[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
テイタニヤは1973年4月24日、北海道静内町の池田正義氏の牧場で生まれた。父アローエクスプレスは1968年生まれ。1970年のクラシック路線で西の横綱
タニノムーティエに対する東の横綱として君臨した。結局、朝日杯三歳Sを勝っただけで、旧八代競走を勝つことはできなかったが、種牡馬として成功し、テイタニヤの他、オークス馬
ノアノハコブネ、桜花賞馬
リーゼングロスなど数多くの重賞勝ち馬を輩出し、リーディングサイヤーにも輝いている。母ダイニトモコは現役時代はギンヒメを名乗り19戦1勝。繁殖牝馬となって初年度は流産し、3年目に当時新種牡馬だったアローエクスプレスと交配した。ダイニトモコの初仔がその後テイタニヤとなる鹿毛の牝馬だった。母の父シプリアニCiprianiはイタリア産馬。現役時代はイギリス、アイルランドで過ごしサセックスSを2着するなどしたものの17戦4勝と凡庸な成績で、引退後日本に種牡馬として導入された。代表産駒としては牝馬として天皇賞・秋、有馬記念を勝った
トウメイ、皐月賞とダービーに勝った
ヒカルイマイ、桜花賞馬
アチーブスターなどを輩出し、関係者の期待以上の実績を上げた。種付け中の事故で十六歳で早世したのが惜しまれた。
テイタニヤの誕生直後、予期せぬことが起きた。母ダイニトモコがテイタニヤの授乳を拒否したのだ。当時の池田牧場は乳牛飼育も行っていて、牛乳の匂いが付着したままのタオルでテイタニヤの身体を拭いたことが原因らしかった。何とか牧場関係者は母と仔を固定して授乳できるようにしたが、1ヶ月後ダイニトモコの乳が上がって枯渇してしまった。哺乳動物の仔が乳を飲めないことは死を意味する。生産者の池田正義の妻頼枝は常にテイタニヤの傍らに寝泊まりし、粉ミルクを与えて続けてテイタニヤを育てた。このように人間の手で育てられたテイタニヤは他の馬と群れることなく、孤独の時間が長かった。馬が近づくと拒み、荒い気性が形成された。しかし素質は光るものがあって、ダイニトモコの生産者は親戚の原八衛氏に「桜花賞を勝てる馬だ」と吹っ掛けて購入を勧めた。原八衛氏はこれを500万円で購入した。ちなみにダイニトモコはその後出産した仔馬に授乳拒否をしなかった。
二歳秋、栃木・那須野牧場で育成されたダイニトモコの鹿毛馬はテイタニヤと名付けられ、東京・稲葉幸夫厩舎に入厩した。テイタニヤはシェイクスピアの歌劇「真夏の夜の夢」の登場人物で妖精の女王ティターニアに由来する。気性の荒いテイタニヤは若手・中堅厩務員が担当するのを尻込みし、定年直前のベテラン厩務員が担うことになった。
1975年三歳となったテイタニヤは7月20日、新潟の新馬戦1000mに嶋田功騎手を鞍上に初出走した。ここは出遅れて2着に敗れたが、ゲート練習を特訓して挑んだ折り返しの新馬戦は2着に8馬身差をつけるタイレコードで勝利した。続く新潟三歳ステークスは1番人気に支持されたものの4着に敗れた。さらに中山の条件戦も3着に敗れたものの、東京のオープン、いちょう特別、三歳牝馬ステークスでは3馬身差で勝って3連勝とし、最優秀三歳牝馬に選出された。
1976年四歳となったテイタニヤはクラシックを目指し、早くも1月5日の新春四歳牝馬ステークスから始動。1番人気に推されたものの7着に敗退した。再びゲート練習を特訓して挑んだ2月29日の重賞クイーンカップに挑んだ。稲葉師はここを負けたら桜花賞を断念するつもりだったが、好スタートから大外を伸びて1番人気に応えた。その後テイタニヤは栗東トレーニングセンターに移り、前哨戦を使わず、桜花賞に挑むことになった。
