[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
サクラバクシンオーは1989年社台ファームにて生まれた。父
サクラユタカオーは一時代を築いた大種牡馬テスコボーイの晩年の傑作で、四歳では故障で満足に走れなかったが、五歳になって本格化し、毎日王冠、天皇賞・秋を日本レコードで連勝しその名を高めた。種牡馬としても成功し、このサクラバクシンオー以外にも1999年の安田記念・マイルCSを連覇した
エアジハード、1995年のエリザベス女王杯を勝った
サクラキャンドル、1999年オークス馬
ウメノファイバーのG1馬を輩出している。母サクラハゴロモは父ノーザンテースト、母クリアアンバーという血統で1981年有馬記念、1983年天皇賞・春に勝った
アンバーシャダイの全妹であった。またクリアアンバーの全妹ダイナクラシックは1990年阪神三歳Sを勝った
イブキマイカグラを生んでいる。当初、生産者である社台ファーム総帥吉田善哉氏はこの
アンバーシャダイの全妹を牧場の基礎牝馬とするつもりだったので売らないつもりでいた。しかし境勝太郎調教師の熱意に折れて、3年間3000万円という条件で貸与することになった。現役時は16戦2勝で、無理して走らせて故障しては申し訳がないということで、約束より1年早く社台ファームに返した。その見返りとして無償で初仔を譲り受けることになった。それがサクラバクシンオーであった。
サクラの冠号で知られる(株)さくらコマースの持ち馬として、美浦・境勝太郎厩舎に入厩したサクラバクシンオーは、サクラの主戦騎手で、境師の娘婿の小島太騎手を鞍上に、四歳1992年1月の中山のダート1200mで初出走。見事に新馬戦を逃げ切った。小島太騎手はサクラバクシンオーの全レースに騎乗することになる。続く黒竹賞1600mは2着だったものの、桜草特別1200mで勝利した。サクラバクシンオーは父
サクラユタカオーに似て、普段は素直でのんびりしていたが、レースに出走すると闘志を漲らせた。ただ絶対的なスピードは優れていたが、脚元が弱く強い調教ができなかった上、ただ逃げるだけの戦法ではクラシックで通用するかどうか不安であった。まずは皐月賞を目指してスプリングSに出走。しかし重馬場で持ち前のスピードを生かせず、というよりも彼を凌駕するスピード馬
ミホノブルボンにちぎられて14頭立ての12着と大敗した。境師はこの馬の本領は1600m以下の短距離にあるとみて、クラシックを諦め短距離路線を重点的に走らせることになった。1200mのクリスタルカップ(G3)で初重賞勝ち。1400mの菖蒲S1着を叩いて、春の目標としたニュージランドT(G2)に出走も7着に敗退。秋はマイルチャンピオンシップを目指して、京王杯AH(G3)に出走するも3着、東京の1600m多摩川Sは7着という不本意な成績であった。境師はこの馬はマイルよりも短い距離でないと本領を発揮できないと考え、その後はスプリント路線を中心に使われることになった。そこで東京1400mのキャプタルステークスに出走、1番人気に応えた。しかし肝心のスプリンターズステークス(G1)は3番人気に推されながら、同期の桜花賞馬
ニシノフラワーの末脚に屈する6着であった。結局サクラバクシンオーが1400m以下で負けたのはこの四歳で挑戦したスプリンターズステークスだけであった。
五歳となった1993年は脚部不安が生じて放牧したため春は全休、10月中山1200mのオータムスプリントステークスに出走。これに勝って幸先のよいスタート。続く東京1600mのアイルランドTは4着だったがこれは折り込み済み。去年と同様キャピタルステークスを勝ってスプリンターズステークスに挑んだ。
第27回スプリンターズステークス(G1)において1番人気に推されたのは
ヤマニンゼファーであった。
