[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ヤマニンゼファーは1988年5月27日新冠の錦岡牧場にて生まれた。父
ニホンピロウイナーは現役時26戦16勝。1984、1985年のマイルチャンピオンシップを連覇し、安田記念も勝った日本競馬史上に残る名マイラー。種牡馬としても成功し、このヤマニンゼファーの他に
フラワーパークなどを輩出している。母ヤマニンポリシーは1981年錦岡牧場の生産馬で現役時20戦1勝と平凡な成績。その母ヤマホウユウは錦岡牧場黎明期の生産馬で現役時70戦7勝。その母の父
ハクリヨウは1953年の菊花賞と翌年の天皇賞・春を制した名馬である。ヤマニンポリシーの父ブラッシンググルームはフランス産馬で1989年英愛リーディングサイヤーに輝いた名種牡馬。1978年アメリカで種牡馬となり、英国ダービーとキングジョージを制したナシュワン、凱旋門賞を制したレインボークエスト、イスバーン賞2勝のクリスタルグリッターズなどを輩出している。レインボークエストは
サクラローレルの父、クリスタルグリッターズは
マチカネフクキタルの父である。ところでヤマホウユウに付けた当時のブラッシンググルームは、産駒がまだ走っておらず、評価が定まっていなかった。それにブラッシンググルームの全兄ベイラーンは当時日本で供用されていたが、気性に難のあることで知られていた。さらに、ヤマホウユウの父ガーサントも気性難の産駒を輩出することで有名だった。そんな血統背景のヤマホウユウに未知のブラッシンググルームを付けに、わざわざアメリカに持っていたことに対して、錦岡牧場場長の土井睦秋氏は周囲から冷笑を買ったという。
栗毛のヤマニンポリシーに黒鹿毛の
ニホンピロウイナーを掛けて、鹿毛に出たヤマニンゼファーは、土井肇氏の持ち馬として、美浦・栗田博憲厩舎に入厩した。「ヤマニン」は土井肇氏の冠号であり、ゼファーとは「そよ風」あるいは「西風」という意味であるが、オーナーがたまたま洗面所で手に取った整髪剤に由来しているという。ヤマニンゼファーは血統面からもさほどの期待を受けるわけでなかった。ヤマニンゼファーの2人の姉はいずれもゲートに難があり、全く大成しなかった。しかしヤマニンゼファーは気性がおとなしく、ゲートに手こずることはなく、後年には、ゲートの後ろ扉に尻をくっつけて、その反動でスタートするという芸当までやってのけていた。ヤマニンゼファーは骨膜が酷くて、なかなか仕上がらず、初出走は四歳の1991年3月9日、中山ダート1200m新馬戦であった。ヤマニンゼファーは12番人気と低評価だったが、横田雅博騎手を背に後方から追い込んで勝った。続く条件戦も勝つと、重賞のクリスタルカップ(G3)に挑戦し、横山典弘騎手を背に3着と健闘した。秋になって戦列復帰し、ダートの条件戦を7着、1着とし、スプリンターズステークス(G1)に格上挑戦。16頭中10番人気とで
ダイイチルビーの7着に入線した。勝ち鞍はダートのみとはいえオープン馬相手でも実力は遜色ないことを証明できた。
1992年五歳となったヤマニンゼファーはダート1200m準オープン戦に出走。中山で2着、京都で1着。これ以降ヤマニンゼファーは芝の重賞路線を歩むことになる。春のマイル王決定戦安田記念を目指し、京王杯スプリングカップ(G2)に出走。初騎乗となる田中勝春騎手を鞍上にダイナマイトダディの3着と好走した。
第42回安田記念は晴・良馬場の東京競馬場で開催された。1番人気は前年のマイルチャンピオンシップを制した
