[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
メイショウサムソンは2003年3月7日、浦河の林孝輝氏の牧場で生まれた。父オペラハウス1988年英国産馬。世界的大種牡馬ノーザンダンサーの産駒で欧州で種牡馬として大成功したサドラーズウェルズの仔として日本に導入された。日本における代表産駒してはGI7勝したテイエムオペラー、地方所属として初めて中央G1を制した
メイセイオペラなどがいる。母マイヴィヴィアンは1997年静内産。現役時代は10戦全敗と冴えなかった。しかしこのマイヴィヴィアンの母系には魅惑的な血統が仕込まれていた。4代母の
ガーネツトは牝馬にして天皇賞・秋と有馬記念を連覇した名馬で、繁殖馬としても成功し、その子孫にはこのメイショウサムソンの他に、アサクサスケールがエリザベス女王杯の2着となり、きさらぎ賞と小倉大賞典を勝ったメジロマイヤー、中山大障害3連覇のポレールといった馬を輩出している。母の父ダンシングブレーヴは80年代欧州最強馬と評価された名馬で、種牡馬となってからは「マリー病」という奇病を患い、日本に売却された。関係者が厳選した繁殖牝馬に交配され、桜花賞を勝った
キョウエイマーチ、高松宮記念を勝った
キングヘイローといった馬を輩出している。
「メイショウ」の冠号で知られる松本好雄氏の持ち馬として、栗東・瀬戸口厩舎に入厩した明るい鹿毛のマイヴィヴィアン産駒はメイショウサムソンと名付けられた。ちなみにサムソンとは大男を意味した。オーナーの松本氏は全くの趣味で馬主をやっていると自称している人物で、競馬で金儲けをする気持ちは持ち合わせていなかった。したがって社台・ノーザンファームの生産馬のような賞金を稼ぐが高価な馬ではなく、安価だが賞金をあまり稼がない馬を昔から付き合いのある日高の零細牧場から大量に買っては、適当な厩舎に振り分けていた。そのため社台ノーザンの攻勢に喘ぐ零細牧場からは「メイショウさん」と崇められていた。瀬戸口師にしてもメイショウサムソンに大人しさを認めても能力をさほど評価していたわけではなかった。
2005年7月31日、2歳のメイショウサムソンは小倉の新馬戦で石橋守騎手を鞍上に初出走を迎えた。通常、クラシックを狙う馬は京都、東京など中央4場か涼しい札幌、函館で初出走することが多い。この夏の小倉で初出走したこと自体、当時におけるメイショウサムソンの関係者の評価がうかがえる。メイショウサムソンは初戦は2着に敗れた。次の8月の未勝利戦も3着に敗れ、9月の未勝利戦でようやく勝ち上がった。2週後阪神のオープン特別を勝ち、10月京都のオープン特別は重馬場で4着、東京に遠征して重賞の東京スポーツ杯2歳S(G3)はのちに朝日杯FSを勝つことになる
フサイチリシャールの2着に敗れた。重賞2着で獲得賞金が加算され、次走のオープン特別の中京2歳Sは2歳馬としては珍しい57キロを背負わされた。しかしこれをコースレコードで完勝。関係者は手応えを得て、2歳競馬を終えた。
2006年3歳となったメイショウサムソンは京都のきさらぎ賞(GIII)から始動した。1番人気に支持されながらも、ドリームパスポートに内を突かれて2着に敗れた。続くスプリングS(GII)は4番人気にとどまったものの、
フサイチリシャール、ドリームパスポートの両馬の追い込みを何とか抑えて初重賞勝利と皐月賞優先出走権を手にした。
第66回皐月賞は曇・良馬場の中山競馬場で開催された。弥生賞の勝ち馬で後にジャパンカップなど勝つことになる
アドマイヤムーンが1番人気に支持され、メイショウサムソンは6番人気と低評価だった。メイショウサムソンの強みはこの低人気で他馬のマークが緩くなることと、この皐月賞で9戦を迎えるという経験値であった。とにかくゴール板を早く駆け抜ければいいと知っていたメイショウサムソンは、平均的なペースに動ずることなくその身を委ね、直線で先頭に立つと、スプリングSと同じように内のドリームパスポート、外の
フサイチリシャールの追い込みを半馬身かわして優勝した。鞍上の石橋守騎手はGI初勝利、瀬戸口師は
ネオユニヴァース以来の皐月賞制覇となった。
