アイフル成績
1971/4/16生 1999/4/4没
牡  鹿毛
父:セダン 母:グリンロッチ (by リンボ)
生産者:静内・佐藤三郎(JPN)
馬主:藤本義昭氏
調教師:仲住芳雄(東京)

・中央所属時成績
三歳時 2戦 1勝
四歳時12戦 2勝
五歳時14戦 3勝
六歳時10戦 4勝 天皇賞・秋
七歳時 5戦 2勝
中央通算 43戦12勝
全通算 43戦12勝
[解 説]当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
 アイフルは1971年4月16日、北海道静内の佐藤三郎氏の牧場にて生まれた。父セダンは1955年フランス産馬。イタリアで競走馬となり、イタリアダービー、プリンチペアメデオ賞、イタリア大賞、ミラノ大賞典などを含む20戦13勝した。1964年に日本中央競馬会が種牡馬として購入して来日。アイフル以外に、ダービー馬コーネルランサー、天皇賞馬スリージャイアンツなどを輩出した。自動車のセダンと同じくとにかく無難で、傑出した産駒は出さないが、クズ馬も出さないという種牡馬成績だった。母グリンロッチは中央での出走はなく地方競馬のD級で引退し、佐藤氏の牧場に戻って繁殖生活に入った。母の父リンボーは1949年アメリカ産馬。「空飛ぶ軍艦」と形容され無敵を誇ったマンノウォーの孫で、脚部に不安がありセリに出されていたのを日本人が買い求め、最終的に後楽園スタジアム社長田邊氏の所有となり23戦9勝の成績を上げた。六歳のレースで故障を発症し、予後不良の診断が下されたが、安楽死に怯えて暴れるうちに脱臼した部分がはまり、安楽死を免れ種牡馬として供用された。代表産駒として天皇賞・春を歴史的な大差で勝ったヒカルタカイがいる。グリンロッチはのちにアイフルとなる鹿毛の牡馬を出産した1週間後乳が出なくなってしまった。仔馬は人の手によるミルクが与えられて育った。牧場での育成は順調で骨太に育った。
 鹿毛の骨太馬は藤本義昭氏が650万円で購入し、東京の仲住芳雄厩舎に入厩した。藤本氏にとって競走馬を所有するのは初めてであった。家族会議が開かれ「愛が降るとか愛が一杯になるように」という願いを込めてアイフルと名付けられた。ただし英馬名はEyefulとされ、これは「目の覚めるような」という意味である。
 三歳となった1973年、アイフルは11月18日の東京の新馬戦に初出走した。全く人気がなかったが、同着という珍しい形で勝ち上がった。続く2戦は凡走して三歳を終えた。
 四歳になった1974年は1月の条件特別に勝ったものの、皐月賞の前哨戦弥生賞では最下位に敗れ、春のクラシックは諦めた。ダービー当日の駒草賞という条件特別で3勝目を上げた。その後7月のオープン戦を2着、9月から12月まで条件特別を5戦し、3回連続2着して3着に4着であった。オープン馬となるための獲得賞金は1勝分しか上積みできなかったが、5着に入線すれば少なくない賞金が受け取れるので馬主を喜ばせた。
 五歳となっても雌伏の時は続いた。1月のダートのニューイヤーSと睦月賞は6着7着と着順掲示板にすら載らなかったが、2月の短距離特別と3月のマーチHCは2着3着であった。3月の三里塚特別で芝に戻って3着、4月の薫風Sと晩春Sは3着と2着、5月の雲取特別は2着、6月のジューンSも2着と書いているだけでももどかしくなるレースが続いた。7月中山の重馬場のジュライSでようやく4勝目を上げ1番人気に応えた。続く新潟のNST賞も勝って連勝。これでようやくオープン馬への階段は見えてきた。しかし格上との対戦となった11月のトパーズSは3着、重賞初挑戦となったクモハタ記念も3着とはじき返された。それでも年末の900万以下条件戦を勝って、通算6勝目を上げた。
 1976年、六歳となったアイフルは休むことなく1月5日の中山の金杯に出走した。イシノアラシなど大レースの常連が出走していたが、好位から抜け出すと後続に1馬身差をつけて重賞初制覇を果たした。ここまで10戦続けて騎乗してきた菅原泰夫騎手も手応えを感じ取った。これでオープン馬となったアイフルはようやくその才能を開花させていく。続く2月の東京新聞杯は2着、3月の中山記念も2着、4月の京王杯SHは3着と勝てなかったが、5月東京のアルゼンチン共和国杯を嶋田功騎手の騎乗で制した。ここまでアイフルは1600mから2000mを中心に使われてきたが、もともと小柄でステイヤーの体型をしており、この2400mの重賞を勝ったことで陣営は天皇賞を意識するようになった。ところが7月中山2500mの日本経済賞は6着と凡走した。敗因は重馬場と57キロの斤量にあると陣営は見ていた。これまで使い詰めのアイフルはこの夏は休養に充て、10月中山のオープン2着と11月東京のオープン1着を叩いていよいよ天皇賞に挑むことになった。
