[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
アイフルは1971年4月16日、北海道静内の佐藤三郎氏の牧場にて生まれた。父セダンは1955年フランス産馬。イタリアで競走馬となり、イタリアダービー、プリンチペアメデオ賞、イタリア大賞、ミラノ大賞典などを含む20戦13勝した。1964年に日本中央競馬会が種牡馬として購入して来日。アイフル以外に、ダービー馬
コーネルランサー、天皇賞馬
スリージャイアンツなどを輩出した。自動車のセダンと同じくとにかく無難で、傑出した産駒は出さないが、クズ馬も出さないという種牡馬成績だった。母グリンロッチは中央での出走はなく地方競馬のD級で引退し、佐藤氏の牧場に戻って繁殖生活に入った。母の父リンボーは1949年アメリカ産馬。「空飛ぶ軍艦」と形容され無敵を誇ったマンノウォーの孫で、脚部に不安がありセリに出されていたのを日本人が買い求め、最終的に後楽園スタジアム社長田邊氏の所有となり23戦9勝の成績を上げた。六歳のレースで故障を発症し、予後不良の診断が下されたが、安楽死に怯えて暴れるうちに脱臼した部分がはまり、安楽死を免れ種牡馬として供用された。代表産駒として天皇賞・春を歴史的な大差で勝った
ヒカルタカイがいる。グリンロッチはのちにアイフルとなる鹿毛の牡馬を出産した1週間後乳が出なくなってしまった。仔馬は人の手によるミルクが与えられて育った。牧場での育成は順調で骨太に育った。
鹿毛の骨太馬は藤本義昭氏が650万円で購入し、東京の仲住芳雄厩舎に入厩した。藤本氏にとって競走馬を所有するのは初めてであった。家族会議が開かれ「愛が降るとか愛が一杯になるように」という願いを込めてアイフルと名付けられた。ただし英馬名はEyefulとされ、これは「目の覚めるような」という意味である。
三歳となった1973年、アイフルは11月18日の東京の新馬戦に初出走した。全く人気がなかったが、同着という珍しい形で勝ち上がった。続く2戦は凡走して三歳を終えた。
四歳になった1974年は1月の条件特別に勝ったものの、皐月賞の前哨戦弥生賞では最下位に敗れ、春のクラシックは諦めた。ダービー当日の駒草賞という条件特別で3勝目を上げた。その後7月のオープン戦を2着、9月から12月まで条件特別を5戦し、3回連続2着して3着に4着であった。オープン馬となるための獲得賞金は1勝分しか上積みできなかったが、5着に入線すれば少なくない賞金が受け取れるので馬主を喜ばせた。
五歳となっても雌伏の時は続いた。1月のダートのニューイヤーSと睦月賞は6着7着と着順掲示板にすら載らなかったが、2月の短距離特別と3月のマーチHCは2着3着であった。3月の三里塚特別で芝に戻って3着、4月の薫風Sと晩春Sは3着と2着、5月の雲取特別は2着、6月のジューンSも2着と書いているだけでももどかしくなるレースが続いた。7月中山の重馬場のジュライSでようやく4勝目を上げ1番人気に応えた。続く新潟のNST賞も勝って連勝。これでようやくオープン馬への階段は見えてきた。しかし格上との対戦となった11月のトパーズSは3着、重賞初挑戦となった
クモハタ記念も3着とはじき返された。それでも年末の900万以下条件戦を勝って、通算6勝目を上げた。
1976年、六歳となったアイフルは休むことなく1月5日の中山の金杯に出走した。
イシノアラシなど大レースの常連が出走していたが、好位から抜け出すと後続に1馬身差をつけて重賞初制覇を果たした。ここまで10戦続けて騎乗してきた菅原泰夫騎手も手応えを感じ取った。これでオープン馬となったアイフルはようやくその才能を開花させていく。続く2月の東京新聞杯は2着、3月の中山記念も2着、4月の京王杯SHは3着と勝てなかったが、5月東京のアルゼンチン共和国杯を嶋田功騎手の騎乗で制した。ここまでアイフルは1600mから2000mを中心に使われてきたが、もともと小柄でステイヤーの体型をしており、この2400mの重賞を勝ったことで陣営は天皇賞を意識するようになった。ところが7月中山2500mの日本経済賞は6着と凡走した。敗因は重馬場と57キロの斤量にあると陣営は見ていた。これまで使い詰めのアイフルはこの夏は休養に充て、10月中山のオープン2着と11月東京のオープン1着を叩いていよいよ天皇賞に挑むことになった。
