[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
サニーブライアンは1994年4月23日、北海道・浦河の村下ファームにて生まれた。父ブライアンズタイムは1985年アメリカ産で21戦5勝。主な勝ち鞍としてはフロリダダービーとペガサスHがある。早田牧場が種牡馬として日本に輸入されて以来、クラシック三冠と有馬記念を制した
ナリタブライアン、菊花賞、有馬記念、宝塚記念、天皇賞・春を制した
マヤノトップガン、桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯を勝った
ファレノプシス、オークス馬の
チョウカイキャロル、
シルクプリマドンナ、有馬記念の
シルクジャスティス、ダービー馬
タニノギムレット、皐月賞馬
ノーリーズンと
ヴィクトリー、宝塚記念の
ダンツフレーム、ジャパンカップダートの
タイムパラドックス、エリザベス女王杯の
レインボーダリアを出している。重賞勝ち馬の3割近くがG1級を勝っており大一番で底力のある血統として成功した。サンデーサイレンス、トニービンとともに1990年代を支えた種牡馬で、その中でもブライアンズタイムはのちに倒産してしまう早田牧場の稼ぎ頭の種牡馬として長期間に渡って頑張り続けた。母サニースイフトは1988年生まれで現役時は26戦4勝。生まれ故郷の村下ファームに戻って繁殖馬となりその初仔がサニーブライアンである。サニースワローはその後13頭の仔を産む仔出しのよさを示した。しかしほとんどが未勝利馬で中央の重賞を勝ったのはサニーブライアンのみだった。サニースイフトの母の父は皐月賞馬
ハードバージなどを輩出したファバージ、曾祖母の
ツキカワは桜花賞馬である。
ツキカワの父は月友。アメリカで「空飛ぶ軍艦」の異名で無敵の強さを誇ったマンノウォーの産駒である。
ツキカワの母は波川、その母は星谷。星谷は下総御料牧場がアメリカから輸入した繁殖牝馬で直仔に帝室御賞典を勝った
トキノチカラがいる。母の父スイフトスワローは1977年米国産馬。ノーザンダンサーの直仔で母系は長距離系なので素軽さに乏しかったが、日本に導入されるとダービー2着のサニースワロー、京都新聞杯を勝ったレオテンザンなどを輩出した。特に地方競馬で活躍馬を送り出し、地方競馬のリーディングサイヤーとなっている。
サニースワローの鹿毛の初仔は埼玉県議会副議長などを務めた宮崎守保氏の持ち馬として「サニーブライアン」と名付けられ美浦・中尾鉄治厩舎に入厩した。馬名は「サニー」は宮崎氏の冠名で「ブライアン」は父ブライアンズタイムから由来している。ちなみに宮崎氏は浦和競馬場の近くに居住しており、かつてはその敷地に初めて牝馬でダービーを制した
ヒサトモを繋養していたという。サニーブライアンは1996年10月5日、東京の三歳新馬戦を大西直弘騎手を鞍上に初出走した。大西騎手はサニーブライアンの全てのレースに騎乗することになる。3番人気に支持され逃げ切り勝ちを収めた。その後特別戦を5着、7着、5着と足踏みし三歳戦を終えた。中尾師はサニーブライアンを見事に新馬戦を勝ったのを見て、クラシックを意識し、その後長距離戦を中心に使った。結果が伴わなかったのは、当時のサニーブライアンは体質が弱く、競走前に下痢を催していたからである。下痢が体力を奪うのは馬も人間も同じだ。
1997年四歳となったサニーブライアンは中山の若竹賞2着のあと、ジュニアカップに勝ちオープン馬となった。さらに弥生賞でランニングゲイルの3着に入り、皐月賞の優先出走権を確保した。この頃になるとサニーブライアンの下痢癖は治まっていた。しかし飼い葉の食いが非常によくなり、調教で馬体を絞ることができなかったサニーブライアンは中2週で若葉ステークスに出走。生涯最初で最後の1番人気に支持された。結果は単騎逃げに持ち込めずシルクライトニングの4着に敗れた。
第57回皐月賞は晴・良馬場の中山競馬場で開催された。この年は前年吹き荒れたサンデーサイレンス産駒が不振で、出馬表には内国産種牡馬の懐かしい名前が散見できた。共同通信杯を勝ちスプリングSを2着した
メジロライアン産駒の
メジロブライトが1番人気。弥生賞を勝ったランニングフリー産駒のランニングゲイルが2番人気に支持された。サニーブライアンは前走の結果と反動を懸念されて11番人気であった。しかも逃げ馬には不利とされる大外の18番枠であった。けれども鞍上の大西騎手はかえってその方がいいと考えていた。なぜならサニーブライアンは逃げ馬なのにスタートが悪い。内枠だと隣の馬に先手を取られると挟まれて下がらざるを得ない。その点大外枠なら外から被せるように無理なく先頭に立てる。レースはほぼ大西騎手の思惑通りに進んだ。大外枠からゆっくりとスタートすると、前半は折り合っていないテイエムキングオーに先頭を譲り、3コーナーで先頭に出た。そして直線に入っても逃げ足が衰えず、シルクライトニング、
