[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
タイキシャトルは1994年アメリカのタイキファームにて生まれた。「タイキ」という名前で分かるように、この牧場のオーナーは日本人である。岡山でホテルを経営する赤沢芳樹氏がオーナーで、競走馬の育成に関してはアイルランドの専門家が担当している。赤沢氏は閉鎖的な日本の馬産界を飛び越えて、アメリカで生産、アイルランドで育成、そして日本で調教及び競走というシステムを考え出したのである。タイキシャトルは外国産馬ではあるが、生まれた背景にはこういう事情があることを記しておきたい。父デビルズバッグはサンデーサイレンスと並ぶヘイローの代表産駒。現役時代は典型的な早熟馬で、四歳になるとまったくいいとことがなく早々と種牡馬に転向。しかし成績は今ひとつで低評価に甘んじていた。母ウエルシュマフィンはカーリアン産駒のアメリカ産馬で、現役時にアイルランドとアメリカで15戦5勝。この馬にはタイキシャトルの主戦となる岡部騎手も乗ったことがあり、気難しい馬が多いカーリアン産駒にしては素直な気性を持った馬だったという。
オーナーブリーダーたる大樹ファームの持ち馬として、美浦の藤沢厩舎に入厩したタイキシャトルは四歳となった1997年4月東京のダート未勝利戦でひっそりとデビューした。もうこのころには外国産四歳馬の目標であるNHKマイルカップには間に合わず、誰も注目しないのは当然であった。しかし栗毛の雄大な馬体は1番人気に支持され岡部騎手を鞍上に完勝した。続く京都ダート条件戦、はじめての芝となった東京の菖蒲Sを順当勝ち。しかし阪神へ遠征した菩提樹Sはテンザンストームの逃げきりを許しクビの差2着に敗れた。秋初戦は東京のダート重賞ユニコーンS。重賞初挑戦となったが問題なく完勝した。続いて京都のスワンSも勝ってマイルチャンピオンシップの有力馬として名乗りをあげた。しかしスワンSが土曜日のレースということもあり、またこれまで裏街道を使われていたこともあって、これだけの戦績を持ちながら、タイキシャトルの真価をほとんどのファンは理解していなかった。
1997年マイルチャンピオンシップでいよいよタイキシャトルの大器の片鱗が世に示されることになった。1番人気は四歳馬の身で安田記念3着したスピードワールド。横山典弘鞍上のタイキシャトルは2番人気であった。レースは桜花賞馬
キョウエイマーチの超ハイペースの逃げで幕が開けた。タイキシャトルは先行集団につける。
キョウエイマーチが必死で逃げ粘るのをあざ笑うかのように、別格の脚色で
キョウエイマーチを捕らえて2馬身半差をつけて優勝した。ファンにとっては「突然」に現れた馬であったが、この勝利で世界を制するのは「必然」と思ってしまうほどのタイキシャトルのレースぶりであった。続くスプリンターズステークスでも当然の1番人気に支持され完勝。同一年にマイルチャンピオンシップとスプリンターズステークスを連覇した馬は初めてであった。
五歳となったタイキシャトルにははっきりと海外遠征プランが描かれた。安田記念からフランス遠征、さらにブリーダーズカップ挑戦というプランである。日本の競馬史上、
ハクチカラ以来途絶えたままの海外大レース制覇が「かなり高い確率で」達成するのではないかと、ファンは心躍らせた。緒戦の京王杯SCをあっさりレコード勝ちし、遠征前の壮行レースとして安田記念に出走した。近年にない不良馬場となったが、直線力強く抜け出しオリエントエクスプレス以下に2馬身半差をつけて優勝した。
雄躍フランスに遠征したタイキシャトルが待っていたのは、ふたつの重圧であった。ひとつは出走するジャックルマロワ賞の1週前に行われたモーリスドギース賞で日本から遠征した牝馬
シーキングザパールが優勝し、日本調教馬による欧州G1初制覇という記録を奪われたことである。ちなみにタイキシャトルは安田記念で
シーキングザパールを一蹴している。もうひとつは日本からやってきたファンが「タイキ確勝」を信じてタイキシャトルを単勝1番人気に押し上げてしまったことである。藤沢調教師及び岡部騎手には余計な重圧であったが、タイキシャトルは初めて経験する1600m直線コースを力走し、アマングマンを半馬身競り落し、見事フランスの権威あるマイル競走を制した。
帰国後、検疫の問題でブリーダーズカップをあきらめたタイキシャトルはマイルチャンピオンシップ連覇を目指すことになった。もちろん1番人気に支持されたが、過去海外遠征馬の帰国緒戦は敗北を喫していたというデータには多少の不安を感じていた。しかしタイキシャトルの強さは人々の予想を遥かに上回るものでビッグサンデー以下に5馬身差をつける圧勝であった。藤沢師はここで引退させるつもりであったが、JRAの要請や馬自身も好調を持続していたことから、スプリンターズステークスにも出走することになった。藤沢師から当日の最終レース終了後に引退式を行うというプランが発表されたときにはファン及び競馬サークル内で物議をかもした。師はただ馬の負担を減らすために考えたことだが、他の陣営では「傲慢」と受け止める向きもあって、余計な刺激であったことは事実であろう。レース当日のタイキシャトルは黄金色に輝き、勝利を疑う余地なしと考えたファンは単勝支持率68.6%の圧倒的1番人気に祭り上げた。しかし鞍上の岡部騎手は何故かタイキシャトルの闘志が衰えているような気がしていて漠然とした不安の中でのスタートとなった。タイキシャトルはいつものように好位につけ、直線で抜け出しを計る。「さあ独壇場か」と思わせたのは束の間、馬の行く気にまかせて末脚を伸ばした
マイネルラヴの出しぬけを食った。必死に食い下がるタイキシャトルであったが、捨て身の後方待機をしていた
シーキングザパールにも差し込まれ3着に敗れたのである。この敗戦を信じることのできないファンの目の前で行われた最終レース後の引退式はどこまでも異様な雰囲気であった。
引退したタイキシャトルは翌年から静内アロースタッドとイーストスタッドを隔年で移動するその名の通りの「シャトル種牡馬」として繋養された。初年度産駒から2003年NHKマイルCを制した
ウインクリューガー、次年度産駒から2005年フェブラリーSを制した
メイショウボーラーを輩出し、海外大レースを勝つような超大物は残せなかったが順調な種牡馬生活を送った。母の父としてはヴィクトリアマイル2回とスプリンターズステークスに勝った
ストレイトガール、ダービー馬
ワンアンドオンリー、桜花賞馬
レーヌミノルなどを輩出している。2017年に種牡馬を引退し、北海道日高町のヴェルサイユファームに移動、さらに2021年に新冠町のノーザンレイクへと移動した。
突然ファンの目の前に現れ、海外重賞制覇という偉業を成し遂げたタイキシャトルは日本競馬史上に残る全く新しいタイプの名馬といえる。この勝利は単なる勝利ではなく、日本調教馬でも欧州の大レースで勝つことができると、関係者に自信を植えつけた点でも評価しなければならない。惜しむらくは外国産馬であるために日本人のシンパシィをあまり得られることがなく爆発的な人気が得られなかったことだろう。マイル以下の距離しか走らなかったタイキシャトルは正真正銘の名馬としては上位十傑に入らないかもしれない。しかし過去最強のマイラーということでは文句なく1位に位置するものであろう。その強さは万人が認めるところで、引退した翌年の1月早々と顕彰馬に選ばれている。
2001年11月3日筆
2006年7月23日加筆
2022年4月6日加筆