[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
シンボリクリスエスは1999年1月アメリカのシンボリ牧場にて生まれた。日本の馬は気候の関係でだいたいは3月から5月に生まれるのが普通であるのに、1月生まれとは早いが、欧米では珍しいことではない。生産者のTakahiro Wadaとあるのは和田孝弘氏のことで、
シンボリルドルフ、
スピードシンボリなど歴史に残る名馬を生産したシンボリ牧場の総帥和田共弘氏の長男である。欧米では生産者Breederとは牧場の名前とは限らず、その母馬の所有者を記すことが多い。父Kris S.(クリスエス)は1977年アメリカ産で現役時5戦3勝。ブラッドベリーSという下級重賞を勝っただけで、種牡馬になってからも低評価に甘んじていたが、晩年になって成績を上げ、1993年に北米リーディングサイヤーに輝いた。主な産駒としてはブリーダーズカップターフとサンルイレイSに勝ったプライズドなどがいる。産駒は特にブリーダーズカップに好成績を収めている。クリスエスの父はRoberto(ロベルト)でその仔にはリアルシャダイ、ブライアンズタイムなど日本でもおなじみの種牡馬がいる。さらにロベルトの父Hail to ReasonはHalo(ヘイロー)を通じてサンデーサイレンスを輩出している。つまり父方の血筋だけみれば、クリスエスとサンデーサイレンスは従兄弟でブライアンズタイムは兄弟ということになる。日本に輸入された産駒としてはアルゼンチン共和国杯に勝ったマチカネアレグロがいる。母Tee Kayは1991年アメリカ産で現役時31戦6勝。マーサワシントンHという芝のG3に勝っているだけの平凡な成績。母系を辿ってもその兄弟に競走馬として大成功した馬はおらず、母の父Gold Meridianは日本において調査するのは困難なほど無名馬である。この二流馬の域を出ないTee Kayは和田氏によってアメリカのセリにおいて3500万円で購入され、シンボリクリスエスは彼女の2番仔である。シンボリクリスエスは漆黒に近い黒鹿毛で大きな馬で、温順そうな性格ではあったが、それほど目立った存在ではなかった。彼を管理することになる藤沢調教師も最初に見た時には平凡な印象であった。
日本に渡り、美浦の藤沢厩舎に所属したシンボリクリスエスは2001年10月、東京の2歳新馬戦でデビューした。藤沢厩舎の主戦ともいうべき岡部騎手を鞍上に楽勝、540キロの馬体は1番人気に応えた。その後は肩に少々不安が生じて2歳G1の朝日杯には使わずに年を越した。
3歳のシンボリクリスエスは1月にセントポーリア賞、2月にゆりかもめ賞、3月の条件戦2着、3着、3着と足踏み。しかし藤沢師は順調に調教をこなすシンボリクリスエスに焦りを感じていなかった。皐月賞の前週4月の山吹賞でようやく2勝目をあげた。シンボリクリスエスは外国産馬なので指定オープンに勝たないとダービーに出走できない。その指定オープンである青葉賞を武豊が騎乗して勝ち、出走権を手に入れた。ダービーは武豊騎乗の
タニノギムレット、皐月賞馬
ノーリーズンに次ぐ3番人気。デビュー以来最低の520キロまで絞り込んでの出走であった。シンボリクリスエスと岡部幸雄は直線早めに先頭に立って逃げ込みをはかるが
タニノギムレットの末脚に屈して2着に敗れた。
3歳秋は神戸新聞杯から始動。これに快勝したが、せっかく西下したというのに3歳限定の菊花賞ではなく、古馬との混合戦である天皇賞・秋に挑戦することが発表された。スピード競馬全盛の現在、藤沢師は3000mの菊花賞に勝つよりも、古馬相手という不利はあるものの2000mの天皇賞に勝った方が、種牡馬となったときの価値を高めると判断したのである。第126回天皇賞は東京競馬場改修工事のため36年ぶりに中山競馬場で開催された。1番人気は札幌記念を勝った牝馬
テイエムオーシャン。2番人気は京都大賞典を勝った
ナリタトップロード。この両馬は前哨戦の勝ち馬というだけでなく、
テイエムオーシャンは桜花賞と秋華賞に勝ち、
