[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ニッポーテイオーは1983年4月静内・千代田牧場にて生まれた。父リイフォーLypheorは1975年英国産馬。現役時代はフランスで11戦3勝。クインセ賞G3を勝っている。1979年にアイルランドで種牡馬供用されてから、1980年から83年に日本で供用された。ニッポーテイオーをはじめ、ウィニングスマイル、アイランドゴッテス、ヒシノリフオーなど主にマイル路線で活躍馬を輩出した。しかし彼らの活躍を見る前に1984年に米国に再輸出され、1986年に死亡した。リイフォーの父リファールLyphardは名種牡馬ノーザンダンサー産駒で、種牡馬として成功し、その最高傑作は1986年キングジョージ6世&クイーンエリザベスSと凱旋門賞を制したダンシングブレーヴである。その他リファールの産駒としては日本へ輸入され、1986年に史上初の牝馬三冠を達成した
メジロラモーヌ、1993年ジャパンカップを制した
レガシーワールドなどを輩出したモガミがいる。母チヨダマサコは1977年生まれ、現役時は5戦1勝と凡庸ながら、初仔のスリードーターは中山牝馬S3着を含む25戦7勝の好成績をあげた。ニッポーテイオーは2番仔である。ニッポーテイオーの2年後に生んだ
タレンティドガールが1987年のエリザベス女王杯で二冠牝馬
マックスビューティを抑えて優勝している。ちなみにチヨダマサコの名は千代田牧場のオーナーの妻、飯田政子氏に由来している。チヨダマサコの曾祖母ワールドハヤブサは初仔としてチヨダマサコの母ミスオーハヤブサを生んだ後、1979年に1982年のエリザベス女王杯を優勝した
ビクトリアクラウンを生み出している。ワールドハヤブサの母
オーハヤブサは1962年のオークスを制している。
オーハヤブサの5代母は1906年(明治40年)に小岩井農場が英国から輸入した20頭の基礎繁殖牝馬の1頭ビューチフルドリーマーである。ビューチフルドリーマーは五冠馬
シンザンをはじめ、多くのクラシック馬や天皇賞馬の祖先となっている。チヨダマサコの父ラバージョンLover Johnは1991年アメリカ産馬で現役時はアーリントン・ワシントン・フューチュリティG1を含む16戦4勝。1975年日本に輸入され2年後に死亡。アルゼンチン共和国杯を勝ったイナノラバージョンを出している。
ニッポーの冠名で知られる山石祐一氏の持ち馬として、美浦・久保田金造厩舎に入厩したニッポーテイオーは、三歳の1985年10月、東京の新馬戦を蝦名信広騎手を鞍上に初出走した。これをいきなり大差勝ちして驚かせたが、12月中山の万両賞は7着と大敗した。
1986年四歳となったニッポーテイオーは、1月中山の京成杯に重賞初挑戦するもダイナフェアリーの2着。続いて出走した弥生賞も3着。激しい気性で結果が出ぬまま、皐月賞に挑戦するも、
ダイナコスモスの8着に敗れた。もっとも21頭立ての12番人気であり、ファンの認識としては、「先行してはタレる馬」であった。NHK杯も郷原洋行に乗り替わって2番人気に支持されたが、東上緒戦のラグビーボールにあっさり交わされ8着。久保田師は1800m以上で結果の出ないニッポーテイオーではダービーは無理と判断、ダービー前日のニュージーランドT四歳ステークスに出走した。ここにはニッポーテイオーと同様にオークスを諦めたダイナフェアリーが出走していた。ニッポーテイオーはこれに続く2番人気に支持され、ダイナフェアリーの追撃を交わした。ようやく手にした2勝目が初重賞勝ちであった。ここまで苦労していたニッポーテイオーだがこれ以降、3着以下のない、実に安定した成績を上げる。賞金加算を目指して福島のラジオたんぱ賞に出走。このレースはかつては「残念ダービー」との異名があり、普通はダービー馬や皐月賞馬が出走することはない。しかしこの年は何故か皐月賞馬
ダイナコスモスが出走していて同馬の2着に敗れた。
夏場も休養することなく、函館記念に出走。2000mを1分58秒6の好タイムでレコード勝ちした。もう2000mまでなら古馬相手でも遜色ないと陣営は判断したものの、当時の天皇賞・秋は四歳馬には出走資格はなかった。仕方がないので1600mのマイルチャンピオンシップを目標とし、その前に毎日王冠で天皇賞・秋を目指す古馬に一泡吹かせることにした。当時の1800mの日本レコード1分46秒0で駆けた
サクラユタカオーの0.4秒差の2着。古馬最強と目されていた
ミホシンザンに先着したことは大きな自信となった。続くスワンステークスは初めて1番人気に支持されスタートダッシュだけで楽勝した。この勝利で目標のマイルチャンピオンシップで圧倒的1番人気に支持された。道中馬群を割るのに苦労し、直線半ばから鋭く追い込んだものの、先に抜け出した五歳牝馬