第73回日本ダービーは晴、前日からの雨が上がり稍重の東京競馬場で開催された。皐月賞馬のメイショウサムソンは1番人気に支持された。鞍上の石橋守騎手は新人の頃は将来を嘱望されたものの、実力のある若手に追い抜かれ22年の歳月を経ていた。近年はGI競走に名を連ねるどころか、一般競走の騎乗数すら確保できない有様だった。石橋に騎手時代から慕われていた河内洋調教師は、ダービー当日に自厩舎の馬を東京に遠征させ、石橋に騎乗を依頼した。東京コースの経験の少ない石橋に、ダービー直前にコースを経験させることで、本番の緊張を和らげるためであった。結果は第5レースにメイショウソーラーで出走し11着であった。しかしそうした配慮もあって石橋騎手はある程度の自信を持ってレースに挑めた。本番のダービーは3番人気のアドマイヤメインが逃げ、メイショウサムソンが好位を追走。アドマイヤメインの逃げは超スローペースとなり、前残りの展開となりながらも、直線手前ではメイショウサムソンが射程内に入っていた。メイショウサムソンは直線で逃げ込みを図るアドマイアメインを残り200mで捉え先頭に出た。ゴール手前石橋騎手が手綱を緩めたところに、アドマイヤメインが差し返したが、クビの差残った。アドマイヤメインに騎乗していた柴田善臣騎手は石橋騎手と競馬学校同期生。GI競走の常連ながらダービーは未勝利の柴田騎手。対して騎乗馬の確保すら苦労している石橋騎手。しかしそのような騎手がダービーを勝つのが勝負事の面白いところだ。艱難辛苦の石橋騎手が勝利が確定した時、検量室では他の騎手に大いに祝福されたという。
二冠馬となったメイショウサムソンは放牧せず栗東で夏を越した。調整は順調だったが目方が20キロも増えてしまった。これは成長分と思われたが、実際はその後のメイショウサムソンの動きに鋭さが見られなくなった。秋初戦、神戸新聞杯(GII)に出走したメイショウサムソンは1番人気に支持された。ソツなくレースを進めたが、ドリームパスポートのクビの差2着に敗れた。勝てば前年の
ディープインパクトに続く三冠達成となる菊花賞は1番人気に支持された。武豊が騎乗するアドマイヤメインの大逃げを離れた馬群から見るようにレースを進め、三分三厘から追い上げに掛かった。しかし直線でバテるアドマイヤメインをかわせず、逆に
ソングオブウインドとドリームパスポートに置き去りにされた。レコード勝ちした
ソングオブウインドに遅れること3馬身、馬券圏外の4着に敗れ、三冠の夢は消えた。敗因としては石橋の騎乗に問題があったのではなく、馬自身が何らかのストレスを感じていたのでは分析されたが、関係者にとっても首を傾げる大一番の走りだった。
続いて、ジャパンカップと有馬記念に出走し、それぞれディープインパクの6着、5着に敗れた。調子が上がらない状態ではあの
ディープインパクトに通用するはずはなかった。それでも翌年のJRA賞で最優秀3歳牡馬に選ばれた。
2007年4歳となったメイショウサムソンは
ディープインパクトが引退したあとの競馬界の中心的存在として期待された。メイショウサムソンはグリーンファームに放牧され英気を養った。その間、2月末をもって瀬戸口調教師が引退し、メイショウサムソンは高橋成忠厩舎に転厩した。環境が変わって不安視された初戦の大阪杯(GII)は、中団待機から差し切る横綱競馬でシャドウゲイトに半馬身差をつけて勝ち1番人気に応えた。
第135回天皇賞・春は晴良馬場の京都競馬場で開催された。メイショウサムソンは2番人気であった。1番人気はステイヤーズSと阪神大賞典のという3000m以上の重賞を連勝したアイポッパーだった。その当時2000mの大阪杯と天皇賞・春を連勝した馬は
スーパークリークのみで相性の悪さが懸念されたと思われた。菊花賞馬でオーストラリアのメルボルンカップを勝った
デルタブルース、ダイヤモンドSの勝ち馬トウカイトリックなど長距離実績のある馬が人気を集めた。GI未勝利のアイポッパーに1番人気を奪われた二冠馬メイショウサムソンは本気の走りを見せた。スタートから中団を追走、直線手前で先頭に出た。そこにトウカイトリックとエリモエキスパイヤの追撃を受け、3頭は横一線に並んだ。メイショウサムソンはそこから石橋騎手のムチに応えて2頭を競り落とし、トウカイトリックをハナの差凌ぎきって栄冠を手にした。勝つ時はいつも辛勝。ゴール板を知っているかのような走りだった。高橋成忠師は厩舎開業30年目で初のGI制覇となった。
続いてメイショウサムソンは宝塚記念に出走した。ファン投票は1位だったが、牝馬として64年ぶりにダービーを制した
ウオッカが参戦し1番人気を奪われて、2番人気で出走した。天皇賞と同様に、屈辱をバネにした走りを期待されたが、
ウオッカをかわしたところに3番人気の
アドマイヤムーンが伸びてきて半馬身差の2着に終わった。その後登録していたフランスの凱旋門賞は出国直前にインフルエンザに感染し、出走を断念した。メイショウサムソン陣営は秋は国内に専念し天皇賞・秋に直行することになった。
第136回天皇賞・秋は晴れ良馬場の東京競馬場で開催された。メイショウサムソンの鞍上には武豊騎手が配された。これは松本オーナーの意向で、凱旋門賞は海外での騎乗経験のない石橋ではなく、武豊で挑戦することに決まっていて、その流れに沿ったものだった。石橋は河内洋師を通じて武豊とも親交があり、石橋はむしろ喜んで武豊に手綱を託した。メイショウサムソンは1番人気に支持された。人気は宝塚記念で負けた
