[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
サクラユタカオーは1982年静内・藤原牧場にて生まれた。藤原牧場は明治35年創業というサラブレッド生産の草分け的存在。決して大きな牧場ではないが、
スターロツチ(オークス、有馬記念)、
ハードバージ(皐月賞)、
サクラスターオー(皐月賞・菊花賞)、ウィニングチケット(ダービー)など幾多の名馬を送り出している。父テスコボーイは1970年代を席巻したリーディングサイヤーで、ダービー以外の全ての大レースに勝った。代表産駒は数多くいるが、G1級レースを2勝した馬としては、皐月賞・有馬記念・宝塚記念を勝ち種牡馬としても大成功した
トウショウボーイ、皐月賞と菊花賞に勝った
キタノカチドキがいる。母アンジェリカは12戦2勝の平凡な成績。しかし祖母
スターロツチは四歳時に有馬記念を勝った名牝で、繁殖馬としては直仔が大レースを勝てなかったが、孫以降の世代で活躍馬を多く出して、スターロッチ系ともいうべき牝系を形成している。アンジェリカは1986年9月に十九歳で他界するが、サクラユタカオーの兄としては短距離重賞を4勝しダービーやジャパンカップでも健闘したサクラシンゲキ(父ドン)、また姉サクラスマイルは皐月賞と菊花賞に勝った
サクラスターオーを産むなど、優秀な繁殖成績を収めた。母の父ネヴァービートは英国産で1964年より日本で供用された。皐月賞馬
マーチス、桜花賞馬
インターグロリアなどを出している。母の父としても、三冠牝馬
メジロラモーヌを出すなど、特に優秀で1984,86,88年のリーディング・ブルードメアサイヤーに輝いている。
ところでこの頃生産界では「テスコボーイ産駒の栗毛は走らない」というジンクスがあった。兄サクラシンゲキに続いてこの馬を管理することになる境勝太郎師はこのことを知らなかった。そんなことよりも雄大な馬格、素直な性格からこの馬は走ると確信していた。さくらコマース社長の全氏はセリ市において、このよく考えてみれば何の根拠もないジンクスのおかげで、目論見よりも安い3500万円でこの馬を手に入れることができた。
1984年12月中山でデビューしたサクラユタカオーは小島太騎手を鞍上に新馬戦1800mをレコード勝ち。つづく万両賞は2着馬を7馬身ちぎる圧勝で、三歳競馬は上々の滑り出しだった。四歳初戦は共同通信杯。不良馬場にのめりながらも何とか勝利し、クラシック戦線の有力な一頭となった。しかし脚元が弱い欠点があったサクラユタカオーは不良馬場で無理した反動で左前膝を骨折してしまい、春のクラシックシーズンを棒に振ることになった。
復帰は四歳秋の京都新聞杯であった。休養明けにも関わらず皐月賞馬
ミホシンザンに次ぐ2番人気に支持されたが、4着に敗れた。菊花賞は小島騎手が騎乗停止中のため岩元騎手に手替わりした。3コーナーで引っかかり一気に先頭に立ってしまい、末脚をなくし
ミホシンザンの4着に敗れた。しかし境師はあの展開で4着に残ったサクラユタカオーに非凡な能力を認めた。有馬記念は諦めてダービー卿CTに出走し2着した。大レースを勝つことはできなかったが、素質の片鱗を随所に見せた四歳であった。
五歳は天皇賞・春を目指して西下し大阪杯から始動。本調子ではなかったが同じく天皇賞を目指して連勝中だったスダホークに頭差先着し幸先のよいスタートだった。しかし2番人気に支持された天皇賞はいいところなく
クシロキングの14着に敗れた。おまけに左前骨膜炎が発生し休養を余儀なくされた。やはりこの馬の本領は中距離にある。境師は目標を秋の天皇賞に定めた。
秋緒戦は満を持して毎日王冠。同期の二冠馬
ミホシンザンが日経賞以来久々の登場で1番人気に支持され、四歳馬ながら前走函館記念で古馬を破り中距離得意の
ニッポーテイオーが2番人気で、サクラユタカオーは天皇賞・春の惨敗で信用をなくしてか4番人気であった。しかしそつなく好位につけ、坂上から豪脚を繰り出し、逃げ粘る