 第74回天皇賞は晴良馬場の東京競馬場で開催された。アイフルは4番人気に支持された。仲住師は初めての3200mという距離、58キロという斤量に不安を口にしていた。当時の天皇賞は一度勝つと二度と出走できない規定があり、その他古馬の出走できる大レースは有馬記念しかなく、宝塚記念は現在ほどの権威はなかった。したがって、現在の天皇賞に比べ出走馬のレベルは相対的に低かった。実際、この天皇賞に出走したG1級勝ち馬は前年の有馬記念を勝ったイシノアラシと同じく菊花賞を勝ったコクサイプリンスだけだった。グランプリ馬の底力を期待してイシノアラシが1番人気に支持された。2番人気の関西馬ロングホークはアイフルによく似たタイプの2着3着の多い善戦馬で、走ればお金を銜えて戻ってくる「関西商法」と揶揄されていた。レースはそのロングホークが逃げるという意外な展開で始まった。ペースが遅くなる長距離戦では先行馬がそのまま体力を温存させて逃げ切ってしまうことが多い。ロングホーク騎乗の名人武邦彦騎手が絶妙のペース配分で逃げていた。アイフルに騎乗する嶋田騎手は中団に待機した。嶋田騎手はアイフルに距離に対しては不安を感じていなかったが、斤量には自信を持っていなかった。いかに前半で楽をさせて、スタミナを温存し、末脚を発揮させるかを考えた。幸いロングホークが作り出すペースは遅く、嶋田騎手の思惑通りに事が進んだ。やがて直線を迎えた。逃げるロングホークには府中の最後の直線の坂は堪えた。アイフルは残り200mで逃げ足の鈍るロングホークを捉えると、アイフルと同じ位置から追い上げてきたハーバーヤングを1馬身3/4の差をつけてゴールに飛び込んだ。初めて競走馬を所有した馬主の藤本氏はもちろん、開業15年目で初めて所属馬を天皇賞に出走させた仲住師にとっても初制覇となった。ロングホークは春の天皇賞は逃げたエリモジョージを捉えられず2着、そして今回は逃げて3着に敗れ、ついに大レースを勝つことができなかった。もしロングホークが逃げず、中団待機策をとっていたら、アイフルはすんなり勝てていたいたかどうかわからない。とにかく善戦馬同士の戦いはアイフルに軍配が上がった。続く有馬記念はファン投票は11位で推薦馬で出走。歴史に残る名馬トウショウボーイテンポイントに続く3着は価値あるものだろう。
 1977年七歳となってもアイフルは元気に出走した。1月東京のAJC杯を3着したあと、3月の中山記念をこれも万年善戦馬であるトウフクセダンを下して勝利、5月のアルゼンチン共和国杯は不良馬場、雨、59キロの斤量と悪条件だったが、札幌記念でトウショウボーイに土をつけたグレートセイカンに3馬身半差をつけて優勝。これで重賞5勝目となった。つづく宝塚記念はトウショウボーイテンポイントグリーングラスの五歳馬三強が出走していたが、彼らに続く4着に入線した。もっともこのレースは6頭立てであった。しかしアイフルはこのレースで前脚の筋を痛め、それでも現役続行を模索したが、屈腱炎を発症し引退が決まった。
 アイフルは日本中央競馬会に2800万円で種牡馬として購入され、九州にて繁殖生活に入った。しかしながら九州はは良質な繁殖牝馬に恵まれず、それに比例して種牡馬成績も低迷した。その九州でも需要がなくなり、繋用先を移動しながら、最終的に日本軽種馬協会那須種馬場に腰を下ろした。種牡馬としてはもはや用済みであったが、ファンの暖かい支えもあってその命脈を保った。1999年4月4日、放牧中に転倒し安楽死措置がとられ永眠した。
 天皇賞を勝っただけのアイフルを名馬と呼ぶには少々抵抗があるだろう。けれども驚くべきはその戦績にある。通算43戦で重賞5勝を含む12勝、2着13回、3着10回。1着から3着まですべて二桁回数を記録している。これは無類の安定感でこれほど馬主孝行の馬を探すのは難しいだろう。1977年時点で獲得賞金の第1位は障害の名馬グランドマーチスの3億4千万円、第2位は前述のロングホークの2億5千万円、第3位はこのアイフルの2億4千万円であった。グランドマーチスが1位なのは当時は障害競走の賞金が平地に比べて相対的に高かったから理解できるが、ロングホークやアイフルが上位にいるのは、日本の競馬の賞金が諸外国に比べて2着以下の賞金が高いことによる。つまり勝てなくても入着回数が多ければ馬主の懐が潤う仕組みになっているのだ。最近はGI競走の数が増えてこのような馬がいわゆる長者番付に載ることはなくなった。晩年は恵まれなかったが、それでもファンの支援を受けられたのは、この律儀に入着を繰り返す真面目さと長い現役生活を支えた丈夫な身体、それとアイフルという愛らしい名前によるものだろう。アイフルはその名の通り人々に愛を振りまいた晩成のステイヤーであった。
