[解 説]
当Web siteでは漢数字の馬齢は旧年齢表記、算用数字の馬齢は満年齢表記
ニホンピロウイナーは1980年北海道門別町の佐々木節哉牧場にて生まれた。父スティールハートは1972年アイルランド産馬。イギリス、フランスなどで12戦5勝の実績で1976年よりアイルランドで種牡馬として供用され、1979年に日本に輸入され、1994年に他界した。現役時代は1200m以下の距離で活躍し、産駒も短距離馬が圧倒的に多い。主な産駒としては1986年のマイルCSを制した
タカラスチール、スワンSなど重賞3勝したナルシスノアール、マイラーズCを勝ったコンサートマスター、クイーンCを勝ったマザートウショウなどがいる。母ニホンピロエバートは現役時代は3戦1勝。ニホンピロウイナーは彼女の3番仔である。1番仔のニホンピロハイデンは中央で2勝をあげている。その母ライトフレームは1974年の皐月賞及び菊花賞を制した
キタノカチドキを産み出している。母の父チャイナロックは顕彰馬となった
タケシバオー、
ハイセイコーといった名馬の他、菊花賞馬
アカネテンリュウ、天皇賞馬
メジロタイヨウをはじめ重賞勝ち馬を数多く輩出して種牡馬として成功。母の父としても1979年から83年、および85年にリーディングブルードメアサイヤーを獲得するなど輝かしい実績を上げた。牝系を遡ると、7代前に小岩井農場が輸入したフロリースカップFlorries Cupという繁殖牝馬にたどり着く。フロリースカップは
コダマ、
シスタートウショウ、スペシャルウォーク、
ガーネツト、
カツラノハイセイコ、
スズカコバンなど数え切れないほどの活躍馬の母馬の血統表にその名を連ね、日本の生産界に大きな足跡を残している。
父と同じ黒鹿毛にでたニホンピロウイナーは小林百太郎氏の持ち馬として栗東・服部厩舎に入厩した。ちなみに叔父
キタノカチドキも服部師が管理していた。1982年9月阪神の三歳新馬戦を河内洋騎手を鞍上に初出走。2番人気ながら好時計で完勝。続いて三歳S 、デイリー杯三歳Sと連勝。関西の三歳王者決定戦である阪神三歳ステークスは1番人気で迎えられたがダイゼンキングに頭差差され2着に終わった。
四歳初戦は中京のきさらぎ賞。これも武邦彦を鞍上に逃げ切り、勇躍東上した。しかし1番人気で迎えられたスプリングSは不良馬場に逃げ脚を殺され6着に敗退。同じく不良馬場となった皐月賞は最下位入線の20着と大惨敗した。
服部師はこの結果から生涯一度しか挑戦できないダービーを諦め、思い切って短距離路線を歩ませることにした。まず古馬初挑戦となる6月の阪急杯こそ、後にライバルとなる
ハッピープログレスの9着だったが、中京四歳特別を快勝。しかしつづく1800mの金鯱賞は18着と大敗。マイル以上の距離では分が悪かった。そこでマイルのオープンに出走、苦手の不良馬場ながら2着すると、オパールS、トパーズSと連勝。12月中京のCBC賞も1番人気に応え、四歳馬ながら最優秀スプリンターに選出された。
五歳となった1984年、競馬番組が改定されマイルG1として、春に東京で安田記念、秋に京都でマイルチャンピオンシップが開催されることになった。ニホンピロウイナーは当然これらを目標とした。五歳初戦の淀短距離Sを快勝し、マイラーズカップに出走。不良馬場とはいえ得意のマイル戦とあって1番人気に支持されたが、2着に敗れた。その後軽い骨折が判明し、春季は棒に振ることになった。
五歳秋初戦は9月阪神の朝日CC。久々、2000m、60キロと悪条件だったが、何とか勝利を収めた。そして10月のスワンSは1400m戦にも関わらず、ほとんど馬ナリで2着
シャダイソフィアに7馬身差をつける快勝。主戦を務めた河内騎手によるとニホンピロウイナーはマイルよりも1400mの方が強かったという。
第1回マイルチャンピオンシップは
ハッピープログレスとの二強対決の様相を呈していた。先行抜け出しを得意とするニホンピロウイナーに対して、後方待機から追い込みを得意とする
ハッピープログレスと脚質も対照的であった。
ハッピープログレスは安田記念を制していたとはいえ、ニホンピロウイナーが不在であったこと、この年の直接対決で敗れていること、脚質の不安定さなどから、ニホンピロウイナーが圧倒的1番人気で迎えられた。
ハッピープログレスは四歳馬ダイゼンシルバーにも僅かに人気を下回る3番人気であった。いつものように好位でレースを進めるニホンピロウイナーに対して、
