の誕生に立ち会えずため息をもらしたものの、本物のステイヤーが勝ったという事実を認めざるを得なかった。かつて「クリ」の冠号で席巻したユートピア牧場にとっても、
クリノハナ以来40年ぶりのクラシック制覇となった。有馬記念はジャパンカップを勝った
トウカイテイオーに次ぐ2番人気に支持された。しかしマークするべき
トウカイテイオーが出遅れ、ライスシャワーを含む有力馬が控える展開になり、
メジロパーマーの逃げ切りを許し8着に惨敗した。
1993年五歳となったライスシャワーはステイヤー最高の勲章である天皇賞・春を目指した。2月の目黒記念は59キロの斤量が響いてか2着だったものの、3月中山の日経賞は見事に1番人気に応えた。ライスシャワーはまずは万全な状態で第107回天皇賞・春に挑むことができた。しかしこの天皇賞には恐るべき馬が出走していた。菊花賞馬にして天皇賞・春2連覇中の
メジロマックイーンである。
メジロマックイーンは休養明けの大阪杯をレコード勝ちして天皇賞・春3連覇を目指して駒を進めてきた。ライスシャワーが優れたステイヤーであるとしても、
メジロマックイーンの前では霞んだ存在でしかなかった。菊花賞では
ミホノブルボンが血統と展開面からいくらか勝算のあったが、今回は比べものにならないほどの低い勝算でしかなかった。飯田師はライスシャワーを徹底的に鍛えた。その結果、天皇賞にはダービー以来の430キロというギリギリに絞った馬体で出走した。しかしライスシャワーは2番人気に支持されたものの、大方の観衆は晴・良馬場の絶好のコンディションは
メジロマックイーンの3連覇のために用意されたと考えていた。その
メジロマックイーンが何故かゲートインを嫌った。今にして思えば、ライスシャワーに殺気を感じていたのかもしれない。ライスシャワーは
メジロマックイーンを徹底マーク。直線、満を持して抜け出した
メジロマックイーンにライスシャワーが襲いかかる。さすがの
メジロマックイーンもスタミナを消耗していた。ライスシャワーは確実にストライドを伸ばし、
メジロマックイーンに差をつけること2馬身、3分17秒1のレコードで天皇賞を制した。
ミホノブルボンの三冠に続き、
メジロマックイーンの天皇賞・春3連覇も阻止したライスシャワーはすっかり悪役的存在となってしまった。ライスシャワーはこの天皇賞で全精力を使い果たし宝塚記念には出走せず秋に備えることになった。
その秋、オールカマーを3着とまずは無難なスタートを切ったライスシャワーは、予定通り天皇賞・秋に出走した。しかし有力視された
メジロマックイーンが直前に故障発生し引退してしまった。主役不在となった天皇賞にライスシャワーは1番人気に祭り上げられた。マークするべき馬を失ったライスシャワーは持ち味を生かせず、2000mでは距離が短すぎとあって、
ヤマニンゼファーの6着に敗れた。続くジャパンカップも
レガシーワールドの14着、有馬記念は
トウカイテイオーの8着と立て続けに凡走。関東の悪役的刺客はファンの信頼を失おうとしていた。
1994年、六歳となったライスシャワーは天皇賞・春連覇を目指した。京都記念を5着、日経賞を2着と上昇気配であったが、天皇賞前に骨折が判明、休養を余儀なくされた。この年は京都競馬場が改修工事で阪神で天皇賞が行われた。出走していたとしても実績のないコース、絶頂期を迎えていた
ビワハヤヒデに勝てたがどうかは疑問である。骨折は予想よりも早く癒えて、ライスシャワーは有馬記念で復活。
ビワハヤヒデの弟でこの年三冠馬となった
ナリタブライアンに膝を屈する形となったが、久々の不利がありながら古馬最先着の3着という内容に関係者は今後の期待を見いだした。
