[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
メイショウドトウは1996年3月、アイルランドにて生まれた。父Bigstoneは1990年アイルランド産。ノーザンダンサーの孫ラストタイクーンを父に持ち、現役時は17戦6勝。サセックスS(英G1)、クイーンエリザベスS(英G1)、イスバーン賞(仏G1)、フォレ賞(仏G1)などの勝ち鞍があり、イスバーン賞が1850mであることを除けば、全てマイル戦である。それなりに期待を集めて種牡馬となったが、産駒成績は芳しくなく、中国へ輸出されるという話もあったという。1995年よりアイルランドとニュージーランドでシャトル供用されている。Bigstone産駒は何頭か日本に輸入されてるが、いずれも地方所属馬であり、中央で重賞を勝った馬はメイショウドトウに限られる。メイショウドトウの母プリンセスローマPrincess Reema はアメリカ産馬で現役時は不出走。その父アムファードAffirmedは米国三冠馬で、現役時29戦22勝の名馬。母の父としてはメイショウドトウの他に、1999年菊花賞馬
ナリタトップロード、1998年阪神三歳牝馬Sを勝った
スティンガーなどを出している。プリンセスローマの母First Flingの父は最後の英国三冠馬ニジンスキーである。ちなみにプリンセスローマは2001年より日本で供用されている。血統表を眺めてみれば、ノーザンダンサーが4x4でクロスしており、よく知られた種牡馬が名を連ねるとはいえ、この程度の血統背景の馬は珍しくもない。鹿毛のバランスのとれた馬体で性格も素直そうだとはいえ、市場での購買価格が500万円と安かったのは、この父の知名度の低さが影響しているといえなくもない。育成は
ミホシンザンなどを育てた浦河・日進牧場で行われた。
メイショウの冠号で知られる松本好雄氏の持ち馬として、栗東の安田伊佐夫厩舎に入厩したメイショウドトウは、購買価格からして大きな期待をされることなく、四歳1999年1月京都のダート1800m新馬戦に初出走した。鞍上の安田康彦騎手は安田伊佐夫調教師の息子で、このメイショウドトウのほとんどのレースに騎乗することになる。この初戦は2着だったが、折り返しの同距離の新馬戦を勝ちあがった。続く3月阪神の条件戦は初の不良馬場とあって4着に敗れた。当時、外国産馬はクラシック競走に出走権はなく、春はNHKマイルカップが目標となっていた。メイショウドトウはデビューが遅かったためにそれすら出走できず、中京のオープン特別を1着と8着した。続いて札幌に遠征し、ここで初めて芝で使った。はじめての1500m戦は8着だったが、続く1800mは4着、そして準強豪がそろう2000m道新スポーツ賞は重馬場で11頭立ての8番人気と低評価だったが2着した。この札幌遠征で自信をつけたのか、10月京都の嵯峨野特別、ドンカスターSを連勝。12月阪神の六甲ステークスは
スペシャルウィークと
グラスワンダーが史上に残る競り合いを演じた有馬記念の直後に行われた。メイショウドトウは1番人気に支持された。ところが11頭立ての最下位に敗れてしまった。この馬が1年後有馬記念で、ハナ差の勝負を演じると思った人は少なかったに違いない。
2000年五歳、メイショウドトウは1月京都の日経新春杯から始動した。前走の大敗で反省させるためか、安田師は息子の康彦騎手を下ろし、武幸四郎騎手を起用した。8番人気と評価は低かったが、53キロのハンデもあって2着に粘った。続く中京記念では安田康彦騎手に手綱が戻り、重賞初制覇を果たした。さらに天皇賞を目指す馬が集う日経賞に出走し、これは3着だった。当時、外国産馬は勝たなければ、天皇賞に出走できなかった。4月末東京のメトロポリタンステークスに出走、57キロを背負いながらも、1番人気に応えて勝った。これで陣営は宝塚記念を目標に据えることを決めた。本番前の前哨戦として中京の金鯱賞を選び、これに勝って宝塚記念に挑むことになった。この宝塚記念には2頭の強豪馬が出走していた。1頭はメイショウドトウの同い年で前年の皐月賞馬
テイエムオペラオー、もう一頭は前年の有馬記念を制した
グラスワンダーである。重賞2勝馬とはいえ、強豪とは初対決となるメイショウドトウが11頭立ての6番人気なのは仕方のないことであった。安田康彦騎手が騎乗停止のため、河内洋騎手で挑んだメイショウドトウは2強相手に互角以上の勝負をした。直線を迎え
グラスワンダーに伸び脚が見られず、
テイエムオペラオーが一歩抜け出したところへ、内からメイショウドトウが襲いかかった。勝ったオペラオーにクビ差の2着であった。この宝塚記念がその後長く続く
テイエムオペラオーとの戦いの序幕であった。