ナリタトップロードは菊花賞馬という実績馬であり、これら歴戦の2頭に対して3歳馬でしかもG1馬でもないシンボリクリスエスが3番人気だったのは仕方のないところであった。シンボリクリスエスと岡部騎手はスタートから無理をさせず中団につけた。そして3コーナーから徐々に進出。直線に向くと
テイエムオーシャンが失速。シンボリクリスエスはなかなか馬群を割れない。しかしこじ開けてからが早かった。あと100mで先頭に立つと
ナリタトップロードの猛追撃を3/4馬身振り切ってゴールインした。あと4日で54歳の誕生日を迎える岡部騎手は史上最高齢での天皇賞優勝となった。3歳馬の天皇賞制覇は藤沢師が管理していた
バブルガムフェロー以来6年ぶりであった。
続くジャパンカップは中山2200mで行われた。天皇賞で古馬の壁を突破したシンボリクリスエスは1番人気に支持された。このジャパンカップから岡部騎手からオリビエ・ペリエ騎手に乗り代わった。これは翌年の海外遠征を視野に入れてのことだったのだろう。しかしスタートでよもやの出遅れ。直線よく追い込んだもののイタリアの
ファルブラヴの3着に敗れた。
第47回有馬記念はエリザベス女王杯を無敗で制した3歳牝馬
ファインモーションが1番人気に支持された。シンボリクリスエスは2番人気だった。同じ古馬の壁を突破してきた両馬であったが、牡馬と牝馬、そして気性面で大きな差があった。スタートから行きたがる
ファインモーションが折り合いを欠いて5着に沈んだのに対して、シンボリクリスエスは十分な手応えから逃げる
タップダンスシチーを差しきった。藤沢調教師とペリエ騎手にとって有馬記念は初制覇となった。3歳馬にして古馬混合G1を2勝したことが評価されて年度代表馬に選ばれた。
4歳となったシンボリクリスエスは放牧後、5月を過ぎて厩舎に戻り順調に調教を積まれた。予定されていた海外遠征は中止され有馬記念を最後に引退することが発表された。シンボリクリスエスの宝塚記念から始動することになった。古馬の目標である春の天皇賞に出走を見送ったのは菊花賞と同様の理由である。この年の宝塚記念は史上最高の豪華メンバーで争われた。すなわち前年の覇者
ダンツフレーム、香港を含むG1級競走6勝の
アグネスデジタル、ジャパンカップダートを勝った
イーグルカフェ、人気薄ながらも菊花賞と天皇賞を制した
ヒシミラクル。これだけでも十分なのだが、何といってもこの年の皐月賞、ダービーの二冠を制した
ネオユニヴァースが出走を表明したことが、競馬ファンの興味をかき立てた。宝塚記念は3歳馬に開放されて久しいが超一流馬の参戦は過去になかったからである。その他重賞の常連が集結したメンバーにあっても、有馬記念以来でありながらシンボリクリスエスは1番人気に支持された。故障で休養していたのではない、調教も十分積んでいる、グランプリ馬として恥ずかしくないレースをするはず、と陣営は自信を持っていた。しかしその年の天皇賞馬でありながら全くの人気薄だった
ヒシミラクルのロングスパートに屈し、シンボリクリスエスは直線で失速、
ネオユニヴァースにも先着を許す5着に敗れた。辛うじて着順掲示板には載ったものの生涯唯一の4着以下となった。体制を立て直すべく陣営は出走を匂わせていた札幌記念を回避して、天皇賞・秋に直行することになった。
第124回天皇賞・秋は改装なった東京競馬場で行われた。晴天、良馬場、フルゲート18頭。戦場は申し分なかった。ただ役者に多少の問題があった。天皇賞は最大4頭しか外国産馬が出走できない。シンボリクリスエスは獲得賞金から問題なかったが、出走意志を表明していた
アグネスデジタル、
イーグルカフェ、
エイシンプレストンの出走権争いが激しかった。結局、
ファインモーションと
タップダンスシチーが出走回避したので、前述の3頭は出走することができた。これら外国産馬に比べ内国産馬はその筆頭格の
