[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ヤエノムテキは1985年浦河・宮村牧場で生まれた。父ヤマニンスキーは最後の英国三冠馬ニジンスキーの仔で母アンメンショナブルの腹の中に入っているときに日本に輸入された持込馬である。アンメンショナブルの父はバックバッサーで、これは顕彰馬
マルゼンスキーと同配合である。しかし競走成績は
マルゼンスキーに遠く及ばぬ条件馬に終った。しかし種牡馬となってからは予想外の好成績でこのヤエノムテキの他、1989年オークス馬
ライトカラーをはじめ多数の重賞勝ち馬を輩出した。
マルゼンスキーを付けたくとも付けられない資金の乏しい零細牧場には救世主となった。母ツルミスターは同じ宮村牧場の生産馬。宮村牧場の基礎牝馬フジサカエの血を引いていた。体質が弱いこともあって3戦未勝利で現役を引退。ツルミスターを管理していた萩野光男師の配慮で宮村牧場へ戻された。母の父イエローゴッドは英国産。ダービー馬
カツトップエース、皐月賞馬
ファンタスト、桜花賞馬
ブロケードなど特にクラシックで良績を残した種牡馬である。ヤエノムテキはツルミスターの初仔で、父と母の父と同じ栗毛馬で美しい四白流星が施されていた。しかし気性が荒く牧場の人の手を焼かせたという。
(有)富士の持ち馬として栗東・萩野光男厩舎に入厩したヤエノムテキは強い棹性で素質の片鱗を見せてはいたが、腰の甘いところがあってデビューは2月末の阪神であった。西浦勝一騎乗でダートの新馬を快勝。続いて中京の特別を圧勝したものの、皐月賞に出走を確実にするには賞金が足りないので、連闘で毎日杯に出走した。しかし初めての芝しかも重馬場ということもあってか4着に敗れた。ところが幸運にも皐月賞は抽選で辛うじて出走できた。中山競馬場が改装工事のためこの年の皐月賞は東京で開催されていた。最内枠1番枠に入ったヤエノムテキは府中2000mでとりわけ有利なラチ沿いを進んだ。9番人気ノーマークの気楽な立場で実績馬
サクラチヨノオーをぴったりマークして抜け出した。ディクターランドの追撃をかわし、11年ぶりに関西馬が皐月賞を制した。(有)富士の社長大池正夫氏は馬主歴37年目にして初めての重賞勝ちであった。ダービーは流れが向かず
サクラチヨノオーの4着に敗れた。
夏場も休養することなく、中京の中日スポーツ杯に出走。これは
サッカーボーイの2着だったものの、8月函館のUHB杯は古馬相手に貫禄勝ち。さらに京都新聞杯も制して菊花賞を迎えた。
サクラチヨノオー他春の有力馬や、潜在能力を評価されていた
サッカーボーイも姿を見せていないとあって、1番人気に支持された。しかし遅れてきたステイヤー、
スーパークリークの快走にあって7着に惨敗した。戦前に危惧されていたとおり3000mは長すぎたといえる。傷心のヤエノムテキは有馬記念に向かわず、鳴尾記念に出走。ハナ差ながら手堅くものにした。
五歳春は天皇賞ではなく中距離の宝塚記念を目標とした。1月の日経新春杯は2着だったが、大阪杯は勝ち、宝塚記念は1番人気で迎えられた。しかし天皇賞を勝った
イナリワンの7着に惨敗した。夏場は休養し秋は天皇賞に直行。前走の惨敗で6番人気まで評価が落ちていた。直線で見せ場を見せたものの
スーパークリークの4着。有馬記念はさらに8番人気まで落ち6着。五歳のヤエノムテキは無冠に終わった。その頃
オグリキャップ、
スーパークリーク、
イナリワンをもって「三強」といわれるのは当然としても、ダービー2着の実績しかないメジロアルダンを含めて「四強」と呼ばれることが少なくなかった。五歳秋時点で皐月賞馬ヤエノムテキの株はそこまで暴落していた。
六歳となったヤエノムテキは失地回復を果たすべく、得意距離の日経新春杯、マイラーズカップ、大阪杯に出走。しかし2着、3着、3着と敗退。陣営は安田記念を西浦騎手に代わり関東のベテラン岡部騎手に委ねることにした。しかし
オグリキャップが日本レコードで圧勝し、ヤエノムテキは2着を確保するのがやっとだった。続く宝塚記念は
オサイチジョージの3着に終わった。
昨年と同様、天皇賞には直行で挑むことになった。天皇賞には岡部騎手のお手馬であるメジロアルダンが出走していた。しかし岡部騎手はヤエノムテキを選んだ。彼は過去2回の騎乗経験からヤエノムテキにまだ見限ることのできない能力を感じていたからである。ヤエノムテキは
オグリキャップ、
オサイチジョージに続く3番人気であった。岡部騎手の選択が評価を押し上げのである。岡部騎手はロスのない競馬を心掛けた。ずっと内ラチ沿いを走り、直線で内が開くのを信じて待った。そして前に馬がいなくなった直線を必死で追い、メジロアルダンの追撃をクビ差抑えてレコード勝ち。岡部騎手は天皇賞・秋初制覇。しかも自分が選んだ馬で思い描いたとおりのレース運びをしたので喜びも一塩であったろう。
続いてのジャパンカップ、有馬記念はもう一仕事終えた気でいたのか6着、7着と敗れた。ところで引退レースの有馬記念には忘れることのできない逸話がある。気性に難点のあるヤエノムテキは関係者の配慮により引退式が行われないことになっていた。それに反発したわけでもなかろうが、有馬記念の本馬場入場後、岡部騎手を振り落として放馬してしまったのである。中山の直線をカラ馬で全力疾走。これが彼の「引退式」であると同時に、
オグリキャップの奇跡の復活という劇的なドラマの序章であったのである。
1991年、引退したヤエノムテキは新冠町農協畜産センターで総額5億円のシンジケートが形成され種牡馬となった。このころは
オグリキャップ、
スーパークリーク、
イナリワンなどスターホースも引退し、それぞれ高額なシンジケートが組まれて種牡馬となっていた。しかし引退した時期があまりにも悪かった。アメリカからやってきた種牡馬サンデーサイレンスがその圧倒的な産駒成績により、日本のスターホースは壊滅的打撃を被ってしまった。サンデーサイレンスによって日本の競走馬の実力が向上したのは確かだが、これらスターホースの仔が走るという楽しみを奪ってしまったといえなくもない。シンジケートもわずか6年で解散。日高の有志が集まって再度シンジケートが形成された。これも解散すると今度は一般のファンが資金を出し合って三度目のシンジケートを結成。しかし2004年には種付け希望者が現れず、2010年に種牡馬と引退。最後に種牡馬として過ごした日高スタリオンステーションで功労馬と余生を過ごした。2014年3月28日、腸閉塞により永眠した。
デビューから2ヶ月足らずで皐月賞を制し、また
オグリキャップ他強豪がひしめく中で天皇賞の勲章を加えた実績、大負けをしない堅実な走りは名馬と呼ぶに相応しい成績だろう。それに何といっても最後の有馬記念での放馬がファンに個性派として記憶されることになった。空前の競馬ブームに湧いたあの時代、栗毛の名脇役としてヤエノムテキは長く語り継がれることだろう。
2003年4月8日筆
2022年4月7日加筆