ニッポーテイオーに2馬身半差をつける完勝。勝ち時計1分46秒0は1800mの日本レコードであった。
第94回天皇賞・秋は絶好の馬場状態であった。斬れ味を身上とするサクラユタカオーにとってこれ以上の舞台は存在しなかった。馬も生涯最高の出来で、境師の懸念材料は16番枠という大外枠ぐらいであった。東京競馬場の2000mコースはスタート直後に大きくカーブするので明らかに外枠不利であるからである。1番人気は前走毎日王冠で3着の
ミホシンザンであった。五冠馬
シンザンの仔はやはり人気があった。サクラユタカオーは距離適性は認められたが、外枠、毎日王冠のレコード勝ちの反動が嫌われて2番人気であった。サクラユタカオーは好スタートから6番手につけた。そして直線で貯めていた末脚を爆発させた。逃げ粘るウィンザーノットを捕らえ、中団からジリジリ追い込む
ミホシンザンを後目にゴールした。勝ち時計は1分58秒3の日本レコード。レース後「勝つときは日本レコードだと思っていた」と語った小島太騎手の会心の騎乗であった。
ジャパンカップは1番人気に支持されたが6着、有馬記念は3番人気で同じく6着。この2戦はサクラユタカオーにとっては守備範囲外の距離であり、この結果は名誉を傷つけるものではないだろう。毎日王冠、天皇賞・秋の連続レコード勝ちの印象が強く、この年の最優秀古馬に選出された。
翌1987年2月1日、東京競馬場で引退式が行われ、その5日後、生まれ故郷の静内にある「静内スタリオンステーション」にて種牡馬生活に入った。実はサクラユタカオーは、社台ファームに種牡馬入りすることにほぼ決まっていた。しかし日高の生産者によるテスコボーイの後継種牡馬として是非日高に残してほしいという熱意と、日高贔屓の境師の説得に、サクラの全オーナーも折れて、社台にもシンジケートの株を持ってもらうことにして、日高の青年部が当時としては破格の5億円で引き取られたのである。「中距離のスピード馬」として生産界の人気は高く、初年度産駒から中山記念、京王杯SCを勝ったダイナマイトダディを出し、その後もスプリンターズSを連覇した
サクラバクシンオー、エリザベス女王杯の
サクラキャンドル、オークスの
ウメノファイバー、安田記念とマイルCSの
エアジハードなどG1勝ち馬を輩出した。順風万帆な種牡馬生活といえたが、十七歳を迎えた1998年頃から受胎率が低下しはじめ、1999年には89頭に種付けして受胎馬0という最悪の状況となった。シンジケートは解散したものの、奇跡を信じる生産者によって再度シンジケートが結成された。しかし結局受胎は確認されず、種牡馬引退となった。サクラユタカオーにとって救いなのは、
サクラバクシンオー、
エアジハードら後継種牡馬に恵まれていることだろう。特に
サクラバクシンオーは産駒
ショウナンカンプが2002年の高松宮記念に勝ち、種牡馬として成功している。また母の父としてはマイルCSで2年連続で1番人気に支持されたダイタクリーヴァなどがいる。種牡馬引退後は去勢され、北海道新ひだか町のライディングヒルズ静内で功労馬として余生を送った。そして2010年11月23日、老衰のため永眠した。享年 28歳の大往生だった。
一時は競馬界を席巻したテスコボーイ産駒だが、その子供たちの種牡馬成績となると、その筆頭ともいうべき
トウショウボーイが三冠馬
ミスターシービーを出したものの、そこからはさらなる血脈を広げることができなかった。
キタノカチドキや
ハギノカムイオーはG1勝ち馬すら送り出せなかった。しかしサクラユタカオーは前述2頭の頑張り次第では、貴重なテスコボーイの血を伝える可能性がある。テスコボーイの晩年の傑作として、また日本古来の牝系の血がその雄大な栗毛に流れるサクラユタカオーは、鮮烈な連続レコード勝ちの現役時代と、内国産種牡馬のエースとして君臨した種牡馬時代のふたつを置き土産に残した。
2004年2月25日筆
2022年4月6日加筆