[解 説]
当HPでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
オペックホースは、1977年3月5日に北海道沙流郡鵡川町の鵡川牧場で生まれた。父リマンドは1965年英国生まれ。北海道自老の社台牧場の吉田善一氏が競走馬時代から目をつけて、1969年に輸入した栗毛。有名な長距離馬アルサイド、アリシドン、ドナテロヘと続くプランドフオード系の種牡馬で、英仏伊3カ国で10戦し、6ハロンから12ハロンの距離で6勝、英国ダービーはサーアイヴアーの4着であった。1984年4月に心臓マヒで死亡するまで1979年のオークス馬
アグネスレディー、1980年のオークス馬
テンモン、1987年のエリザベス女王杯を勝って
マックスビューティの牝馬三冠を阻止した
タレンティドガール、1982年羽田盃、東京ダービー、東京王冠賞、東京大賞典を勝って南関東公営四冠を達成したサンオーイなどを輩出している。母ホースジョーは3〜5歳時に25戦して3歳牝馬S、BSN杯など1800m以下で6勝をあげた。1955年1月に亡くなった競馬専門紙ホースニュース「馬」社の故・角田二郎オーナーの持ち馬で、仔分けとして鵡川牧場に預けられた。1970年に繁殖入りしてから仔出しがよく、オペックホースを産むまでの7年間に6頭の母親となった。産駒では姉の5勝したエバートホースが目立つ程度だが、全兄に10勝したキャットエイト、半妹に1974年のクイーンカップを勝ったレスターホースを出したホースマメールがいる。また曾祖母ステツプホースの父
クモノハナは1950年のダービー馬である。母ホースジョーの父テューダーペリオッドは1957年英国産馬で現役時代は17戦4勝。ホワイトローズS、サンドリンガムSなどが主な勝ち鞍で、1962年に輸入後、菊花賞馬
ハシハーミット、宝塚記念を勝った
ハマノパレードなどを輩出している。
オペックホースは競馬専門紙ホースニュース「馬」社を経営する角田二郎氏の持ち馬として栗東・佐藤勇厩舎に入厩した。角田氏は愛馬を世界の石油を制するOPEC(石油輸出国機構)のごとくサラブレッドの王者となって欲しいと願ってオペックホースと名づけた。ちなみにホースニュース社は大川慶次郎、井崎修五郎など著名な競馬メディア人が所属していたことで知られる。オペックホースは西橋豊治騎手を鞍上に1979年10月6日中京の新馬戦で初出走し、3番人気で3着も折り返しの新馬戦を1番人気で勝った。11月の阪神でのオープンも勝ち、阪神三歳ステークスに挑んだが牝馬ラフオンテースの4着に敗れた。
四歳となったオペックホースは熱発と阪神三歳ステークスで痛めた外傷を治癒するために休養し、1980年3月の毎日杯から始動となった。ここは5着に敗れたものの、郷原騎手に手替わりした中山の菜の花賞を10馬身差で圧勝。四歳クラシックの第一関門皐月賞に挑んだ。この年の皐月賞は不良馬場。オペックホースは重賞未勝利ながら前走不良馬場を圧勝したことを評価されて3番人気であった。しかしここにはオペックホース以上の重巧者
ハワイアンイメージが出走していた。オペックホースは直線大外から
ハワイアンイメージに迫ったがついに交わせず2着に敗れた。1番人気トウショウゴッドは道中で骨折した。その後ダービー前に東京のオープン戦に出走して2着であった。
第47回日本ダービーは晴れ・良馬場の東京競馬場で開催された。1番人気は前走NHK杯を7馬身差で圧勝した
モンテプリンス。この馬は重馬場が苦手で実力が発揮できないでいたが、良馬場に恵まれたダービーは鞍上吉永正人騎手も強気であった。調教で抜群の動きを見せていたオペックホースは2番人気であった。後に第1回ジャパンカップで「日の丸特攻隊」と称されることになるサクラシンゲキが逃げ、
ハワイアンイメージ、
モンテプリンス、オペックホース、そして本格化前の
アンバーシャダイの順で好位追走した。やがて直線を迎え、有力各馬が動き始めた。
ハワイアンイメージがまず脱落した。しかし逃げたサクラシンゲキが予想外に粘った。
モンテプリンスがこれをようやく競り落としてゴールを目指した。オペックホースは郷原騎手の剛腕に促され、一完歩ごとに
モンテプリンスに迫った。
モンテプリンスはもう脚を使い果たしていた。オペックホースは追う者の強みで、
