[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
トキノミノルは1948年日高三石の本桐牧場にて生まれた。父セフトは英国産馬。リーディングサイヤーに5回輝いた日本を代表する輸入種牡馬。代表産駒としては二冠馬
ボストニアン、牝二冠馬
スウヰイスーなどがいる。本桐牧場の笠木政彦氏はフィッツラックの繁殖説を参考に、母第弐タイランツクヰーンとの配合でザテトラーク(The Tetrarch)の血量18.75%を狙ったのである。
大映社長永田雅一氏の持ち馬として、田中和一郎厩舎に入厩した。この時の競走名はパーフェクトであった。岩下密政鞍上の函館でのデビュー戦は800mであった。スタートからポンとハナに立ち、2着に8馬身差をつけるレコード勝ちであった。永田氏はこの鮮烈の初戦を見て「自分の競馬に賭けた夢が実るときがきた」とトキノミノルと改名した。2戦目は札幌の砂馬場で2馬身半差であったが、3戦目は大差のレコード勝ちであった。続いて10月中山での2戦で着差はそれぞれ6馬身4馬身。もちろんレコード勝ちであった。中山の朝日杯三歳ステークスでイツセイに4馬身差をつけてレコード勝ちした。三歳時は6戦全勝うち4つのレコード勝ちである。しかもすべて1200m以下のレースだったのにも関わらず、6戦での着差が35馬身以上もあった。
四歳になったトキノミノルの快進撃は続く。中山の選抜ハンデをレコード勝ちのあと、初コースとなる東京のオープンも快勝。5月中山での皐月賞に駒を進めた。ここでもトキノミノルのスピードは圧倒的で2着イツセイに2馬身差をつけレコード勝ちした。
圧倒的な強さで連勝街道を走るトキノミノルは世間一般にも大きな関心を呼んだ。ダービー当日には内馬場を開放して観客を入れなければならないほどであった。ダービー前に不安が発生したが関係者の努力で出走にこぎ着けた。注目の中スタートが切られた。スタートで後手を踏んで場内は騒然となったが、慌てず先行集団に位置し、向こう正面で先頭に立った。直線で他の有力馬が追い出しにかかる。しかしトキノミノルの逃げ脚はまったく衰えず、イツセイに1馬身半差をつけて2分31秒1というレコードタイムで優勝。通算10戦10勝。史上4頭目の不敗のダービー馬となった。結局、イツセイは朝日杯からの5戦すべてトキノミノルの2着に敗れることになった。これは余談になるが、この年のダービーの有力馬は日高から出ていた。しかしダービー当日の日高地方は休電日で牧場の人達はラジオの実況を聞くことができない。そこで超満員のバスの中でラジオの実況を聞いた。日高の馬は上位独占で歓喜の渦となったのはいうまでもない。
しかし禍福はあざなえる縄のごとしの例え通り、トキノミノルは破傷風菌に冒され、栄光の日から3週間足らずでこの世を去った。遺体は東京競馬場に埋葬され、後に馬像が立てられた。「ダービーに勝ち忽然と世を去ったトキノミノルは幻の馬だった」吉屋信子女史のこの一文はあまりも有名である。
類希なスピードを発揮していたが、生まれつき膝に難点があり、その脚は丈夫とはいえず、実際には3本脚で走っていたといわれる。「幻の馬」この一言がトキノミノルを見事に表現している。。また一般大衆に競馬を認知させた功績も見逃せない。産駒を残すことができなかったのは残念であるが、10戦10勝レコード勝ち7の実績は戦後比類なきもので、これらの実績を賛えて、1969年クラシック登龍門である共同通信杯に「トキノミノル記念」というサブタイトルがつけられた。1984年に設立された顕彰馬にも文句なく選ばれている。現在、顕彰馬の中で全勝馬は
クリフジ、トキノミノル、
マルゼンスキーといるが、時代背景及び勝ったレースの格を考えると、トキノミノルの成績は
クリフジに伍するもので、
マルゼンスキーよりも遥かに上といえる。今後、繁殖成績がなく競走成績のみで顕彰馬に選ばれるにはトキノミノル並みの実績をあげる必要があろう。そんな馬の出現を心待ちにしたい。
2001年11月23日筆