1995年迎えた七歳。京都記念、日経賞をともに1番人気に支持されながら、ともに6着と期待を大きく裏切った。飯田師はあきらめることなく、ライスシャワーを再び鍛えあげた。第111回天皇賞・春は阪神大賞典を圧勝した
ナリタブライアンが戦線離脱し、絶対的な本命馬が不在となった。ライスシャワーは今から見ると二流馬でしかないエアダブリン、インターライナー、ハギノリアルキングに続く4番人気。前々年の覇者であることが忘れられたかのようであった。ゲートが開くと、いつもよりも行きっぷりが悪く後方につけるライスシャワー。しかし3コーナーの坂上で一気に先頭を奪い、スタミナ勝負に持ち込んだ。これは的場騎手の意志ではなく、ライスシャワーが自ら動いたという。スタミナのない二流馬が脱落し、直線は独走かと思われた。しかしライスシャワーも坂上からのスパートでスタミナを消耗。ゴール手前では脚が止まったが、ステージチャンプの急追を何とかハナ差凌いだ。実に2年前の天皇賞以来の勝利。観衆はライスシャワーが本物のステイヤーであることを思いだし、どちらかというと悪役だった彼を心から祝福した。
G1競走3勝をあげたライスシャワーには当然種牡馬としての未来が約束されてしかるべきであった。しかしス生産界は馬格もなく純然たるステイヤーであるライスシャワーに冷たかった。関係者はライスシャワーを宝塚記念に出走させることに決めた。宝塚記念という2200mで行われる中距離G1を制することができれば、生産界も再評価して種牡馬への道が開けるかもしれない。またこの年起きた阪神大震災の影響で宝塚記念は阪神ではなく京都で開催される。相性のいい京都を舞台にするのなら勝機を見いだせるかもしれない。関係者はそのように考えたのである。ライスシャワーはファン投票1位で宝塚記念に出走した。しかし人気は3番人気であった。ファンは馬券を買うとなると、ライスシャワーは上がり目のないステイヤーと冷静に判断していた。スタートを切ったライスシャワーは後方から3番手に位置した。的場騎手はあまりの行きっぷりの悪さに勝負をほぼ諦めた。そして、3コーナーの坂の手前で悲劇は起きた。ライスシャワーは突然前のめりになって、崩れるようにひっくり返った。的場騎手は馬場に放り出された。観衆は1番人気
ダンツシアトルが1着でゴールインしたのを確認すると、3コーナーを見やった。何が起こったのかわかっている。そしてこれから起こることも受け入れねばならなかった。左第一関節開放脱臼。治癒する見込みのない複雑骨折であった。あまりにも致命的な故障のため、馬運車に乗せることもできず、その場に幕を張って安楽死の処置が採られた。この1995年の宝塚記念は
ダンツシアトルが勝ったということよりも、ライスシャワーの悲劇的な死を迎えたレースとしてファンに記憶されることになった。
ライスシャワーは関東馬でありながら、3度のG1を制し、悲劇の死を迎えた京都競馬場に石碑があり、今も訪れる人は絶えない。よくライスシャワーは三冠阻止に三連覇阻止した悪役が、悲劇のヒーローとして死に場所を得たなどと評される。種牡馬としての成功する可能性などなかったからこれでよかった、などという。しかしG1を3勝した馬が種牡馬入りしないとは考えにくく、不人気で将来はどのように遇されるかどうかわからないものの、子孫を残すという生物にとってもっとも重要な責務を果たすことができなかったのは、やはり不幸だというべきで、死に場所を得たと自分たちの都合よく考えるべきではないであろう。競馬が続く限り、このような悲劇は繰り返されるが、子孫の残せなかった彼らに代わって、我々がするべきことは、彼らの足跡を胸に刻んでおくことだろう。ちなみにライスシャワーとは、欧米において新婚旅行への門出を祝って花嫁花婿に米粒を投げかける風習である。「新婚生活」を迎えられなかったライスシャワーにとっては何とも皮肉な名前であろうか。
2003年10月1日筆