ダイタクヘリオス。ヤマニンゼファーはここまで芝の勝ち鞍がなく、大外枠とあって11番人気と低評価であった。しかしファンの低評価とは逆に、栗田師は自信を持っていた。鞍上の田中勝春は好スタートから1000mを56.9秒というハイペースに身を置きながら、5、6番手につけると、直線で逃げたマイネルヨースを捕らえ、追い込んできたカミノクレッセを3/4馬身抑えて優勝。ヤマニンゼファーにとっては初めてのG1勝利であると同時に初めての重賞勝ちであった。また父
ニホンピロウイナーとの親仔2代制覇も達成した。オーナーブリーダーでもある錦岡牧場の馬がG1級競走を勝ったのは、1972年天皇賞・秋のヤマニンウェーブ以来であった。また、当時売り出し中の若手だった田中勝春騎手にとっても初めてのG1勝ちである。余談になるが、彼がその後G1を勝つのは2007年の皐月賞であり、15年もの時間を要することになる。
五歳秋は関西に遠征。阪神のセントウルステークス(G3)から始動した。ここは2着とまずまずだった。しかし父に続くマイルG1連覇を目指したマイルチャンピオンシップ(G1)は
ダイタクヘリオスの5着と敗れ、スプリンターズステークス(G1)はその年の桜花賞馬
ニシノフラワーの急襲を受けて2着に惜敗した。
1993年六歳となったヤマニンゼファーに栗田師は新たな目標を課した。それは天皇賞・秋に挑戦することであった。マイル以下の短距離戦は中長距離戦に比べて格落ちの感は否めないし、2000mの天皇賞・秋を勝てば種牡馬となったときに箔が付くと判断したからであった。ただ1600mまでの実績しかないヤマニンゼファーが、中距離の強豪が集う天皇賞・秋に勝てるかどうかは未知数であった。とりあえず春季は安田記念を目標とすることにして、関西に遠征しマイラーズカップに出走した。田原成貴騎手を鞍上に
ニシノフラワーの2着に敗れた。栗田師は田原騎手の馬の潜在能力を見抜く独特な感性を評価していて、彼に2000mまで対応できるかどうか判断してもらおうと考えていた。中1週空けて田原騎手に遠征してもらって中山記念に出走。1800mという距離は初めてであった。結果は4着。しかし栗田師の関心は結果よりも田原騎手がどのような判断するかであった。田原騎手は「大丈夫ですよ」と太鼓判を押した。これでヤマニンゼファーの秋の目標は天皇賞・秋に決まった。続いて柴田善臣に乗り代わった京王杯スプリングカップ(G2)を59キロを背負いながら勝って、安田記念連覇を狙った。
第43回安田記念は晴・良馬場の東京競馬場で行われた。この年から安田記念は外国馬に開放され、早速海外の強豪馬が挑戦状を叩き付けてきた。ただ前評判は高いものではなく1番人気は桜花賞馬
ニシノフラワー。前年の覇者であり、前走の京王杯SCも勝っているヤマニンゼファーは2番人気であった。前年勝利に導いた田中勝春騎手は新潟に遠征したため、続けて柴田善臣騎手が騎乗することになった。ヤマニンゼファーは中団から早めに先頭集団に取り付き、イクノディクタス、
シンコウラブリイ、
シスタートウショウ以下に完勝。柴田善臣騎手ははじめてのG1勝ちとなった。陣営によると、この安田記念のヤマニンゼファーは生涯最高の出来だったという。この競走後、ヤマニンゼファーは休養に入った。
六歳秋は毎日王冠(G2)から始動した。2番人気と評価されていたが、
シンコウラブリイの6着に敗れてしまった。さすがに栗田師は不安になり、ヤマニンゼファーに強めの調教をつけて、大目標の天皇賞・秋に挑んだ。
第108回天皇賞・秋は晴・良馬場の東京競馬場で行われた。この天皇賞の主役は
メジロマックイーンだった。七歳となったこの年は天皇賞・春こそ
