[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
スズパレードは1981年3月21日門別の柏台牧場にて生まれた。父ソルティンゴはイタリア産のイタリア大賞、ミラノ大賞を勝ちイタリアダービーに2着など15戦5勝。ヨーロッパでは中堅の評価の馬で、現役中に社台ファーム総帥吉田善哉氏が購入し、そのまま社台ファームに種牡馬として供用された。しかし供用初年度の種付けが終わったある日、担当厩務員が誤って別の種牡馬のいる放牧地にソルティンゴを放してしまい、気性の荒いその馬が闖入したソルティンゴを蹴飛ばしてしまった。その結果、種牡馬にとって大事な生殖機能を失ってしまった。担当厩務員は責任を感じて数日後に自殺し、失意のソルティンゴも2年後に死亡した。結局ソルティンゴは一世代の42頭しか産駒を残せなかった。しかしその世代からスズパレードの他ラッシュアンドゴー、イブキラーゼンの3頭のダービー出走馬を得たのだから、早世が惜しまれた。母スズボタンは現役時19戦4勝。その父ロムルスは16戦全勝の名馬リボーを父とするイギリス産馬。サセックスS、ムーラン・ド・ロンシャン賞勝ちなどの実績で1970年に日本に輸入された。活躍馬としてはNHK杯を勝ったランドジャガーらがいる。スズボタンの曾祖母エベレストは明治時代に小岩井農場が輸入した基礎繁殖牝馬の一頭アストニシメントの子孫。このアストニシメントの子孫には非常に多くの活躍馬がいるが、筆頭格が殿堂入りした
クリフジと
メジロマックイーンだ。エベレストの産駒
チトセホープは桜花賞2着、オークス1着後、連闘でダービーに挑み、見せ場十分の3着に健闘している。近親にはオークス2着のエドヒメ、アルゼンチンJCCや七夕賞を勝ったマツセダン、そして後述する同い年のスズマッハなどがいる。
1983年、三歳となったその鹿毛馬は「スズ」の冠名で知られる小柴芳夫氏の持ち馬として、スズパレードと名付けられ美浦・富田六郎厩舎に入厩した。同年11月東京の新馬戦で菅野騎手を鞍上に初出走した。ここは3番人気で3着だったが、折り返しの新馬戦で勝ち上がったその後、中山の条件戦とオープン特別を連勝して三歳戦を終えた。
1984年四歳となったスズパレードは共同通信杯(G3)に出走し、ビゼンニシキの4着に敗れた。続く弥生賞も田村正光騎手に手替わりしたものの
シンボリルドルフの4着と連敗した。この年の春のクラシックは
シンボリルドルフとビゼンニシキの力量が抜きん出ていて、他の馬がつけいる隙はなかった。スズパレードは皐月賞、ダービーがともに4着となったのは致し方なかっただろう。なおこのダービーではスズパレードの従兄弟にあたるスズマッハが
シンボリルドルフの2着に頑張っている。
ダービーを終えたスズパレードは菊花賞を諦め中距離路線を歩むことになった。まずは福島の「残念ダービー」といわれるラジオたんぱ賞(G3)でルーミナルレイサー以下を下して初重賞勝ち。秋になり
セントライト記念はこのあと無敗の三冠馬となる
シンボリルドルフの6着に敗れたものの、オープン特別の福島民友カップ、福島記念(G3)と連勝し重賞2勝目を得た。小回りの2000m以内ならどうやら活躍しそうな手応えを得て四歳を終えた。
1985年五歳となったスズパレードは正月中山の金杯(G3)をレコード勝ちし、幸先のいいスタートを切った。しかしその後脚部不安が生じ、復帰は天皇賞・秋となった。このレースは圧倒的人気の
シンボリルドルフが
ギャロップダイナの出し抜けを食らう衝撃的なレースだった。その後手綱を取り続けた蛯沢誠二騎手を背に挑んだスズパレードは、
ギャロップダイナの遥か後方の15着といいところがなく、同期生の
シンボリルドルフには現役中その影も踏めなかった。その後12月中山のダービー卿チャレンジトロフィー(G3)に出走。59キロを背負いながら、スズパレードにとっては相手も距離も適鞍で
