[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ダイナナホウシユウは1951年5月11日、北海道蛇田の飯原農場にて生まれた。父
シーマーは1948年の天皇賞馬でダイナナホウシユウはその初年度産駒となる。その初年度産駒には同じ飯原牧場の生産馬の天皇賞馬
タカオーがいる。母の父としては
ニットエイトが菊花賞と天皇賞を制している。母白玲の祖祖母は英国から輸入した基礎繁殖牝馬シルバーパツトンで、後にこの馬を祖とする馬の中には秋華賞を制した
ティコティコタックがいる。母の父レヴウーオーダーは1923年英国産馬。直仔には大レースを勝った馬はいないが、産駒のマルゼアが天皇賞馬
オンワードゼアを輩出し、第一シュリリーが牝馬の天皇賞馬
クインナルビーの母となっている。
のちにダイナナホウシユウとなるこの鹿毛の仔馬はタマサンと名付けられた。当時の飯原農場は「血統は関係ない。若駒は小さい頃から鍛えなければならない」という方針を取っていたため、タマサンは大きく育たなかった。成長したタマサンは400kg未満、一説では380kg以下という当時としても小さな馬体だった。同じ牧場で生まれた
タカオーも同様に鍛えられていた。
タマサンは九州の炭坑王として名を馳せた上田清次郎氏の所有馬となり、京都・上田武史厩舎に入厩した。上田氏は期待馬に対して「ホウシユウ」の冠名の前にダイイチ、ダイニと順番を割り振っていたが、このタマサンはタマサンのままであった。つまり全く期待されていなかったということだ。ちなみにホウシユウとは上田氏の出身地、豊前の異名「豊州」から取られている。のちに上田氏の子孫の持ち馬
ブゼンキャンドルはエリザベス女王杯を勝った。このブゼンとホウシュウは同義語である。
1953年8月三歳となったタマサンは小倉の三歳オープン戦で飯原農場出身の騎手石崎修騎手を鞍上に初出走しクビ差ながら勝利した。その後中京、京都、阪神に転戦し、レコード勝ちを含む8連勝を記録した。圧倒的なスピードを持っていて、その全てがスタートからの逃げ切りという細かい駆け引きなど不要という強さだった。
翌1954年四歳となったタマサンは上田氏によりダイナナホウシユウと改名された。ついに関係者の期待馬となったわけである。ちなみに現在競走馬の改名は初出走前にしか認められていないが、当時は珍しくなかった。騎手も上田厩舎の主戦、上田三千夫騎手に乗り替わった。3月京都四歳オープンを2着に大差をつける逃げ切り勝ち。一躍東上した中山の四歳オープン戦も大差勝ちした。ちなみに公式記録の着差は10馬身を越えると大差と表現されるが、一説によれば、この2戦の着差は15馬身、24馬身ともいわれている。
第14回皐月賞は雨・不良馬場の中山競馬場で開催された。ここまで初出走から10戦無敗のダイナナホウシユウは2番人気迎えられた。1番人気は飯原農場で共に鍛えられた
タカオーだった。
タカオーもここまで11連勝中で、2敗していたとはいえ、地元関東馬であること、朝日杯、スプリングステークスという重賞に勝っていたことが評価された。当時は現在のように高速道路は存在せず、馬は貨物列車に揺られて輸送された。手間と時間がかかるので東西交流が少なく、遠征馬は相対的に不利と考えられていた。牧場の同期生が上位人気で直接対決する非常に希な皐月賞となった。ゲートが上がって好スタートを切ったダイナナホウシユウはそのまま先頭を奪った。対する
タカオーは悪い馬場に脚をとられて動きが悪かった。ダイナナホウシユウの逃げは好調で2着に8馬身差をつけて圧勝した。この8馬身差は2022年現在皐月賞における最大着差となっている。
タカオーは4着に敗れ連勝が11で止まった。
続く東京初見参となるNHK盃は
タカオーに雪辱され3着に敗れ、こちらの連勝も11で止まった。そして迎えた本番のダービーのダイナナホウシユウは1番人気に推された。当時の発馬機は1頭ずつ区分けされたゲートではなく、ロープの前に馬を整列させ、ロープが上がったところでスタートを切るという、バリヤー方式という発馬方法だった。この方式は馬を静止させるのが難しい上に、他馬の影響を受けやすいという致命的な欠陥があった。このバリヤー発馬が結果的にダイナナホウシユウという馬の評価に大きな影響を与えてしまった。このダービーの発馬でダイナナホウシユウは隣の馬に挟まれ大きく出遅れてしまったのである。それでも挽回して先頭に立ったものの、荒れた馬場を走っていたため最後の直線で末脚を失い、
タカオーに追い抜かれてしまった。しかしその
タカオーも地方競馬出身の伏兵
ゴールデンウエーブにかわされて2着となった。ダイナナホウシユウは4着に敗れた。
捲土重来を計るべくダイナナホウシユウ陣営は菊花賞を目指した。2ヶ月の休養後、9月のオープンを60キロを背負って勝ったものの、次の10月の2戦はいずれもダービーで先着していたミネマサの2着に敗れた。しかし11月の神戸盃は64キロを背負いながらも逃げ切って快勝。まずまずの手応えで菊花賞に挑むことになった。
