[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
サッカーボーイは1985年千歳社台ファームにて生まれた。父ディクタスは1967年フランス産馬。現役時代は17戦6勝で、あの
タイキシャトルが勝ったフランスG1として有名なジャック・ル・マロワ賞を制している。1972年から80年までフランスにて種牡馬として活躍し、80年にはフランスリーディングサイヤー2位を獲得している。1981年からは社台ファームにより日本に輸入された。輸入された目的は社台ファームが導入して大成功したノーザンテースト産駒の牝馬に交配するためであった。宝塚記念2着のイクノディクタス、皐月賞2着のディクターランド、天皇賞・秋2着のムービースターなど、サッカーボーイ以外の活躍馬もこの配合から生まれている。G1馬としてはこのサッカーボーイの他は、1984年朝日杯三歳Sを制した
スクラムダイナのみ。産駒成績はG3クラスの勝ち馬は数多いもののG1競走では2着がやたらと目につく。1989年に他界した。母ダイナサッシュは現役時代9戦未勝利。血統的にも平凡で数多くいる社台ファームの繁殖牝馬の中でも突出した存在ではなかった。ダイナサッシュの父ノーザンテーストは前述したように今日の社台ファームの繁栄の基礎を築いた大種牡馬で、代表産駒としては1981年の有馬記念及び83年の天皇賞・春を制した
アンバーシャダイや1986年のダービー馬
ダイナガリバーなどがいる。牧場時代のサッカーボーイはさほど期待をかけられたわけではなかったが、その激しい気性とともに、派手な栗毛の容姿と素晴らしい後脚のバネで関係者の注目を集めていた。
1987年、サッカーボーイは社台ファームが運営する馬主クラブである社台ダイナースクラブの持ち馬として栗東の小野幸治厩舎に入厩した。余談になるが、ダイナースクラブは当時日本最大の馬主クラブで所有馬には「ダイナ」の冠名を授けていた。ところがあまりに数が多すぎて反感を買う雰囲気がないとはいえなかった。そこでこの87年デビュー組から母馬の名前に因んだ洒落た名前が授けられるようになった。
初出走の8月函館の新馬戦はあいにくの不良馬場。スタートから独走し2着馬に9馬身差をつけて圧勝、1番人気に応えた。2戦目の函館三歳S(G3)はいきなりの重賞挑戦ということもあって3番人気。経験不足もあって4着に敗れた。京都のもみじ賞は中団に控え直線からスパートし、2着馬に10馬身差をつけた。汚名挽回に十分な完勝で、関西三歳牡馬陣の主役として迎えられることになった。
第39回阪神三歳Sはサッカーボーイが初めて良馬場で出走となった。持ち前のスピードが発揮できる機会が訪れたとみたファンは1番人気に支持した。結果は大方の予想を上回るもので、1600mにも関わらず2着ダイタクロンシャンに8馬身差をつけ、勝ち時計は1分34秒5。1971年にヒデハヤテが樹立したレコードを更新した。当時関西馬は関東馬に比してクラシック戦線において劣勢を強いられていたが、マスコミは「
テンポイント以来の逸材」とサッカーボーイを持ち上げた。
1988年四歳春、勇躍東上し初戦は弥生賞(G2)。その年は工事中の中山ではなく東京開催であった。断然の1番人気に支持されながら3着に敗れた。しかも皐月賞直前に蹄が悪化して無念の回避となった。抗生物質を大量投与して復帰したNHK杯(G2)はここまで騎乗してきた内田騎手に代わり、関西の第一人者河内洋で挑んだ。しかし1番人気に支持されながら4着に敗れた。ファンは続くダービーでも1番人気に支持した。しかし支持率は12.8%の低さであった。河内騎手はダービー前のレースで通算999勝を達成していて、ダービーに勝てばそこで通算1000勝という記念すべき出来事になっていた。しかし22番枠と外枠であった上にパドックでメンコがずれパニックに陥ったこともあるが、そもそもサッカーボーイに走る気配が見受けられず、
サクラチヨノオーの15着に大敗した。
汚名挽回をはかるべく、陣営は夏場を休養に当てず、ローカル競馬に出走させた。まずは中京の中日スポーツ賞四歳ステークス(G3)に出走。後方から進んだサッカーボーイは大外から皐月賞馬
ヤエノムテキを急襲し着差こそ半馬身ながらも勝って、評価を持ち直した。続いて出走した函館記念(G3)には
メリーナイスと
シリウスシンボリの2頭のダービー馬や前年の二冠牝馬