サクラユタカオー以下を完封した。
1986年六歳となったスズパレードはまたしても脚部不安が生じ、復帰は10月の毎日王冠(G2)となった。本格化した
サクラユタカオーの日本レコード駆けに遭い6着に沈んだ。しかし強敵のいないダービー卿チャレンジトロフィー(G3)は60キロを背負いながら完勝。同レースの連覇を達成した。勢いに乗って出走した強敵のだらけの有馬記念は
ダイナガリバーの8着と、この時点のスズパレードの実力が反映された結果となった。
1987年七歳となったスズパレードは1月の中山のアメリカJCC(G2)から始動し、当時現役最強馬の
ミホシンザンの2着に頑張った。続く中山記念(G2)は前年の天皇賞・春を制した
クシロキングに完勝。これで通算10勝目。手強い相手でも結果が出るようになり、関係者は手応えを掴みつつあった。しかし続く安田記念は
ニッポーテイオーに続く2番人気で単枠指定を受けながら
フレッシュボイスの7着と敗れた。
第28回宝塚記念は晴・良馬場の阪神競馬場で開催された。1番人気は天皇賞・春で
ミホシンザンに先着しながら斜行で失格となったニシノライデン、2番人気は安田記念で圧倒的人気に支持されながら
フレッシュボイスの2着に敗れた
ニッポーテイオーだった。このレースはこの2頭の雪辱戦と見られていた。しかしこの宝塚記念は2200m。2400m以上を得意とするニシノライデン、2000m以下を得意とする
ニッポーテイオーにとっては得意とはいえない距離というところに、他馬のつけいる隙があった。スズパレードは3番人気でそれなりに評価されていた。レースは田原騎手のニシノライデンと郷原騎手の
ニッポーテイオーが互いが互いを意識した展開となった。先行する
ニッポーテイオーにニシノライデンが迫り、なお
ニッポーテイオーが粘っていた。その2頭の競り合いを外からあっさり抜き去ったのが蛯沢誠二騎乗のスズパレードであった。ニシノライデンでの追撃をハナの差凌いだ
ニッポーテイオーの2馬身先にはスズパレードがゴールを駆け抜けていた。関東の中堅騎手として活躍していた蛯沢誠二騎手にとっては初めての、そして結果的に最後のGI勝利となった。その後、スズパレードはまたしても脚部不安が生じ、長く休養することになった。
1988年七歳となったスズパレードは中山競馬場改装工事のため新潟代替開催となったオールカマー(G3)に出走した。1年3ヶ月ぶりの出走にもかかわらず1番人気に推され、レコード勝ちを収めた。これで通算12勝、このうち重賞8勝は立派な記録といえる。その後ジャパンカップと有馬記念に出走し、10着、8着と敗れた。しかし
タマモクロス、
オグリキャップといったスターホースと一緒に走れただけでも満足している様子であった。
翌年、引退したスズパレードはイーストスタッドで種牡馬として供用された。中央で活躍する産駒に恵まれず、早世したソルティンゴの子孫を残す重大な使命は果たされることなく終わった。2000年に種牡馬を引退し、スズマッハとともにイーストスタッドで功労馬として過ごした。2008年2月24日、老衰にて永眠した。
スズパレードの世代は
シンボリルドルフが圧倒的に強かったので、ルドルフ以外の牡馬でGI勝ちを収めたのはスズパレードだけであった。ソルティンゴの数少ない産駒として生まれ、ルドルフ世代の意地を見せ、蛯沢騎手に唯一のGI勲章をもたらした。自身は八歳まで活躍したものの、脚部不安で長期休養を何度も余儀なくされた。しかしその度に立ち直り、最後に一瞬の隙をついてGI勝ちを収めた。GIを含む通算10勝できる馬はそれほど多くはない。スズパレードは丈夫とはいえない身体で、強敵に揉まれながら鍛えた精神力で、数少ない機会をものにした真摯なサラブレッドといえる。
2022年4月14日筆