ヤマニンゼファーはこの年の安田記念を前年に続いて連覇し、さらに2000mの天皇賞・秋も制した。その上にスプリンターズステークスを制すれば、史上初の短中距離完全制覇となり、年度代表馬は確定的なものとなるはずであった。サクラバクシンオーは2番人気であった。馬体重は過去最高の500kgで充実ぶりを示していた。1200mならサクラバクシンオーに分があるように思えたが、ファンは安田記念、天皇賞を制した格を評価したのである。サクラバクシンオーにとっても負けられない1戦であった。レース前に(株)さくらコマースの社長、全演植オーナーが亡くなったのでのである。境師、小島太騎手にとっては大恩人であり、亡きオーナーへの勝利の報告は半ば義務づけられたものだったからだ。レースはサクラバクシンオーが3番手で先行し、
ヤマニンゼファーが6番手につけた。直線でサクラバクシンオーが堂々と抜け出しても、
ヤマニンゼファーに差を詰められることなく2馬身半差をつけて優勝。関係者にとっては「追悼レース」になったため表彰式は喜びが表に出ることなかった。
六歳となった1994年はダービー卿チャレンジトロフィー(G3)より始動し、1番人気に応えた。当時は春季にスプリントG1はなかったので、春の目標は1600mの安田記念(G1)とせざるをえなかった。日本馬最高の3番人気に推されたものの、マイルを得意とする牝馬
ノースフライトの4着に敗れた。秋は毎日王冠(G2)に出走し4着と敗れたものの日本レコードで勝った
ネーハイシーザーと0.4秒差の1分45秒0の好タイムであった。西下したサクラバクシンオーはスワンステークス(G2)で安田記念で完敗した
ノースフライトと再び対戦した。1200mの王者と1600mの女王が1400mで激突することになり、勝敗に興味が持たれたが、1番人気に推されたサクラバクシンオーが
ノースフライトを抑えて勝利した。しかし次走マイルチャンピオンシップ(G1)は
ノースフライトにきっちり雪辱された。しかしマイル戦で2着を確保したところに成長を感じさせた。
第28回スプリンターズステークス(G1)は、サクラバクシンオーの独壇場という前評判で圧倒的1番人気に推された。日本馬にさしたるライバルはおらず、未知の外国馬ソビエトプロブレムが2番人気になった。好位から楽々と抜け出したサクラバクシンオーは2着ビコーペガサスとの着差が4馬身に達する日本レコードで優勝し自らの引退に華を添えた。
引退後、社台スタリオンステーションにて種牡馬となったサクラバクシンオーは1998年より産駒がデビュー。初年度から産駒の評判もよく、シンジケートの会員には払い戻しがでるほどであった。そして2002年2月きさらぎ賞でメジロマイヤーが産駒初の重賞勝ちを果たし、間をおかず
ショウナンカンプが高松宮記念を制して早くも大物を輩出した。その後もCBC賞と函館スプリントSを勝ったシーイズトウショウなど活躍馬を出している。中山大障害・中山グラントジャンプを制したブランディスは別にして、総じて父と同じく短距離でしか持ち味を発揮できない産駒が多い。内国産種牡馬である
サクラユタカオーの血を伝える後継種牡馬が
ショウナンカンプだけでは心許ないと思われていたところへ、2010年朝日杯FSで
グランプリボスが勝った。しかし22歳となったサクラバクシンオーは2011年4月30日に心不全にて永眠。その直後
グランプリボスはNHKマイルカップを1番人気で制し亡き父を弔った。
ショウナンカンプも
グランプリボスも種牡馬成績が今ひとつなので、サクラバクシンオーの血が後世に残るかどうかは微妙だ。しかしサクラバクシンオーが日本競馬史上初の本格的スプリンターとして歴史に残るのは間違いない。サクラバクシンオーが開拓した道があってこそ、のちに世界に通用するスプリンター、
ロードカナロアが出現したといっても過言ではないだろう。
2004年11月25日筆
2011年5月14日加筆
2022年4月6日加筆