第74回天皇賞は晴良馬場の東京競馬場で開催された。アイフルは4番人気に支持された。仲住師は初めての3200mという距離、58キロという斤量に不安を口にしていた。当時の天皇賞は一度勝つと二度と出走できない規定があり、その他古馬の出走できる大レースは有馬記念しかなく、宝塚記念は現在ほどの権威はなかった。したがって、現在の天皇賞に比べ出走馬のレベルは相対的に低かった。実際、この天皇賞に出走したG1級勝ち馬は前年の有馬記念を勝った
イシノアラシと同じく菊花賞を勝った
コクサイプリンスだけだった。グランプリ馬の底力を期待して
イシノアラシが1番人気に支持された。2番人気の関西馬ロングホークはアイフルによく似たタイプの2着3着の多い善戦馬で、走ればお金を銜えて戻ってくる「関西商法」と揶揄されていた。レースはそのロングホークが逃げるという意外な展開で始まった。ペースが遅くなる長距離戦では先行馬がそのまま体力を温存させて逃げ切ってしまうことが多い。ロングホーク騎乗の名人武邦彦騎手が絶妙のペース配分で逃げていた。アイフルに騎乗する嶋田騎手は中団に待機した。嶋田騎手はアイフルに距離に対しては不安を感じていなかったが、斤量には自信を持っていなかった。いかに前半で楽をさせて、スタミナを温存し、末脚を発揮させるかを考えた。幸いロングホークが作り出すペースは遅く、嶋田騎手の思惑通りに事が進んだ。やがて直線を迎えた。逃げるロングホークには府中の最後の直線の坂は堪えた。アイフルは残り200mで逃げ足の鈍るロングホークを捉えると、アイフルと同じ位置から追い上げてきたハーバーヤングを1馬身3/4の差をつけてゴールに飛び込んだ。初めて競走馬を所有した馬主の藤本氏はもちろん、開業15年目で初めて所属馬を天皇賞に出走させた仲住師にとっても初制覇となった。ロングホークは春の天皇賞は逃げた
エリモジョージを捉えられず2着、そして今回は逃げて3着に敗れ、ついに大レースを勝つことができなかった。もしロングホークが逃げず、中団待機策をとっていたら、アイフルはすんなり勝てていたいたかどうかわからない。とにかく善戦馬同士の戦いはアイフルに軍配が上がった。続く有馬記念はファン投票は11位で推薦馬で出走。歴史に残る名馬
トウショウボーイ、
テンポイントに続く3着は価値あるものだろう。
1977年七歳となってもアイフルは元気に出走した。1月東京のAJC杯を3着したあと、3月の中山記念をこれも万年善戦馬であるトウフクセダンを下して勝利、5月のアルゼンチン共和国杯は不良馬場、雨、59キロの斤量と悪条件だったが、札幌記念で
トウショウボーイに土をつけたグレートセイカンに3馬身半差をつけて優勝。これで重賞5勝目となった。つづく宝塚記念は
トウショウボーイ、
テンポイント、
グリーングラスの五歳馬三強が出走していたが、彼らに続く4着に入線した。もっともこのレースは6頭立てであった。しかしアイフルはこのレースで前脚の筋を痛め、それでも現役続行を模索したが、屈腱炎を発症し引退が決まった。
アイフルは日本中央競馬会に2800万円で種牡馬として購入され、九州にて繁殖生活に入った。しかしながら九州はは良質な繁殖牝馬に恵まれず、それに比例して種牡馬成績も低迷した。その九州でも需要がなくなり、繋用先を移動しながら、最終的に日本軽種馬協会那須種馬場に腰を下ろした。種牡馬としてはもはや用済みであったが、ファンの暖かい支えもあってその命脈を保った。1999年4月4日、放牧中に転倒し安楽死措置がとられ永眠した。
天皇賞を勝っただけのアイフルを名馬と呼ぶには少々抵抗があるだろう。けれども驚くべきはその戦績にある。通算43戦で重賞5勝を含む12勝、2着13回、3着10回。1着から3着まですべて二桁回数を記録している。これは無類の安定感でこれほど馬主孝行の馬を探すのは難しいだろう。1977年時点で獲得賞金の第1位は障害の名馬
グランドマーチスの3億4千万円、第2位は前述のロングホークの2億5千万円、第3位はこのアイフルの2億4千万円であった。
グランドマーチスが1位なのは当時は障害競走の賞金が平地に比べて相対的に高かったから理解できるが、ロングホークやアイフルが上位にいるのは、日本の競馬の賞金が諸外国に比べて2着以下の賞金が高いことによる。つまり勝てなくても入着回数が多ければ馬主の懐が潤う仕組みになっているのだ。最近はGI競走の数が増えてこのような馬がいわゆる長者番付に載ることはなくなった。晩年は恵まれなかったが、それでもファンの支援を受けられたのは、この律儀に入着を繰り返す真面目さと長い現役生活を支えた丈夫な身体、それとアイフルという愛らしい名前によるものだろう。アイフルはその名の通り人々に愛を振りまいた晩成のステイヤーであった。
2023年9月16日筆