マックスビューティなど豪華な顔触れが揃っていた。サッカーボーイはハイペースの中団に身を置き、3コーナー過ぎからスパートし、
メリーナイスに5馬身差をつけて圧勝。勝ち時計1分57秒3は当時の2000mの日本レコードで、ファンはサッカーボーイの持つ爆発的な瞬発力を再確認した。
四歳秋は天皇賞・秋を目標に調整が進められた。しかし走る馬につきものの脚部不安が生じ、目標をマイルチャンピオンシップ(G1)に変更せざるを得なかった。
第5回マイルチャンピオンシップはマイル王として君臨していた
ニッポーテイオーが引退し、主役不在の状態を呈していた。そこに三歳チャンピオンにして2000mの日本レコードホルダーのサッカーボーイが出走を表明したのだから、久々で大幅な体重増を懸念されながらも、17頭立ての1番人気に支持されたのは当然であった。道中やや後方に位置したサッカーボーイは直線で河内騎手に気合いを入れられると、ホクトヘリオスに4馬身差をつけて圧勝した。四歳馬がマイルチャンピオンシップを制したのは初めてであった。また河内騎手は当時の年間重賞最多勝の13勝を記録した。
サッカーボーイの次走は有馬記念(G1)であった。当時はマイルチャンピオンシップを終えると短距離G1はなく、適距離でなくとも有馬記念に向かわざるをえなかった。この年の有馬記念は
タマモクロス、
オグリキャップという芦毛の2頭が秋のG1戦線を賑わせていた。これに菊花賞馬
スーパークリークとサッカーボーイが人気で追随した。結果は
オグリキャップが
タマモクロスを3度目の対決にして破り悲願のG1制覇を果たした。サッカーボーイはいつにも増して入れ込んでいて、ゲートで暴れ、歯を数本折った。それでも体勢を整え後方待機から3コーナーから一気に先頭集団に取り付いた。しかしこの時点で速い脚を使ってしまって、伸びを欠き、4位に入線するのがやっとだった。しかし3位に入線した
スーパークリークが斜行で失格し3着に繰り上がった。翌年、マイルチャンピオンシップの優勝が評価されて「最優秀スプリンター」に選出された。サッカーボーイがスプリンターとは今日的視点では可笑しいが、当時は1600m以下が「スプリンター」の守備範囲というのが一般的認識であったのである。
1989年、五歳となったサッカーボーイはマイル路線に駒を進めることを決め、マイラーズカップを田原成貴騎手で始動することになっていた。しかし持病の脚部不安が再発し、ターフに姿を見せることなく引退した。
社台ファーム総帥吉田善哉氏は当初、サッカーボーイを自分の牧場に種牡馬として繋養するつもりはなかった。日本の馬を世界に通用するまでに向上させるには内国産種牡馬では駄目だと考えていたからである。これに異論を唱えたのが善哉氏の次男勝己氏であった。勝己氏の説得によりサッカーボーイは社台スタリオンステーションにて種牡馬生活を送ることになった。サッカーボーイは種牡馬として期待以上の実績を上げ、輸入種牡馬が跋扈する日本の種牡馬成績ランキングにあって、常に上位に位置した。菊花賞馬
ナリタトップロード、秋華賞馬
ティコティコタック、菊花賞、天皇賞・春、宝塚記念を制した
ヒシミラクル、東京大賞典などを勝ちダートの強豪としてドバイに遠征したキョウトシチーなどが代表産駒。母の父としても安田記念を勝った
ツルマルボーイなどを輩出している。自身が得意としたマイルから中距離よりも、中距離から長距離に活躍馬が多く、しかも自身のような鋭い末脚が武器ではなく、ジリ脚を持ち味とする産駒が多いのは面白い。手頃に設定された種付け料とあって社台ファームの繁殖牝馬よりも、日高の零細牧場の繁殖牝馬により多く交配された。2000年からはブリーダーズスタリオンステーションに移動し、2006年にはシンジケートが解散、その後は社台グループの種牡馬として社台スタリオンステーション戻った。年数頭を相手に種付けを行っていたが、2011年10月7日、現役時代から悩まされていた蹄葉炎で永眠した。
惨敗か圧勝かという極端なレースぶりだったサッカーボーイは、どこかエリート然として面白味に欠ける社台ファームの生産馬にしては珍しく個性派としてファンに愛された。後年このサッカーボーイの甥に当たる
ステイゴールドが同様に個性派として人気を得たというのも因縁めいている。美しい尾花栗毛に大流星、圧倒的な瞬発力を魅せた現役時代、自身とは正反対のタイプの産駒を送り出す種牡馬時代。社台の個性派はどこまでも個性的だ。
2006年5月20日筆
2011年10月7日加筆