[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
エリモジョージは1972年3月17日、北海道・浦河の出口留雄氏の牧場にて生まれた。父セントクレスピンSaint Crespinは1956年英国産馬で凱旋門賞とエクリップスSを含む6戦4勝。桜花賞馬
エルプスやダービー馬
ミホノブルボンを輩出したマグニテュードの母であるアルテッスロワイヤルなど優秀な産駒を欧州に残して、1971年より日本で供用。代表産駒としては、英国時代の持ち込み馬で1973年天皇賞・春を勝ったタイテイム、1600mの日本レコードホルダーだったアイノクレスピンがいる。母パッシングミドリは中央で14戦4勝。明治時代に基礎牝馬として小岩井農場が輸入したビューチフルドリーマーの血を引いている。ビューチフルドリーマーの子孫には五冠馬
シンザンを筆頭に、現在まで続く日本の一大牝系の祖となった。母の父ワラビーWallabyは1955年フランス産馬で15戦6勝。代表産駒としては1971年天皇賞・春を勝った
メジロムサシらがいる。母の父としてはエリモジョージの他に地方競馬出身で宝塚記念を勝った
カツアール、中山大障害を連覇したオキノサキガケらを輩出している。
見栄えのしない小柄な鹿毛の馬は、「エリモ」の冠号で知られる山本慎一氏の持ち馬となり、エリモジョージと名付けられ、栗東・大久保正陽厩舎に入厩した。1974年三歳の8月、函館の新馬戦で初出走。これは2着だったが折り返しの新馬戦を5馬身差で勝ち上がった。阪神のデイリー杯三歳ステークスは14着と凡走したが、次走の条件特別を勝って、阪神三歳ステークスに挑戦した。福永洋一騎手を背に果敢に逃げて粘り、ライジンの3着であった。
1975年四歳となったエリモジョージは1月の
シンザン記念に早々と姿を現した。道中控えて、直線で先頭に立ち、荒れた内を避けて、大外から伸びてキョウワジャンボ以下に完勝する上々の内容であった。ちなみに七歳まで現役を続けたエリモジョージが1番人気で勝ったのはこのレースが最後である。続く毎日杯を1番人気で6着、スプリングSを2番人気で7着と期待を裏切ったので、皐月賞は9番人気に落ちた。しかし
カブラヤオー、ロングホークに次ぐ3着と好走。そこでNHK杯は3番人気で迎えられたが、初体験の不良馬場で12着。ダービーは良馬場で4番人気であったが、やはり12着であった。いずれも勝ったのは
カブラヤオー。稀代の逃げ馬相手ではどうしようもなかった。
7月の札幌記念も12着に敗れ、エリモジョージはえりも農場で休養に入った。しかしここで災難に見舞われる。8月14日午後2時半頃、原因不明の出火で、牧場の厩舎が全焼し、競走馬7頭、乗馬10頭が焼死した。エリモジョージは奇跡的に難を逃れた。しかしこの後遺症から年内の休養を余儀なくされた。
1976年五歳となったエリモジョージは、池添兼雄を鞍上に迎え1月京都、2月中京のオープンの二叩きし、3月になって大阪杯と鳴尾記念を逃げてともに3着し復調気配を見せていた。
第73回天皇賞・春は4月29日、雨・不良馬場の京都競馬場で開催された。前年ダービー馬カブラオーは未だ復調せず、菊花賞馬の
コクサイプリンス、有馬記念馬
イシノアラシ、クラシックで上位入線したロングホーク、ロングファストらが人気を集めた。ちなみに同一馬主のロング2騎は安定感のあるロングホークで着を拾い、ロングファストは後方待機から一発を狙うのがパターンであった。エリモジョージは復調気配にあり、天才・福永洋一騎手が騎乗するという好材料がありながら、重馬場で実績がないことから17頭立ての11番人気でしかなかった。しかし福永騎手には秘策があった。常に後続との距離を測りながら、捕まりそうで捕まらない絶妙のペースで逃げた。距離を測るといっても常に後ろを振り向いていたわけではない。福永騎手の天才的な感性で測っていたのである。エリモジョージは馬場のやや外目を逃げる。人気の4頭は中団から後方につけていた。4コーナーを最初に回ったのはエリモジョージ。4強のうちロングホークが武邦彦騎乗のエリモジョージに襲いかかる。福永騎手は必死に追い、愛馬を激励する。前半を楽に逃げたエリモジョージ、馬場の悪いところを通ってきたロングホークの差はゴール前クビの差となって現れた。このレースを実況した関西テレビ杉本アナウンサーは「見てるか天国の仲間たち、俺はお前たちの分まで走ったぞ!勝ったのはエリモジョージです。何もないえりもに春を告げた」と、前年の火災と森進一のヒット曲「襟裳岬」の歌詞に掛けた名実況を残している。
宝塚記念は池添兼雄に手戻りし、前年秋の天皇賞馬