2023年9月16日筆
競走成績
日付 競馬場 競走名 距離 馬場 頭数 人気 着順 時計 騎手 斤量 馬体重 1着馬(2着馬)
1973/11/18 東京 新馬 1200 5 4 1 1:12.6 赤羽秀男 52 438 (シンストーム)
1973/12/16 中山 200万下 1600 14 5 2 1:37.0 赤羽秀男 52 438 ハマヒューガ
1974/1/6 東京 200万下 ダ1400 14 2 7 1:29.5 赤羽秀男 53 436 サンコウセン
1974/1/19 東京 椿賞 1600 9 3 1 1:37.7 菅原泰夫 54 442 (ヒデミツ)
1974/3/3 中山 オープン 1600 8 6 8 1:39.9 菅原泰夫 56 434 ニシキエース
1974/3/3 中山 弥生賞 1800 8 8 8 1:52.9 菅原泰夫 55 430 カーネルシンボリ
1974/5/4 東京 オープン 1600 7 3 2 1:36.4 赤羽秀男 56 432 インターグッド
1974/5/26 東京 駒草賞 2000 7 1 1 2:05.3 赤羽秀男 54 440 (トキノオウシン)
1974/7/6 中山 オープン 1600 7 3 2 1:38.3 中島啓之 55 436 ブルームーン
1974/9/21 東京 セプテンバーステークス 1600 13 3 2 1:35.3 赤羽秀男 54 442 ケンセダン
1974/10/12 中山 京葉特別 2000 9 3 2 2:02.2 赤羽秀男 54 434 ストロングナイン
1974/11/2 東京 霜月賞 2000 7 1 2 2:02.4 赤羽秀男 54 442 マークリボーイ
1974/11/23 東京 ユートピアステークス 2000 10 1 3 2:03.6 赤羽秀男 54 444 ベルロイヤル
1974/12/21 中山 クリスマスハンデ 2200 12 1 4 2:18.8 赤羽秀男 55 444 キクノオー
1975/1/6 東京 ニューイヤーステークス ダ1700 15 6 6 1:45.5 赤羽秀男 55 448 トウショウプリンス
1975/1/19 東京 睦月賞 ダ2200 11 4 7 2:20.6 赤羽秀男 55 446 カイキオー
1975/2/16 東京 短距離特別 ダ1400 8 6 2 1:25.7 赤羽秀男 55 444 クリマンナ
1975/3/8 中山 マーチハンデ ダ1700 10 3 3 1:47.5 赤羽秀男 56 446 ワンサバンナ
1975/3/23 中山 三里塚特別 2200 8 2 3 2:20.2 赤羽秀男 55 444 マサデンセイ
1975/4/13 中山 薫風ステークス 1600 10 2 3 1:36.4 菅原泰夫 55 442 モンパルナス
1975/4/26 東京 晩春特別 2000 10 2 2 2:05.3 菅原泰夫 55 446 ホッカイダイヤ
1975/5/24 東京 雲取特別 2000 12 1 2 2:03.7 菅原泰夫 55 442 サンワエイト
1975/6/15 中山 ジューンステークス 2000 12 2 2 2:03.1 菅原泰夫 55 434 アグネスビュー
1975/7/5 中山 ジュライステークス 1600 10 1 1 1:36.5 菅原泰夫 55 432 (マーシャルシンボリ)
1975/7/27 新潟 NST賞 1600 9 1 1 1:34.9 菅原泰夫 54.5 436 (アローフォンテン)
1975/11/3 中山 クモハタ記念 1800 10 3 3 1:50.9 菅原泰夫 54 434 ハーバーヤング
1975/11/15 東京 トパーズステークス 1800 13 1 3 1:53.5 菅原泰夫 56 442 ナスノスピード