ヒシミラクルが故障発生してしまい、数は揃えたものの、その質の低下は否めなかった。シンボリクリスエスは18番の大外枠であった。東京コースの2000mは外枠不利は定説であった。しかし改装後は2コーナーまでは直線で走れるようになり、多少外枠の不利は軽減されるようになった。シンボリクリスエスは1番人気であった。前年の覇者であるとともに、他の外国産馬は底力は認めるものの高齢馬ばかりで上積みを望めなかったからである。2番人気は海外遠征帰りのローエングリーンであった。レースはそのローエングリーンとゴースタディが競り合うように先行争いを演じ、1000mの通過タイムが56.9秒という超ハイペースになった。シンボリクリスエスはそんな乱ペースにも動じず、中団で構えると、直線に入ると一気に抜け出して、最後方から追い上げた
ツルマルボーイ以下を一蹴した。勝ち時計は1分58秒0の新装レコードであった。天皇賞・秋を連覇したのは史上初めてであった。
続くジャパンカップは当然のように1番人気に支持された。530キロを優に越える馬体を誇るシンボリクリスエスにとって、力で押し切れる雨の降る重馬場は問題とはならないだろうとファンは考えていた。しかし最内枠から軽快に逃げる
タップダンスシチーは捕まるどころか、直線では後続馬を引き離し、2着馬に9馬身差をつける圧勝であった。シンボリクリスエスは2着の菊花賞馬
ザッツザプレンティに迫る3着に入線するのが精一杯だった。シンボリクリスエスは有馬記念を引退レースと決めていた。ジャパンカップは勝ち馬の展開にはまって取りこぼしただけ、現役最強馬はシンボリクリスエスだ、との認識で藤沢師は強めの調教を施して有馬記念に向かわせた。
この年の第48回有馬記念は地方競馬との日程の調整ができて12月28日というもっとも遅い開催となった。二冠馬
ネオユニヴァース、牝馬三冠馬
スティルインラブが姿を見せず、12頭立てとやや寂しい顔ぶれの有馬記念であった。シンボリクリスエスはファン投票1位、そして1番人気に支持された。結果は大方の予想を上回る強い勝ち方だった。道中は中団につけ、直線入り口で先頭に並びかけた。ペリエ騎手のステッキに促されると、2着リンカーンにつけた着差は実に9馬身。これは第12回の
カブトシローがリユウフアーロスにつけた6馬身を大きく上回る着差である。勝ち時計の2分30秒5はレコードであった。実力馬が勢揃いする有馬記念でこれほどの着差をつけるには余程に図抜けた実力を持っていなければ不可能である。有馬記念当日の最終レースが終わったあと、夕闇迫る中山競馬場で引退式が行われた。天皇賞と有馬記念が強い勝ち方だったので、三冠牝馬
スティルインラブに大差をつけてシンボリクリスエスは2年連続で年度代表馬に選出された。
シンボリクリスエスは社台スタリオンセンターにて種牡馬生活を送ることになった。社台ファームの総帥吉田照哉氏は元来、大きな身体つきの種牡馬は産駒に脚部不安をもつことが多いということで、導入に慎重であった。しかし吉田氏は大きな馬体にもかかわらず、脚部の故障に悩ませたことがない頑健さを高く評価し、故サンデーサイレンスの後継種牡馬として導入を決意した。
サクセスブロッケンがフェブラリーSを、
ルヴァンスレーヴがチャンピオンズCとダートGIを制した。このあたりはアメリカ産馬なので驚きはないが、史上初めて日米のオークスに勝った
シーザリオと掛けた
エピファネイアが菊花賞とジャパンカップに勝ち、その後種牡馬入りすると三冠牝馬
デアリングタクト、皐月賞、天皇賞・秋、有馬記念を同じ年に制した
エフフォーリアといった超大物を輩出し、今や社台スタリオンセンターのエースとなっている。母の父としてはダービー馬
レイデオロ、障害GIを8勝したオジュウチョウサンなどがいる。2019年に種牡馬を引退後は、千葉のシンボリ牧場で余生を過ごし、2020年9月8日に永眠。享年21歳。死因は蹄葉炎だった。
シンボリクリスエスが直線を加速する様は、まるでベンツのような高級な大排気量車がアウトバーンを疾走する、そんな安定感ある走りを思わせた。しかし血統に見所のない外国産馬でどこかエリート然として、得意な距離ばかり走って面白味に欠き、馬券では信頼されたものの、いまひとつファンの人気の薄い馬だった。
2004年3月7日筆
2022年4月5日加筆