タカラスチールにハナの差及ばなかった。四歳時はG1勝利こそなかったが、古馬を差し置いて最優秀スプリンターとして表彰された。
1987年五歳となったニッポーテイオーは約5ヶ月振りとなる4月東京の京王杯SCに出走。ダイナアクトレス以下に快勝し、安田記念に挑んだ。ここでも圧倒的1番人気に推されたが、重馬場で持ち前のスピードが殺されたのか、大外を一気に駆けぬけてきた
フレッシュボイスの急襲を受けて2着。宝塚記念も2200mとやや守備範囲よりも長い距離ということもあってか、
スズパレードの出し抜けを食って2着を確保するに留まった。大レースで結果が出ず、精神面の弱さを指摘されたのもこの頃であった。
五歳秋初戦、毎日王冠は1番人気に支持されたが、牝馬ダイナアクトレスの3着に敗れた。
第96回天皇賞・秋は曇り空・良馬場の東京競馬場で行われた。この年はイギリス・フィリップ大公と皇太子殿下を迎えての台覧競馬となった。ニッポーテイオーは前走の敗北にも関わらず、自力を評価され1番人気に支持された。 2番人気は毎日王冠でニッポーテイオーに先着したダイナアクトレスであった。雰囲気的には牡馬相手に差のない競馬を続けているダイナアクトレスに
トウメイ以来の牝馬による天皇賞制覇を期待する声が強かった。ニッポーテイオーの郷原騎手は前走抑えて失敗したことを反省し、馬の行く気に任せて小細工しないことにした。ニッポーテイオーは好スタートからハナを奪うと、そのまま後続馬に抜かれることなく、終始ニッポーテイオーを2番手で追いかけていたレジェントテイオーに5馬身差をつけて完勝。後方から進んだダイナアクトレスを8着に沈めた。1番人気に支持されること3度目、ニッポーテイオーはついにG1タイトルを獲得した。
続く第4回マイルチャンピオンシップはライバルたるダイナアクトレスは出走しておらず、天皇賞に比べはるかに楽な相手とあって、単勝支持率63%の圧倒的1番人気に支持された。好スタートから2番手につけ、直線でスパートすると、後続を寄せ付けず、2着セントシーザーに5馬身差をつけて圧勝。史上初の天皇賞・秋、マイルCSの連覇を達成し、人気に応えた。五歳秋となってから精神面で成長を見せ、2年連続で最優秀スプリンターとして表彰された。
1988年六歳もニッポーテイオーは現役を続行した。緒戦の京王杯SCはまたもダイナアクトレスに頭差敗れた。しかしここでは2番人気であり、敗因は久々と斤量差として陣営にはショックはなかった。
第38回安田記念は晴・良馬場の東京競馬場で開催された。ニッポーテイオーは2年連続で1番人気に支持された。そしてダイナアクトレスが2番人気で、両馬の一騎討ちムードであった。そしてレースは予想通り、ニッポーテイオーが先行し、ダイナアクトレスが追いこむ展開でニッポーテイオーが1馬身ダイナアクトレスを抑えて優勝。これでニッポーテイオーは当時存在した2000m以下の古馬G1競走を全て制したことになる。
続く宝塚記念では天皇賞・春を勝って重賞4連勝中の
タマモクロスが待ち構えていた。スピードに勝ると考えられたニッポーテイオーが僅かの差で1番人気。速い馬が勝つか、強い馬が勝つかとファンの興味を引いた。ニッポーテイオーは先行していつものように直線を軽快に抜け出した。しかし
タマモクロスは強かった。ニッポーテイオーを並ぶ間もなく突き放し、ニッポーテイオーは2馬身半差をつけられて2着に敗れた。天皇賞・秋、マイルCSを既に勝っているニッポーテイオーは、もう走るレースはなく、この宝塚記念をもって引退することとなった。
種牡馬となったニッポーテイオーは静内レックススタッドにて繁殖生活に入った。大阪杯、函館記念を勝ったインターマイウェイ、毎日杯を勝ち皐月賞を1番人気に支持され、
ジェニュインの8着に敗れたダイタクテイオーなどを送り出したが、自身の豊かなスピードを継承する産駒に恵まれなかった。最も知名度の高い産駒は高知競馬の連敗記録で話題になったハルウララであろう。2000年に種牡馬を引退。去勢されて、うらかわ優駿ビレッジAERUにて功労馬として余生を送った。2016年8月16日老衰にて永眠した。享年33歳の大往生だった。
中距離の最高峰である天皇賞・秋にマイルG1を2勝とスピードを最も明快に証明して見せたニッポーテイオーが種牡馬として芳しい成績が上げられなかったのは、おそらく繁殖能力よりも競走能力が勝ってたと解するのが適当であろう。繁殖成績が伴わなかったのは残念ではあったが、日本の名門牝系からこのようのスピード馬を生み出せたのは大いに誇っていいだろう。やはりニッポーテイオーは「マイルの帝王」と呼ぶに相応しい名馬だろう。
2008年9月21日筆
2022年4月4日加筆