ハッピープログレスは最後方と予想通りの位置取り。しかし3コーナー過ぎから
ハッピープログレスの田原成貴騎手は一気に仕掛け、先頭に踊り出る奇襲策を用いた。ニホンピロウイナーの河内洋騎手は慌てることなく、
ハッピープログレスを一完歩ごとに追い詰め、最終的に半馬身差で優勝。記念すべき第1回マイルCSを制した。また2年連続で最優秀スプリンターに選出された。
1985年六歳となったニホンピロウイナーはまず前年獲り損ねた安田記念を目指した。初戦のマイラーズカップを手堅くものにし、2000mの大阪杯は8着だったものの、得意の1400mの京王杯SCを楽勝、安田記念に駒を進めた。
第35回安田記念はライバルだった
ハッピープログレスも引退して、有力なライバルも存在せず、ニホンピロウイナーは単枠指定の1番人気に支持された。単勝支持率は実に67.1%を記録した。いつものように好位置をキープして直線を抜け出しを図り、1番人気に応えた。スズマッハに3/4馬身まで詰められたがどこまでも楽勝だった。
マイルでは無敵であることを証明したニホンピロウイナーは、秋になり自らの距離限界を越える2000mの天皇賞を目指すことになった。東上初戦の毎日王冠は60キロと不良馬場が堪えて4着に敗れた。そして天皇賞は史上最強馬
シンボリルドルフが出走していて、ニホンピロウイナーには如何にも分が悪いように思われた。
シンボリルドルフが
ギャロップダイナの2着に破れる大波乱となる中、ニホンピロウイナーは中距離巧者のウインザーノットと3着を分け合い、力に差のないところを示した。
第2回マイルチャンピオンシップでニホンピロウイナーは1番人気に支持されたものの、激走した天皇賞から中2週ということもあって、関係者も自信を持って送り出せる状態ではなかった。しかしニホンピロウイナーはマイルの帝王だった。いつものように好位置から抜け出しトウショウペガサスに3馬身差をつけて楽勝。ニホンピロウイナーは京都競馬場と相性がよく7戦無敗で引退レースを飾った。この勝利により3年連続で最優秀スプリンターに表彰された。
翌1986年、運動中に前脚を骨折して京都競馬場の引退式は行われず、2月下旬種牡馬生活に入る門別・下河辺牧場日高支場に旅立った。5億円のシンジケートが組まれ、初年度は61頭の種付けを行った。豊かなスピードと素直な性格は産駒に引き継がれ、種牡馬としても成功した。主な産駒としては1992年と93年の安田記念を連覇し、天皇賞・秋も得た
ヤマニンゼファー、1996年の高松宮杯とスプリンターズSを制した
フラワーパークのGI馬の他、CBC賞を勝ったニホンピロプリンス、トーワウイナー、東京新聞杯を勝ったホリノウイナー、京都四歳特別を勝ったニホンピロエイブルなどがいる。これらの産駒の勝ち鞍を見てわかるように、父と同様に2000mを越える距離では限界を示してしまう産駒が多かった。しかし晩年の産駒メガスターダムが2002年の菊花賞で3着に頑張った。2003年シーズンの種付けを最後に種牡馬を引退、生まれ故郷の佐々木節哉牧場に戻って余生を過ごしていたが、2005年3月17日、心臓麻痺のため永眠した。享年25歳。
1984年の中央競馬番組改善で誕生した安田記念、マイルCSの両マイルGI競走は、今日ではファンに何の違和感なく受け入れられている。これには初期においてニホンピロウイナーというマイルでは絶対に強い馬が存在していたことが大きく貢献していたことは間違いない。いくら番組が整備されても、役者が揃わなければ、ファンの注目度が自然と下がり、関係者にとっても権威のないマイルCSよりも、距離的に厳しくても天皇賞・秋を狙うという事態が定着化していたかもしれない。もちろんニホンピロウイナーにとってもこの番組改善は自身の評価を高めるのに絶好の機会であったが、競馬会にとっても実にタイミングよくスターホースが現れたものだと感謝しなければなるまい。ニホンピロウイナー自身、G1競走を3勝し、産駒もG1馬2頭、延べ5勝をあげている。そして前述の競馬会への貢献を考えれば、顕彰馬として殿堂入りしてもおかしくはない。しかしそれが果たされていな原因のひとつは、皐月賞の殿り負けではないだろうか。名馬に惨敗が許されない、やはりマイル路線はダービーを頂点とするクラシック路線より一枚落ちる、といった関係者の美意識と潜在意識がそうさせているのだろう。美意識はともかく潜在意識が払拭するにはまだ数十年を要するであろう。
2006年3月5日筆