第15回菊花賞は11月23日晴・良馬場の京都競馬場で開催された。1番人気はミネマサに譲っての2番人気に支持されたダイナナホウシユウは好スタートから先頭を奪うと、後続を大きく離して逃げ、最後の直線も余力十分でミネマサに6馬身差をつけて圧勝した。皐月賞と菊花賞が圧勝だっただけに、あのダービーを勝っていれば歴史に残る名馬と記憶されている可能性が至極高く、惜しんでもあまりある出遅れだった。
タカオーは4着となり、この好敵手とは最後の対決となった。
その後年末のオープンを勝って四歳を締めくくった。皐月賞と菊花賞の二冠を達成したダイナナホウシユウはケイシュウ社主催の年間表彰で最優秀四歳牡馬に選ばれた。
1955年五歳となったダイナナホウシユウは古馬最大の目標、天皇賞に向けて調整された。しかし年初のオープン戦を連勝したものの、天皇賞前の4月オープン戦は3着に敗れ、その後屈腱炎を発症して天皇賞・春は回避した。この天皇賞・春は
タカオーがレコード勝ちした。5ヶ月の休養で挑んだ9月のオープン戦は66キロを背負いながら2着馬に5馬身差をつける圧勝。京都記念では65キロを背負い2200mを2分16秒4に日本レコードで完勝した。勇躍東上、東京のオープン戦は2000mを2分2秒2でまたも日本レコードで圧倒した。このタイムは10年以上更新されなかった。
第32回天皇賞は晴・良馬場の東京競馬場で開催された。ダイナナホウシヨウは本番直前に上田師が回避を考えるほどに脚が悪化した。軽い調教で挑んだダイナナホウシユウに関係者は祈る気持ちでレースに送り出した。ダイナナホウシユウは先頭を奪ったものの、いつもの軽快な逃げ足ではなく、最後の直線でフアイナルスコアにかわされてしまった。しかしダイナナホウシユウは最後の最後に根性を見せて差し返し、ハナの差で優勝した。微妙な着差ではあったが、鞍上の上田騎手は勝利を確信していた。しかしこの天皇賞の激走でダイナナホウシユウの脚は限界点に達していた。
翌1956年六歳となったダイナナホウシユウは悶々とした日々を過ごした。当時の天皇賞は勝ち抜け制で、一度勝つと二度と出走できなかった。しかし賞金を積み上げたダイナナホウシユウは天皇賞以外のレースでは重い負担重量を課せられてしまう。進退窮まっているところに、有馬理事長の発案で年末の中山においてファン投票で出走馬を選ぶ「中山グランプリ」が開催されることが決まった。ダイナナホウシユウはそこに向けて調整されることになった。約1年の休養を経て11月のオープン、12月の阪神大賞典を連勝し、中山グランプリに挑んだ。ダイナナホウシユウは復帰が遅かったこともあってファン投票でなく、推薦によって出走した。第1回中山グランプリは7頭の八大競走優勝馬が顔を揃える豪華な出走陣となり、ダイナナホウシユウは
メイヂヒカリに次ぐ2番人気に支持された。しかしダイナナホウシユウの脚はとても戦える状態ではないほどに悪化していた。それでも関係者は天皇賞の奇跡の再現を期待してグランプリに出走した。しかし結果は12頭立ての11着に敗れ、このグランプリをもって引退することになった。
引退したダイナナホウシユウは日本中央競馬会に購入されて種牡馬となった。当時の日本の馬産はレベルが低く、外国産種牡馬に偏重し、内国産種牡馬はほとんど出番がなかった。それにダイナナホウシユウは決して良血馬とはいえず、目立った産駒成績を収めることはできなかった。1966年種牡馬を引退し、日高育成牧場で若駒の教育係や大学の馬術部として供用され、1974年1月熊本県大津農業高校で没したとされている。
時は過ぎ、1984年日本中央競馬会が名馬の殿堂の制度が創設された。ダイナナホウシユウはその競走成績から殿堂入りするのに十分な資格はあるように思えた。しかし選考委員から「品位に欠ける」「産駒に1頭も活躍馬がいない」という意見があり、ダイナナホウシユウの殿堂入りは見送られた。上田清次郎氏は落胆すると同時に激怒したという。その後同時代を活躍した
メイヂヒカリと
コダマが殿堂入りしたが、彼らと同等以上の実績を持つダイナナホウシユウが殿堂入りしていないのは片手落ちだという声を上げる古参の競馬ファンは未だに存在する。ダイナナホウシユウがこの2頭に劣るところがあるとすれば、それは繁殖成績で、
メイヂヒカリは母の父として天皇賞馬
トウメイを、
コダマは桜花賞馬
ヒデコトブキを輩出しているのに対して、ダイナナホウユウは活躍した産駒が皆無に等しかった。それでもダービーを勝って三冠馬となっていれば、殿堂入りを果たすことができたろう。それだけにあのバリアゲートの不運は惜しまれる。
小さな身体で軽快に逃げまくるダイナナホウシユウは「褐色の弾丸列車」と異名が与えられた。競馬に造詣が深い詩人の志摩直人は、勝って圧勝、負けて惨敗するダイナナホウシユウが殊の外お気に入りだった。これからも歴史が積み重ねられて、ますます過去の存在となっていくダイナナホウシユウが殿堂入りすることはほぼないだろうし、人々の記憶からも消えていくだろう。実際、今競馬場に訪れている人でダイナナホウシユウのことを知っているファンはどれほどいるだろうか。もしかすると名前を聞くと、「ダイナ」の冠名を持つ社台グループの馬かと思う人もいるかもしれない。それほどに知名度のないダイナナホウシユウではあるが、その強さは永遠に語り継がねばならない。それはこの解説文を読んだ人それぞれが果たしてもらいたい。
2023年3月11日筆