メジロブライト追い込みを振り切って先頭でゴールを駆け抜けた。大西直弘騎手は技量は評価されていたものの、騎乗数が極端に少なく、この皐月賞がこの年の2勝目で、しかもそれはいずれもサニーブライアンの騎乗によるものだった。大西騎手だけでなく中尾調教師師、馬主の宮崎氏も初めて味わうG1の美酒だった。ところがこのサニーブライアンの勝利は有力馬が後方で牽制しあい、勝負所で不利を受けた幸運によるものとの声が多く、その強さを讃える論調にはなかった。
第64回日本ダービーは晴・良馬場の東京競馬場で開催された。中尾師は太りやすい体質のサニーブライアンをすでにダービー出走権を得ているにも関わらず、ダービートライアルのプリンシパルステークスに使うつもりだった。しかし空馬に蹴られて外傷を負ったため直行することになった。しかしこれが結果的にサニーブライアンの気配を一変させた。サニーブライアンは6番人気と皐月賞馬にしては低評価だった。1番人気は
メジロブライト、2番人気は
シルクジャスティスだった。サニーブライアンは皐月賞と同じく大外18番枠だった。サニーブライアンの性格をよく知る大西騎手は心の中で勝利を確信し、皐月賞と同様の逃げ宣言を繰り返した。この逃げ宣言で腰を引いたのがプリンシパルステークスで逃げ切ってダービー出走権を得た
サイレンススズカだった。翌年
サイレンススズカは希代の逃げ馬と称せられるが、まだ本格化前とはいえ、このダービーで逃げていればどうなっていたか興味深い。大外枠から好スタートを切ったサニーブライアンは競りかける馬もなく難なく先頭に立つと、他馬を誘導するように第1コーナーを回った。
メジロブライトと
シルクジャスティスは後方に控えた。ダービーは皐月賞よりも距離が400m長く、最後の直線も200mも長い。平場では意外と逃げが決まりやすいが、多頭数となりハイペースになりがちなダービーは逃げ切りは至難の業だ。しかしサニーブライアンの逃げは4コーナーを回り、直線を向いても衰えなかった、
シルクジャスティス、
メジロブライトがいい脚で追い上げてきたが、大西騎手のムチに応えてサニーブライアンは粘った。
シルクジャスティスを1馬身後方に置いてゴールに飛び込んだ。大西騎手はダービーよりも皐月賞の方が直線が長く感じたという。つまりそれだけダービーには自信があったということだろう。馬主の宮崎氏はこの年サニーブライアンただ1頭しか所有馬はなく、その馬が二冠を獲得するという幸運ぶりだった。大西騎手はゴール後立ち上がり左手を上げて喜びを表した。その時サニーブライアンは不安定な鞍上に呼応して右左に跛行する動きを見せた。
サニーブライアンはダービー後に骨折が判明。全治6ヶ月という重症で菊花賞は諦めざるを得なかった。やはりダービーのレース中にその兆候があったのだろう。
五歳となった1998年、陣営は復帰への意欲を見せたが、屈腱炎を発症してしまい、結局競走生活を引退することになった。1998年CBスタッドで種牡馬となったサニーブライアンは初年度産駒も勝ち上がり率も高く、上々のスタートを切った。しかし天才種牡馬サンデーサイレンスには敵わず、カゼニフカレテが愛知杯、グランリーオが中日新聞杯の2頭が重賞に勝つにとどまった。地方競馬ではそこそこ活躍馬を出した。その後早田牧場の倒産の影響でアロースタッドに移動し、2007年には種牡馬を引退した。引退後はうらかわビレッジAERUで功労馬として余生を過ごした。2011年3月3日、疝痛で永眠。享年17歳だった。
サニーブライアンは人気薄で逃げて二冠、そしてダービーで競走生活を終えたという点で
カツトップエースと共通性を感じる。違いがあるとすれば、サニーブライアンの方が若干産駒成績上回ることと、同期生に強い馬がいることだ。すなわち
カツトップエースの同期生で大レースを勝ったのは
メジロティターンのみなのに対して、サニーブライアンはダービーで一蹴したシルクジャスティティスがその後有馬記念、
メジロブライトが天皇賞・春、
サイレンススズカが宝塚記念を勝っていることだ。これら3頭は四歳秋以降になってから本格化している。サニーブライアンには同じように逃げて春二冠を達成した
カブラヤオーや
ミホノブルボンのような特別な才能は感じられなかった。しかしその年の菊花賞を勝った
マチカネフクキタルとの比較では接近した評価となろう。だからサニーブライアンが本当に強い馬だったのかはわからずじまいになってしまった。けれどもサニーブライアンが春二冠を達成した事実は動かない。サニーブライアンはそのことを誇りに思いながら余生を過ごしたのではないか。
2023年2月5日筆