[解 説]]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
タマモクロスは1984年新冠の錦野牧場にて生まれた。父シービークロスは1975年生まれで26戦7勝。大レース勝ちこそないが、常に最後方からの追い込みで人気を博した。1983年に現役を引退、種牡馬となるも、大レース勝ちの勲章がないのが災いして、生産界の人気は低迷し種付料はタダ同然であった。タマモクロスは初年度産駒である。このタマモクロスの活躍後、産駒が走りはじめたが、1991年に急逝した。他の活躍馬としては1990年のダービーを3着したホワイトストーンなどがいる。母グリーンシャトウは現役時19戦6勝。下にはエリザベス女王杯を勝った
ミヤマポピーがいる。グリーンシャトウの父シャトーゲイは特に母の父として優れており、1987年のダービー馬
メリーナイス、1986年のマイルCS馬
タカラスチールを出している。
京都で画商を営む三野氏を代表とする(株)タマモの持ち馬として、栗東小原厩舎に入厩したタマモクロスは体質上なかなか仕上がらず、四歳クラシックも始まろうかという1987年3月の阪神で、南井克己を鞍上にデビュー。10頭立ての7着で初戦を飾れなかった。さらに一敗地にまみれたあと、ダートの未勝利で勝ちあがった。5月京都の条件戦は他馬に接触して落馬。これで元々臆病なところに、さらに馬群に対する恐怖心が加わってしまった。その後9月までダート条件戦を4戦、6着、2着、3着、3着と勝てない日が続いた。好走はしている。しかし菊花賞を目指すには賞金面はもちろん芝での実績が必要だ。そこで陣営は10月京都の芝2200mの条件戦に挑戦した。結果は何と2着を7馬身もちぎる圧勝で、しかもタイムは京都新聞杯のそれを上回っていた。馬が突然変ってしまったのである。このころ錦野牧場は倒産してしまい、タマモクロスは帰る牧場をなくしてしまった。さらにグリーンシャトウも売却先の牧場で他界してしまった。悲しい知らせを打ち消すかのようにタマモクロスの活躍が続く。条件戦を使えるうちにと出走した次走も完勝。まだハンデが軽いうちにと12月の鳴尾記念に出走。菊花賞馬メジロディレンなど歴戦の強者が出走していた。53キロのハンデの芦毛馬はまったく彼らを問題とせずにレコードで圧勝した。この勝利で有馬記念に出走すべきという意見もあったが、小原師はカイバの細いタマモクロスに無理は禁物と、来年の天皇賞に照準を合わせることにした。
五歳初戦はオーナーの要望により正月の金杯から始動した。直線で内に包まれ絶体絶命のピンチに見舞われた。しかし絶望的な状況から最後方からゴボウ抜きをやってのけた。次走阪神大賞典は逃げるダイナカーペンターをゴール寸前にとらえ、同着の大辛勝。そして迎えた天皇賞・春。堂々の1番人気である。レースは全く危なげないものでランニングフリーに3馬身差をつけて優勝。鞍上南井騎手にとっては初めてのG1勝ちである。続く宝塚記念では安田記念を勝って短中距離の帝王の名を不動のものにした
ニッポーテイオーに1番人気を譲った。しかし、鼻ズラを突き出すように頭を低くしながら先頭を伺い、勝ちパターンでレースを進める
ニッポーテイオーを唖然とさせるほどの豪脚を繰り出して春GI連覇を果たした。
秋は放牧後、天皇賞・秋にぶっつけで挑んだ。ここには芦毛の怪物が出走していた。1歳下で中央移籍以来重賞6連勝中の
オグリキャップである。前走の毎日王冠では歴戦の古馬をあっさり一蹴していた。ファンは
オグリキャップを1番人気に支持していた。タマモクロスは差なく2番人気。
オグリキャップの連勝を止められる馬は7連勝中のタマモクロスだけで割って入る馬はいないだろうだろうと衆目は一致していた。ゲートが開いた。小原師はスタートしたタマモクロスの位置取りを見て肝を冷やした。いつもは後方からレースを進めるタマモクロスが2番手につけていたからだ。しかしこれは南井騎手のオグリ封じ作戦だった。
オグリキャップの鋭い末脚を封じるには少しでも前でレースを進めるしかない。早めにスパートしたタマモクロスに、
オグリキャップがエンジンを全開させて追い込むが1馬身1/4届かなかった。「芦毛の無敗対決」はタマモクロスに軍配が上がった。春夏天皇賞連覇は
ミスターシービー、
シンボリルドルフ両三冠馬でも達成できなかった記録である。しかも宝塚記念を加え史上初のてG1競走3連覇のおまけ付きである。オーナーの三野氏は昭和天皇と同い年で、ダービーよりも天皇賞を獲りたがっていた。結果として昭和最後の天皇賞を連覇し、オーナーの願いは最高の形で叶えられたわけである。
続くジャパンカップでは1番人気に支持された。直線先頭に立ったもののアメリカの
ペイザバトラーに交わされ惜しい2着。有馬記念はタマモクロスの引退レースとなった。ジャパンカップに続き1番人気に支持された。レースは出遅れて最後方からの競馬となった。しかし、三分三厘を過ぎて闘争心に火が点いたのか捲りにでて、直線で早めに抜け出した
オグリキャップを捕らえんかという勢いで追い込んできた。結局、
オグリキャップには半馬身届かずの2着と雪辱を許した。しかし勝った馬のその後の活躍を思えば満足するべき内容であった。タマモクロスは年度代表馬に選ばれ、JRAフリーハンデは68キロにランクされた。これは
シンボリルドルフの70キロに次ぐ、史上2位の記録である。
翌年、元号が平成と変わった1989年1月15日、京都競馬場で引退式。引退後は静内アロースタッドで種牡馬として供用された。GI勝ち馬こそ輩出できなかったものの、阪神大賞典など重賞5勝したマイソールサウンド、アメリカJCCなど重賞3勝したカネツクロスなど、サンデーサイレンス旋風が吹き荒れる中でも、コンスタントに活躍する産駒を輩出し、内国産種牡馬としてつねに上位にランキングされる活躍を見せていた。しかし2003年4月腸捻転にて永眠した。
タマモクロスのように急に強くなった馬は珍しい。タマモクロスは食が細く気が弱い面があって、仕上げるのも乗るのも難しい馬で、それ故に本格化までには時間がかかった。それでも小原師、南井騎手とも試行錯誤の連続だったという。。エリートではない雑草のような強さは、ファンの心を捉え、その後の競馬ブームの先鋒となったことは確かである。
2003年2月11日筆
2003年4月16日加筆
2022年4月6日加筆