[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
シンザンは1961年北海道浦河の松橋吉松氏の牧場にて生まれた。父ヒンドスタンは愛ダービー馬で1955年日本に輸入された。1961年から65年、67年、68年にリーディングサイヤーに輝き、後に日本に輸入された種牡馬の中でも屈指の成功をおさめることとなる。母ハヤノボリは抽せん馬で平地で43戦4勝障害で2戦0勝の実績。1955年繁殖に上がり、産駒としては京都四歳特別など5勝したリンデン、中山記念を勝ったオンワードスタンがいる。シンザンは第5仔となる。血統的にはオークス馬
ジツホマレの半姉で母の父は
ハヤタケ、牝系は5代母として小岩井農場の至宝ビューティフルドリーマーにたどり着く。
橋元幸吉氏に約300万円で買われ、京都の武田文吾厩舎に入厩したシンザンは、三歳11月京都にてデビュー、見事新馬戦を勝ちあがった。続くオープン、中距離特別と連勝して三歳競馬を終える。しかし武田師は僚馬オンワードセカントの実力を評価し、シンザンの実力をまだ見抜けずにいた。調教では全く動かないし、勝ちっぷりも何馬身も引き離すものではなかったからである。
明けて四歳、武田師はシンザンの後肢の踏み込みが強く、前肢の蹄底にぶつかってしまうことに気付いた。そこで装蹄師と相談して、後肢の蹄鉄にスリッパのようなカバーを取り付けた独自の「シンザン鉄」を開発し、ようやく思い通りの調教ができるようになった。京都のオープンをひと叩きしたあと、東上緒戦は東京のスプリングS。ここも勝利して、皐月賞を1番人気で迎えられた。この年の皐月賞は中山競馬場が改築工事のため東京競馬場で行われた。栗田騎手が直線坂上でスパートするとアスカを3/4馬身振りきって見事三冠の第一関門を突破した。ダービー前のひと叩きは2着に敗れ、初の敗戦を喫した。しかしダービーは同じヒンドスタン産駒の評判馬ウメノチカラを1馬身1/4振りきって1着でゴール。調教や前哨戦では動かなくても、本番を迎えるとまるでゴール板を知っているかのように、きっちり差し切るレースぶりはシンザンの真骨頂で、これは彼の生涯全ての競走にいえることであった。
いよいよ戦前の
セントライト以来となる三冠を狙うことになったシンザンだが、武田師は菊花賞の舞台である京都で勝つには、そこでの気候に慣らすほうがよいと考え、京都の自厩舎で夏を過ごすことになった。しかしシンザンは盆地特有の暑さに夏負けしてしまい、秋緒戦の阪神のオープン、さらに前哨戦の京都盃もバリモスニセイの2着と完調に程遠い内容だった。これに対してライバルの関東馬ウメノチカラは
セントライト記念を完勝し、満を持して菊花賞に乗り込んできた。菊花賞はそのウメノチカラが1番人気、シンザンが2番人気であった。シンザンの栗田騎手は「負けてもいいからウメノチカラが追うまでこちらも追うな」という武田師の指示通りに騎乗し、ウメノチカラを2馬身半差をつけて完勝。
セントライト以来2頭目、戦後では初めての三冠馬が誕生した。ウメノチカラの伊藤竹男騎手もシンザンの精神力に脱帽した。しかし力を出し尽くしたシンザンは有馬記念を見送って休養に入った。
五歳緒戦は天皇賞も終わった5月阪神のオープンであった。天皇賞に出走しなかった理由は表向きは体調不良であったが、その頃快進撃を続けていた関東馬
アサホコの対決を避けるためであったという説もある。もちろん確たる証拠はない。オープンを2連勝してから、春のグランプリレース宝塚記念に出走、バリモスニセイ以下に完勝する。しかしながらその頃の宝塚記念はファン投票で出走馬を選んでいたとはいえ、有馬記念ほどの権威は認められていなかった。
当時、シンザンほどの強豪となると、大レース以外では重い負担重量が課せられた。そこで前哨戦のオープンは減量恩典のある見習い騎手武田博が騎乗し、直前の目黒記念のみ主戦の栗田騎手が63キロの酷量で騎乗することになった。両騎手とシンザンは期待に応え、年内全勝で東京の天皇賞・秋に挑んだ。昨年のライバルウメノチカラは古馬になって精彩を欠き、ライバルとなるはずの
アサホコはすでに天皇賞に勝っていたために出走権はなかった。加賀騎乗のミハルカスの大逃げに幻惑されたが、最後に
ハクズイコウを2馬身突き離してゴールした。これでシンザンにとって勝つべきレースは有馬記念だけとなった。有馬記念のファン投票でも圧倒的票数で1位となっていた。シンザンは中山は初めてであるので、武田師は有馬記念の1週前のオープンに調教代わりに出走し、連闘で有馬記念に挑むことになった。そのオープンは武田博騎乗で2着となり、この年初の敗戦を喫した。それもクリデイにアタマ差まで迫られての2着という危なさであった。このオープンへの出走と敗戦に主戦の栗田騎手は不満で義父でもある武田師との関係悪化に発展し、有馬記念には弟弟子の松本騎手が騎乗することになった。シンザンは有馬記念で断然の1番人気に支持された。逃げると予想されたミハルカス騎乗の加賀騎手には奇策に打って出た。それは直線に入ったら外ラチ沿いに進路をとって、後続のシンザンを馬場の悪いインコースに誘うというものであった。しかしシンザンの松本騎手は加賀騎手の選んだコースよりもさらに外の、外ラチ一杯のコースを走らせた。このため観衆の影でシンザンが視界から消えてしまったが、シンザンは雄々しく抜け出して見事五冠を達成した。
この有馬記念を最後に引退したシンザンは谷川牧場で種牡馬となった。当時の生産界は外国産種牡馬が席巻していて、五冠馬といえども成功が保証されているわけではなかった。しかしシンザンは種牡馬としての能力も外国産馬に伍するものであった。初期の産駒としては1800mの日本レコードを長く保持したスガノホマレなどスピード馬を多く出し、クラシックには手が届かなかったが、1986年
ミナガワマンナが菊花賞を勝ち、そして85年皐月賞、菊花賞、87年天皇賞を勝った
ミホシンザンを輩出。母の父としても菊花賞馬
ハシハーミットを出し、この他にも多くの重賞勝ち馬が産駒を世に送り出した。これには関係者の尽力で内国産種牡馬振興策が図られたという背景もある。1988年種牡馬を引退。シンザンは驚異的な生命力を発揮し35年3ヶ月目の1996年7月13日この世を去った。これは当時の日本サラブレッド最長寿記録であった。
戦後初の三冠馬でしかも天皇賞、有馬記念、宝塚記念といった当時の大レースを全て制し、生涯成績も2着以下はなしという完璧な競走成績。繁殖成績も
ミホシンザンを筆頭に優秀で、またサラブレッド最高齢を記録など生命力も抜群だったシンザンはまさに「サラブレッドの中のサラブレッド」といっても過言ではないだろう。今後シンザンを個々の能力において上回る馬は現れるに違いないが、これほどまでに完璧な能力を示すのは容易なことではないだろう。
2001年8月15日筆