ライスシャワーの2着に敗れたものの、宝塚記念を完勝。前走の京都大賞典は59キロを背負いながら、2400mを2分22秒7というとてつもないレコードを叩き出していた。2年前に1位入線しながら最下位に降着処分を受けた屈辱を晴らすべく陣営は力が入っていた。しかしレース2日前に骨折が判明、急遽引退が発表された。出走すれば圧倒的人気が確実で、完勝の可能性が高かった
メジロマックイーンが出走回避したことは、距離に不安のあったヤマニンゼファーにとっては朗報であった。そのヤマニンゼファーは5番人気と低評価であった。初体験となる2000mを勝つのは難しいだろうとファンは考えたのである。1番人気は天皇賞・春を勝った
ライスシャワーであった。本来ステイヤーの
ライスシャワーが本分でない中距離戦で1番人気に推されるくらい、
メジロマックイーンという馬は強く、ヤマニンゼファーは信頼性に乏しかったということであろう。ヤマニンゼファーは例によって好スタートから3番手に付けた。栗田師は柴田騎手に「最初の400mは助走で、そこから1600mの本番があると考えて乗れ」と指示していた。逃げたツインターボは例によってハイペースとなった。ヤマニンゼファーはこれを楽に追走し、直線に向くと先頭に立つ勢いだった。早すぎるかと思ったが、馬の行く気に任せた。
ライスシャワーはまだ中団で伸び脚がない。外からセキテイリュウオーが並び駆けてきた。鞍上の田中勝春騎手はかつてヤマニンゼファーの相棒だった。ヤマニンゼファーを熟知する田中騎手は競り合いに持ち込む。ヤマニンゼファーと柴田騎手は先頭を譲らない。1ハロン激しい叩き合いが続き、2頭は鼻面を揃えてゴール。当人たちも勝ち負けを判別できなかったが、両騎手はお互いの健闘を称え合った。写真判定の結果はヤマニンゼファー。距離不安をささやかれながら、可能性を信じた栗田師の情熱が勝利を呼び込んだのだろう。
ヤマニンゼファーは引退レースとして年末のスプリンターズステークスを選んだ。ここを勝てば、G13勝となり年度代表馬に選ばれる可能性が高くなり、また同一年度で1200m、1600m、2000mのG1を勝つというかつてない偉業を達成することになる。ヤマニンゼファーは1番人気に支持された。ヤマニンゼファーは実績がありながら常に人気が低く、1番人気は5歳のオープン特別以来で、生涯でわずか2回しかなかった。ヤマニンゼファーは正攻法から完璧なレースをした。しかし本物のスプリンターである
サクラバクシンオーに2馬身半突き放されて2着に終わった。
このスプリンターズステークスで引退したヤマニンゼファーは、翌年最優秀古馬牡馬、最優秀短距離馬、最優秀父内国産馬として表彰された。しかし年度代表馬は四歳クラシックで2着以下がないとはいえ菊花賞を勝っただけの
ビワハヤヒデが選ばれた。勝ちにいったスプリンターズステークスは敗れたとはいえ2着に頑張ったのに、短距離馬はやはり格落ちなのかと一部のファンを落胆させた。
1994年より種牡馬となったヤマニンゼファーだが、武蔵野ステークス(G3)を勝ち、ジャパンカップダート(G1)を2着したサンフォードシチーが唯一の中央重賞勝ち馬で、自身を越える産駒の輩出には至らなかった。ちなみにサンフォードシチーは乗馬となり、高崎競馬場を舞台としたNHKの連続テレビ小説『ファイト』に出演した。2009年に種牡馬を引退。2017年5月16日、余生を送っていた故郷の錦岡牧場で老衰で永眠した。
父「マイルの皇帝」
ニホンピロウイナーの名を高め、調教師が信じた可能性に見事に応えたヤマニンゼファーの足跡は今後も色褪せることはないだろう。
2007年12月10日筆
2022年4月7日加筆