フジノパーシアと対決したが、9着に完敗。その後札幌の短距離Sと函館の巴賞を6着、4着と背信行為。ところが函館記念は60キロを背負いながら、2着馬に7馬身差のレコード勝ちを収めた。これで評価を持ち直したエリモジョージは京都大賞典を2番人気で迎えられた。しかし56キロの斤量で9着。ちなみにこのレースで3着したのが
テンポイントである。次走の京都記念は61キロ。いくらなんでも、と5番人気に落ちると2400mを2分25秒8と当時の日本レコードで快走した。鞍上の福永騎手は「天皇賞の出来にはなかった。それなのに61キロを背負って日本レコードなんて理由がわからない」と首をかしげた。次走
クモハタ記念は63キロで4着。有馬記念は福永騎手がお手馬の四歳馬
トウショウボーイでなく、エリモジョージを選んだこともあってか、前売りで1番人気に支持されるほどだった。最終的には2番人気であったが、結果は6着。外国産馬スピリットスワプスに出鼻をくじかれマイペースの逃げに持ち込めなかった。レコード勝ちの
トウショウボーイ、2着
テンポイントという歴史的な名馬の前に沈んだ。
1977年六歳となったエリモジョージは低迷に陥る。5月まで4連敗を含む5連敗で脚部不安を発症して休養。復帰した11月27日中京のオープンで漸く1勝をあげた。有馬記念は諦めて年末の阪神大賞典に出走。2番人気と期待されたが9着。そろそろ潮時かと思われた。
1978年7歳となったエリモジョージは1月の日経新春杯から始動。60キロを背負って4着。ちなみにこのレースで66.5キロを背負い骨折したのがあの
テンポイントである。この日経新春杯後、福永騎手に手替わりしたエリモジョージは快進撃をはじめる。まず京都記念を60キロを背負いながら逃げきり勝ち。次の鳴尾記念も62キロを背負いながら、前年秋の天皇賞馬
ホクトボーイに大差をつける逃げ切った。
第19回宝塚記念は7頭という小頭数ながらエリモジョージ、
ホクトボーイ、
グリーングラスの3頭の天皇賞馬が出走する豪華版になった。エリモジョージは外枠を好スタートからハナを奪うと、マイペースの逃げに持ち込んだ。
グリーングラス、
ホクトボーイは何も仕掛けられないまま、あれよあれよと
グリーングラスを4馬身差をつけて圧勝。鞍上の福永騎手は「馬が常識にかかるようになり、精神的に成長した」とエリモジョージに最大級の賛辞を贈った。
しかしこの福永騎手の本格化宣言をあざ笑うかのように、その後のエリモジョージは連敗街道に突入してしまう。高松宮杯、京都大賞典、京都記念と1番人気に支持されながら、8着、4着、6着。有馬記念も7着で、勝った
カネミノブに年度代表馬を奪われた。
1979年八歳となってもエリモジョージは現役を続行した。しかしもはや闘志は失われていた。かつては苦にしなかった60キロを越える斤量は確実に逃げ脚を鈍らせ、京都記念、大阪杯、スワンSを10着、9着、7着。宝塚記念は勝った
サクラショウリの前に抵抗することなく、15頭立て13着に惨敗。陣営は漸く引退を決意した。引退式の日、エリモジョージの10勝のうち7勝をあげ当然鞍上にいるべきであった福永洋一騎手の姿はなかった。彼は3ヶ月前の毎日杯で騎手再起不能となる落馬事故に巻き込まれていたのである。
エリモジョージは翌1980年、門別のインターナショナル牧場にて種牡馬となり、44頭の牝馬を得て、26頭が生まれた。翌年浦河の東部種馬センターに移った。しかし産駒は父に似て気性難な馬が多く、種牡馬としては大成しなかった。産駒でわずかに記憶に残るものとしては、条件馬でありながら、
タマモクロスと
オグリキャップが激突した1988年の天皇賞・秋に出走、最下位で入線したパリスベンベぐらいであろう。1985年秋には故郷のえりも牧場に戻り、1987年には種牡馬を引退。2001年4月10日当牧場にて永眠した。
人気を背負えば惨敗、人気が落ちれば圧勝というエリモジョージは「気まぐれジョージ」の愛称でファンに親しまれた。調教、毛づや、気合乗り、斤量、相手関係など一般的な予想情報は、この馬に関してはまったく通用しなかった。主戦を務めた福永洋一騎手は「僕にもさっぱりわからへん。ゲートを出て一完歩二完歩して『あっ、今日はいけそうやな』と感じるだけや。もし前もってわかったら教えておくれ」とコメントを残している。このエリモジョージの前には
カブトシロー、エリモジョージの後には
ダイタクヘリオスが同タイプのクセ馬として知られている。もしこの3頭が一緒に走ったら、どのような結果になるだろうか。そんな想像をしてみることも競馬ファンの楽しみであり、このような個性派はただ単に強いだけの馬よりも、ファンの記憶に残るものであろう。
2008年4月6日筆