アドマイヤムーン、前年の覇者
ダイワメジャーと続いた。メイショウサムソンは中団の内に進路を取った。そして直線に入ると一瞬空いた内を突いて、後続を突き放した。捨て身の追い込みを見せたアグネスアークに2馬身半差をつけて完勝。
タマモクロス、
スペシャルウィーク、
テイエムオペラオーに続く史上4頭目の同一年度天皇賞春秋連覇を達成した。
その後メイショウサムソンはジャパンカップを1番人気に支持されたものの
アドマイヤムーンの3着、有馬記念はやはり1番人気に支持されたものの
マツリダゴッホの8着と精彩を欠いた。あとから考えるとメイショウサムソンは天皇賞・秋で自分の仕事は終えた気でいたのかもしれない。この年は年度代表馬と最優秀4歳以上牡馬には選ばれなかったものの、天皇賞連覇を評価されて、牝馬にしてダービーを制した
ウオッカとともに特別賞が贈られた。
2008年5歳となったメイショウサムソンはこの年限りの引退が発表された。春はドバイ遠征が計画されたが、検疫面からこれをとりやめ天皇賞・春と宝塚記念を目標に定めた。大阪杯(GII)を
ダイワスカーレットの6着として、挑んだ天皇賞・春は
アドマイヤジュピタの叩き合いに頭差及ばずの2着。続く宝塚記念は
エイシンデピュティに逃げを頭差捉えられずの2着に敗れた。勝ちきれない内容に不満が残るものの、GIで連続2着したことは上がり目があると見なされて、秋は前年断念した凱旋門賞に挑戦することになった。
フランスに遠征したメイショウサムソンはぶっつけで凱旋門賞に挑んだ。環境の変化やレースの流れについて行けず10着と大敗した。日本に帰国後はジャパンカップに出走。武豊騎手は
ウオッカに騎乗したので、石橋の手に戻った。3番人気に支持されたが
スクリーンヒーローの6着。引退競走の有馬記念は武豊で挑み、
ダイワスカーレットの影も踏めず8着に敗れた。
翌2009年1月4日、京都競馬場で引退式が行われた。天皇賞・春を制した6番ゼッケンを身につけ、石橋騎手を背に芝コースに現れた。その後武豊騎手に乗り変わると軽快なキャンターで直線を駆け抜けた。引退式での騎乗は石橋だけでもよさそうなものだが、おそらく彼自身が武豊にも、と声かけしたのではなかろうか。
引退したメイショウサムソンは社台スタリオンセンターで種牡馬となった。日高贔屓の松本オーナーがライバルの社台グループに買ってもらったのは、零細牧場の多い日高地区にシンジケートするだけの経済的余力がないと察したからであった。サドラーズウェルズ系のメイショウサムソンをサンデーサイレンス系牝馬につけての配合に期待されたが、結果は芳しくなく、2013年には社台グループを追われ、浦河のイーストスタッドに移動した。ここでも結果を残せず、2021年に種牡馬を引退した。代表産駒としてはアルテミスステークスなど牝馬限定重賞を3勝したデンコウアンジュがいる。
テイエムオペラオーもそうであったが、やはりサドラーズウェルズ系の種牡馬は日本で成功するのは厳しいものであった。2022年からはひだかホースフレンズで功労馬として過ごしている。
メイショウサムソンと比較対象される存在として
テイエムオペラオーが挙げられよう。どちらもオペラハウスを父として日高の牧場で生まれ、GIで有力馬の騎乗機会に乏しい騎手に手綱を委ねられ、5歳で引退した。種牡馬成績が振るわなかったところまでそっくりである。
テイエムオペラオーがGI7勝、メイショウサムソンが4勝と差はあるものの、メイショウサムソンは活躍した時期は
テイエムオペラオーのそれと比べて、社台ノーザングループの攻勢が強まっていて、日高の産馬では太刀打ちできなくなりつつあった。そんな中でメイショウサムソン自身ストレスに強い体質でなかったこともあって、圧倒的な成績を残すことはできなかったものの、皐月賞、ダービー、天皇賞連覇と大きな実績を残し、日高の生産者達に一筋の希望を与えたのは大きい。それにしても確実といわれた
テイエムオペラオーのGI8勝目を宝塚記念で阻止したのは
メイショウドトウで、その同じオーナーのメイショウサムソンがその歩みを追いかけるというのは因縁めいている。また石橋守騎手にとってはメイショウサムソンには足を向けて寝られないだろう。何しろ小倉での新馬戦で武豊騎手が先約があったために巡ってきた騎乗機会を生かして、騎手なら誰もが夢見るダービージョッキーになったのだ。メイショウサムソンは幸の薄い人たちに幸せをもたらした。種牡馬としては失敗だったが、総合的には十分な成功だったのではないだろうか。
2022年4月30日筆