1975/12/21 中山 900万下 1800 11 1 1 1:51.0 菅原泰夫 56 444 (メイファイター)
1976/1/5 東京 金杯・東 2000 14 4 1 2:03.1 菅原泰夫 54 448 (フロリオーギ)
1976/2/8 東京 東京新聞杯 2000 14 2 2 2:02.4 嶋田功 56 456 アグネスビュー
1976/3/14 中山 中山記念 1800 13 3 2 1:50.6 菅原泰夫 55 456 ヤマブキオー
1976/4/25 東京 京王杯スプリングハンデ 1800 15 1 3 1:49.2 菅原泰夫 57 458 ヤマブキオー
1976/5/16 東京 アルゼンチン共和国杯 2400 12 3 1 2:27.7 嶋田功 55 454 (オウブレス)
1976/7/4 中山 日本経済賞 2500 10 2 6 2:38.3 菅原泰夫 57 442 ホワイトフォンテン
1976/10/23 中山 オープン 1800 9 2 2 1:49.4 嶋田功 56 448 ヤマブキオー
1976/11/13 東京 オープン 1600 6 2 1 1:36.1 嶋田功 56 450 (ヤマブキオー)
1976/11/28 東京 天皇賞・秋 3200 13 4 1 3:20.6 嶋田功 58 452 (ハーバーヤング)
1976/12/19 中山 有馬記念 2500 14 4 3 2:34.5 菅原泰夫 55 448 トウショウボーイ
1977/1/23 東京 アメリカジョッキークラブカップ 2400 13 1 3 2:27.0 嶋田功 58 462 グリーングラス
1977/2/27 中山 オープン 1600 14 2 3 1:36.8 鹿野則夫 57 452 ヤマブキオー
1977/3/13 中山 中山記念 1800 8 2 1 1:49.2 嶋田功 58 452 (トウフクセダン)
1977/5/15 東京 アルゼンチン共和国杯 2400 7 1 1 2:34.4 嶋田功 59 454 (グレートセイカン)
1977/6/5 阪神 宝塚記念 2200 6 4 4 2:14.8 嶋田功 55 442 トウショウボーイ
距離別実績
距離区分 1着 2着 3着 連対率 主な勝鞍
1400m未満 11001.000
1400〜1900m未満 196650.632
ダート1400〜1900m未満 40110.250
1900〜2200m未満 92610.889
2200〜2800m未満 82030.250
ダート2200〜2800m未満 10000.000
2800m以上 11001.000 1976天皇賞・秋
芝コース通算38121290.632 
ダートコース通算50110.200 
競馬場別実績
競馬場 1着 2着 3着 連対率 主な勝鞍
中山193660.474
阪神10000.000
東京228740.682 1976天皇賞・秋
新潟11001.000
通算431213100.581 

5代血統表
セダン
Sedan
1955 鹿
Prince Bio Prince Rose Rose Prince Prince Palatine
Eglantine
Indolence Gay Crusader
Barrier
Biologie Bacteriophage Tetratema
Pharmacie
Eponge Cadum
Sea Moss
Staffa Orsenigo Oleander Prunus
Orchidee
Ostana Havresac
Olba
Signa Ortello Teddy
Hollebeck
Superga Michelangelo
Suna
グリンロッチ
1965 黒鹿
リンボー War Admiral Man o'War Fair Play
Mahubah
Brushup Sweep
Annette K.
Boojie Boojum John P.Grier
Elf
Foxiana Stefan the Great
Istar
ミスズクイン ヒンドスタン Bois Roussel Vatout
Plucky Liege
Sonibai Solario
Udaipur
カツエー ハクリュウ ラシデヤー
フロリスト
昭英 Blink
クレイグダーロッチ
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