[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
テンポイントは1973年北海道吉田牧場にて生まれた。父コントライトはアメリカ産でイギリスダービー馬ネヴァーセイダイの産駒。72年日本に種牡馬として輸入された。テンポイントは初年度産駒である。祖母クモワカは桜花賞2着他11勝をあげる活躍を見せたが、五歳6月伝染性貧血症と診断され安楽死されるはずであった。この診断に疑いを抱いていた関係者は密かにクモワカを隠し、5年後に裁判で無実と判定された。そしてクモワカは繁殖名「丘高」として血統書に再登録、吉田牧場の至宝カバーラップ2世を父に生まれたのがテンポイントの母となる
ワカクモであった。
ワカクモは桜花賞を勝って母の雪辱を果たすとともに母と同じ11勝をあげた。
京都の高田久成氏の持ち馬として、栗東の小川佐助厩舎に入厩したテンポイントは、8月の函館でデビュー。1番人気で迎えられた新馬戦を10馬身差で圧勝。次の京都のもみじ賞は9馬身差。そして阪神三歳ステークスは7馬身差でぶっちぎり、クラシック戦線において劣勢が続いていた関西ファンに期待を抱かせた。
四歳になったテンポイントは早々と東上。東京四歳ステークスは京成杯を勝った
クライムカイザー、スプリングSはメジロサガミをそれぞれ下して連勝した。しかしその着差はそれぞれ1/2馬身、クビで勝ちタイムもそのころ裏街道で快進撃を続けていた
トウショウボーイのそれを下回り不安を抱かせた。皐月賞でその
トウショウボーイと無敗対決。しかし厩務員ストの影響で1週順延され調教過程に狂いが生じたとはいえ、
トウショウボーイに5馬身差の2着に完敗。次のダービーは競走中に落鉄した上に骨折事故もあって
クライムカイザーの7着に敗れた。
秋になり関係者は懸命に体制を立て直した。まだ調整段階であったが京都大賞典に出走。ここを古馬相手に3着に健闘。菊花賞の1番人気はトライアルを好時計で連勝した
トウショウボーイ。テンポイントは直線でついに
トウショウボーイを捕らえた。しかし内からまったくの人気薄
グリーングラスに差され2着に終わった。続く有馬記念は並みいる古馬に先着したものの、またも
トウショウボーイの2着に敗れた。
五歳となったテンポイントは京都記念、鳴尾記念を連勝。1番人気で迎えられた天皇賞は、宿敵
トウショウボーイが出走していなかったものの、クラウンピラード以下に快勝。念願のビッグタイトルを獲得した。次の宝塚記念には
トウショウボーイが出走してきた。順調さからテンポイントが1番人気に支持されたが、久々でも
トウショウボーイは強かった。持ち前のスピードで逃げる
トウショウボーイを捕らえることができず2着に敗れた。
五歳秋は京都大賞典から始動。63キロを背負いながら2着以下に実に8馬身差の圧勝。続く東京のオープン1800mでも完勝。もはやこの栗毛四白流星の貴公子はサラブレッドとして完成したかに思われた。そして完調で挑んだ有馬記念は1番人気で迎えられた。テンポイントにとってはこのレースで引退を表明していた宿敵
トウショウボーイに雪辱する最後の機会であった。出走馬はこの2頭の威光を恐れてわずか8頭。しかし実際のレースはこの2頭のマッチレースと言ってよかった。抜きつ抜かれつで先行争いするテンポイントと
トウショウボーイ。他の6頭はこの2頭の影すら踏めず、わずかに彼らの宿敵
グリーングラスのみが追いすがってきたに過ぎなかった。勝負は気力と体調の差でテンポイントが先着したが、
トウショウボーイの粘りにも惜しみない拍手が贈られた。日本競馬史上に残る名勝負であった。
明けて六歳、日本最強馬の称号を得たテンポイントはイギリスへの海外遠征を敢行することになった。壮行レースとして選んだ京都の日経新春杯。快調に逃げたテンポイントだが、粉雪の降る寒さに66.5キロの酷量が堪えたのか、4コーナー手前で骨折による競走中止。膝から下から骨が見え鮮血が噴き出していた。普通の馬なら安楽死するしかない重傷なのだが、高田オーナーはじめ関係者の願いで、その生命力に賭けることになった。翌日2時間の大手術を行い闘病生活が始まった。しかしその後恐れていた蹄葉炎を発症し、事故より42日目の3月5日午前8時40分永眠。次の日スポーツ各紙は一斉にテンポイント(3ミリ活字)とは比較ならない大きな文字でこれを報じた。
神秘的な出生。栗毛流星の美しい馬体。期待されながら苦杯を舐め続けた四歳時。サラブレッドとして完成した五歳時。そして六歳時のあの悲劇。テンポイントの出生から死に至る物語は競馬ファンのみならず、社会現象として競馬に無関心な人々も大きな関心を呼んだ。彼の死は日本競馬界にとって大きな損失であったが、競馬が単なるギャンブルでなく血統を中心にしたロマンであることを世間に知らしめることになった。そしてライバルの
トウショウボーイに遅れること6年、1990年ようやくJRA顕彰馬に選ばれた。
時は下って1995年。彼の甥フジヤマケンザンが香港国際カップ(国際G2)に優勝するという快挙を成し遂げた。内国産馬による海外重賞勝利は
ハクチカラ以来36年ぶりの快挙であった。自身が果たせなかった海外制覇の夢を甥が実現したのである。テンポイントの直系子孫は残すことはできなかったが、残された一族の子孫はまた大仕事をするかもしれない。
2001年4月16日筆