2000年五歳秋、天皇賞・秋への出走権を獲得するべく、的場均騎手を背に中山のオールカマーに出走しこれに快勝。
テイエムオペラオーの待つ天皇賞・秋に挑んだ。ここは
テイエムオペラオーが1番人気馬は秋の天皇賞に勝てないというジンクスを吹き飛ばす快勝で、メイショウドトウは人気通りの2着。続くジャパンカップは安田康彦騎手の手に戻り5番人気であったが、ドバイからやってきた強豪ファンタスティックライトをハナの差競り落とした。しかしやはりゴール線上ではクビの差先に
テイエムオペラオーがいた。そして有馬記念も早めに抜け出し勝利を手に入れたと思われたところへ、絶望的な位置からの
テイエムオペラオーの追い込みが決まり、メイショウドトウはハナの差涙を飲んだ。この年のメイショウドトウは
テイエムオペラオーの完全な引き立て役であった。
2001年新馬齢表記で5歳となったメイショウドトウの初戦は、中山の日経賞であった。外国産馬であるため勝たなければ天皇賞への出走権はない。ここは圧倒的1番人気で勝った。天皇賞・春は
テイエムオペラオーと
ナリタトップロードと三強を形成し他の馬の追随を許さなかった。しかしここでも日経賞で目一杯仕上げないといけない外国産馬の弱みと、レース直前の雨が
テイエムオペラオーに味方して、オペラオーの2着に敗れた。
第42回宝塚記念は晴れ、良馬場で開催された。史上初の宝塚記念連覇を目指す
テイエムオペラオーが1番人気に支持された。メイショウドトウはオペラオーに続く2番人気であった。この年のオペラオーは初戦の大阪杯を伏兵馬の4着に敗れ、雨に恵まれて天皇賞・春には勝ったものの、昨年のG15勝を含む8戦全勝した勢いはなかった。メイショウドトウ陣営はつけいる隙は十分あると考えていたし、血統的にはメイショウドトウの父Big Stoneはマイラーであり、2200mの距離は歓迎材料であった。それに
テイエムオペラオーに再三再四苦杯を舐めさせられ続けているメイショウドトウにも、そろそろG1勝利の勲章を、それもオペラオーを下す形で、獲らせてあげたいという、ファンの判官贔屓的な期待もあったように思われた。安田師は息子の安田康彦騎手に積極的に前で競馬するように指示した。
テイエムオペラオーは並ばれたら抜かせない優れた勝負根性を持っていた。ただしスタートは少々図太ところがあって後方からの競馬が常であった。したがってメイショウドトウとしてはできる限り前に位置し、できる限り脚を貯めて、オペラオーの追撃を振り切るしかないと考えたのである。安田騎手は父の指示をよく守り、4番手に位置し、スローペースで流れた。オペラオーは4コーナーでも後方に位置した。しかしここでオペラオーは不利を受け大きく後退してしまう。こうなると前を行くメイショウドトウに分があった。逃げていたホットシークレットを交わしてゴールに向かって疾走する。
テイエムオペラオーは体制を立て直しよく脚を伸ばしたが、ホットシークレットをハナの差交わしての2着に入るのが精一杯で、メイショウドトウとは1馬身1/4の差があった。メイショウドトウは
テイエムオペラオーに一矢報い、G1競走に初勝利した。同時に松本好雄オーナーに馬主歴28年目にして初G1タイトルをもたらした。また安田調教師、安田騎手とも初めてのG1勝利となった。
2001年5歳秋はライバルである
テイエムオペラオーの不振に調子を合わせるかのような成績であった。初戦の天皇賞・秋は
アグネスデジタル、
テイエムオペラオーに遅れる3着。ジャパンカップは
ジャングルポケット、
テイエムオペラオーの競り合いに加わることもできない5着。
テイエムオペラオーもメイショウドトウも引退レースとなった有馬記念は新旧交代を印象づけられるかのように3歳馬
マンハッタンカフェの4着に敗れた。しかし
テイエムオペラオーは5着で最後の戦いは先着できた。
翌2002年1月13日、京都競馬場で
テイエムオペラオーと合同で引退式が行われた。そして両馬は同じイーストウッドで種牡馬生活に入った。2005年産駒は79頭の種付けで65頭誕生と非常に受精率は良好。しかしライバルの
テイエムオペラオー共々、良質な繁殖牝馬と配合されていないせいか、中央では新馬戦を勝ち上がる馬を輩出するのが精一杯で、ライジングウェーブが2003年の大井記念を勝ったに留まった。2017年より功労馬として認定NPO法人引退馬協会に譲渡され、2021年より北海道新冠町のノーザンレイクで繋養されている。ノーザンレイクには
タイキシャトルもいる。ライバルの
テイエムオペラオーは2018に永眠しており、メイショウドトウはライバルよりもできるだけ長生きすることがいまや課せられた使命といえるだろう。
2006年10月31日筆
2022年4月3日加筆