モンテプリンスをクビの差交わしてダービー馬の栄冠に輝いた。赤一色の勝負服を着た郷原騎手はデビュー19年目でダービージョッキーとなった。鵜川町からダービー馬が出たのも初めてだった。
四歳秋は10月末阪神オープン6着を叩いて、菊花賞に出走。前走の結果からダービー馬でありながら7番人気の低評価。結果は
ノースガストの10着に惨敗した。
1981年五歳となったオペックホースは元気にレースに出走した。しかし9度の出走でオープンと朝日チャレンジカップの2着が最高で、天皇賞・春は
カツラノハイセイコの12着、宝塚記念は
カツアールの6着、有馬記念は
アンバーシャダイの4着に敗れた。
1982年六歳は6度の出走で、初戦のマイラーズカップ3着が最高で、天皇賞・春は
モンテプリンスの7着、有馬記念は
ヒカリデユールの9着に敗れた。ここまでオペックホースはダービー以来勝利から遠ざかっていた。しかし馬は左前の深管骨瘤に悩まされたり、軽い熱発はあったものの競走生命に影響のあるような大病したわけでもない。関係者も「ダービー馬に何とかあと1勝を」という気持ちでターフに送りだしていたのだろう。あとから考えると、オペックホースの引退時期はこの年の天皇賞・春だったかもしれない。
1983年七歳は7度の出走で、そのうち6度は春季であった。マイラーズカップの3着が最高で、天皇賞・春は
アンバーシャダイの8着、宝塚記念は
ハギノカムイオーの9着であった。人気もそれぞれ15頭中13番人気、13頭中11番人気であり、ダービー馬の栄光は完全に色褪せたものとなっていた。関係者もさすがに引退を決意し、中央競馬会の種牡馬試験を受験するも不合格と判定された。地方競馬へトレードする話もあったが、ダービー馬の名誉を守るため断念した。
八歳となった1984年春は金杯から鳴尾記念まで重賞競走を5度出走するも、5着、5着、7着、8着、6着。佐藤勇師と角田輝雄オーナーは平地に限界を感じて、障害入りを決意した。しかし過去、菊花賞馬
ダイコーターが障害入りした例はあるが、ダービー馬の障害転向は前代未聞のことである。ファンから抗議の声が殺到した。結局佐藤師は障害入りを断念せざるをえなかった。
オペックホースはその後秋まで休養し、朝日チャレンジカップを12着の最下位入線。11月25日はジャパンカップで
ミスターシービーと
シンボリルドルフによる日本競馬史上初の三冠馬対決に湧いていた。彼らの先輩ダービー馬であるオペックホースは同じ日の京都のトパーズSに出走し8着に敗れた。引退レースは暮れの中京のダート重賞ウインターステークス(G2)であった。中京はオペックホースは初出走した場所であった。鞍上にはその時と同じ西橋豊治騎手がいた。12頭立ての最後方を進むオペックホースは、哀れにも殿りで入線した上に、ゴール前で左繋靭帯を断裂させてしまった。馬運車に乗って消えるオペックホースは生涯成績41戦4勝。あのダービー以降ついに未勝利に終わった。
その後、オペックホースは谷川畜産の社長でもある谷川弘一氏に引き取られ種牡馬となることができた。全く期待されておらず種付け料もタダ同然であった。しかし初年度産駒のベストンダンディがホッカイドウ競馬で北斗杯、王冠賞、瑞穂賞、岩見沢・ジュニアカップを勝つなど活躍し、種付け料も20万円にまで上がった。その後は京成杯2着のマイネルヤマトを出したものの、その他は活躍馬を出すことなく2005年10月31日、門別町の谷川牧場清畠トレーニングセンターで老衰のため永眠した。
オペックホースといえば、「史上最弱のダービー馬」とか「燃え尽きたダービー馬」という言葉が尾びれのように付いて回り競走能力の低さばかりが強調される。確かにその言葉を覆すだけの戦績ではない。しかし1980年5月の最後の日曜日に最も輝いた馬はオペックホースであることに疑う余地はない。しばしば馬は頭が良過ぎると、全力疾走しても自らは何も得るわけではないことに気付き、丸っきり走らなくなるという。オペックホースという馬はもしかするとダービーというレースの重要性を知っていて、ここを勝てばもう全力で走らなくてもいいと思っていたのかもしれない。成績優秀な馬はすなわち賢い馬だとはいえないのでないだろうか。
2009年6月19日筆
2022年4月5日加筆