第36回桜花賞は4月11日曇・良馬場の阪神競馬場で開催された。テイタイヤはトライアルを勝ったスカッシュソロンに1番人気を譲り2番人気であった。テイタニヤはこの大事な本番で克服したはずの出遅れ癖を再発してしまい、22頭立ての後方4,5番手を進んだ。当時の阪神競馬場の1600mコースはスタート直後にすぐに2コーナーカーブがあり、間に直線部分もある長い3,4コーナーのあとには、350mと短い直線が控えるという変則的コースで、しかも桜花賞は多頭数であることは出遅れは挽回が利かない致命傷である。3コーナーでテイタニヤの手応えが怪しくなった。嶋田騎手はテイタニヤを必死に追った。コースロスを避けるため内に進路を取って順位を上げたが、馬群に包まれて進路がなくなってしまった。直線に入って嶋田騎手は大外に進路を取りムチを一発入れた。もうテイタニヤには余力が残っていない。しかしテイタニヤは最後の頑張りを見せた。そして好位から抜け出したクインリマンドを1馬身半捉えた。テイタニヤはこうして牝馬の最大目標といえる桜花賞を制した。しかしこんな長い時間を追い続けてクラシックを勝ったのはのちの菊花賞馬
ヒシミラクルくらいだろう。鞍上の嶋田騎手はテイタニヤの勝負根性に脱帽した。稲葉師はテイタニヤをオークスに直行させた。
第37回オークスは5月23日曇・不良馬場の東京競馬場で開催された。ここは桜花賞馬テイタニヤが1番人気に支持された。レースはのちに三冠馬
ミスターシービーの母となるシービークインが逃げた。テイタニヤは出遅れることなく6番手につけて機を伺った。最後の直線でシービークインが粘ったが、桜花賞2着のクインリマンドがこれを捕らえた。しかし先頭に立ったところで斜行してしまい、その隙にテイタニヤがこれを交わして先頭に立った。内から伸びたニッショウダイヤの追い込みをクビの差退けて、桜花賞・オークスを制し、前年の
テスコガビーに続く牝馬二冠馬となった。嶋田騎手は史上最多となるオークス4勝を達成した。
その後、当時はハンデ重賞戦だった安田記念で古馬の胸を借りた。1番人気に推されたが、重馬場で力を発揮できず10着。秋になって京王杯AH、オールカマーに出走しともに4着として、エリザベス女王杯で牝馬三冠に挑戦した。人馬ともに絶好調を伝えられたが、同じ厩舎の
ディアマンテの4着に敗れた。年末の有馬記念は
トウショウボーイ、
テンポイント、
エリモジョージなど歴戦の強者揃いで13番人気と低評価だったが、
トウショウボーイ、
テンポイントらに続く5着と健闘した。翌年、牝馬二冠が評価されて最優秀四歳牝馬に選ばれた。
1977年五歳となったテイタニヤは前年春の輝きを取り戻せなかった。2月の東京新聞杯から11月の
カブトヤマ記念まで8戦したが5着が最高で未勝利に終わった。同年の11月26日に東京競馬場で引退式を行い、ファンに別れを告げた。
翌年池田牧場で繁殖牝馬となったテイタニヤは、8頭の仔馬の母となったが、目立った活躍をした産駒を残すことができなかった。2023年現在も母系は辛うじて受け継がれているものの、もはや風前の灯火である。1993年には繁殖牝馬を引退。その後は同牧場で功労馬として余生を送り。二十六歳となった1998年3月27日、心臓麻痺で永眠した。現役を引退してからも気が強く、人の手に余ったテイタニヤだが、育ての親といっていい頼枝夫人には忠実だったという。彼女にとっては何よりも無事に競走馬となり、大往生しただけでも十分だったに違いない。
2023年6月24日筆